暁の境界線

第1話

 ドアを開ければカラン、とベルが響き微かなタバコとコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。遅れて冷えた空気が流れ出し、伊織は思わず顔を綻ばせる。外はうだるような暑さだ。忙しない蝉の声がそれを助長しているように思えた。

 横浜中華街にほど近い関内駅から徒歩10分ほどの場所にある、昭和の雰囲気を色濃く残すこの喫茶店が待ち合わせの場所だった。


 店内はダウンライトの落ち着いた雰囲気で、新聞や文庫本を読みながら自分だけのティータイムを楽しむお客さんがぽつぽつと座っている。

 伊織は入り口から見えやすい席についた。臙脂色のベロア生地のソファはクッションがよくきいて身体が沈み込む。アルバイトらしき女の子が水を持って注文を聞きに来た。

「連れが来るので、後から声をかけます」

 伊織がそう言うと、女の子は水を置いて去って行く。緊張した面持ちからすると、夏休みの間だけバイトに入った高校生のようだ。


 黒木とレンガを組み合わせた壁面に、飾り窓にはステンドグラスが設えてある。天井からぶら下がるチューリップ型のシャンデリアがレトロモダンな雰囲気を演出している。

 看板メニューは鉄板ナポリタン。熱々の鉄板にナポリタンスパゲティ、その中央には卵がひとつ落としてある。これは美味しそうだ。


「おまたせ」

 声をかけられて伊織は顔を上げた。ショートカットの髪を明るいブラウンに染め、色つきサングラスをかけた原田が向かいの席に腰を下ろす。ゆったりしたVネックのシャツに細身のジーンズ、サンダル姿だ。40代と聞いていたが、溌剌とした表情から年齢よりも若く見える。


「久しぶりねえ、伊織くん」

「原田さんもお元気そうですね」

 原田に下の名前で呼ばれて伊織は一瞬戸惑った。伊織の表情に気が付いたのか、原田が笑いながら伊織の肩をポンポンと叩く。

「ごめんごめん、君とはずっと昔から知り合いのような気分になっちゃって。親しみ易いのかな。それに伊織くんて呼びやすいんだよね」

 今後も伊織と呼ぶという宣言のようだ。

 伊織はアイスコーヒー、原田はアイスレモンティーを注文した。


 原田真智子は個人でデザイン事務所を構えており、イラストレーションやデザインの仕事を請け負っている。原田とは伊織が都内の中堅広告代理店、TKコミュニケーションズに勤めていた頃に知り合った。

 職場の後輩が無断でイラストを使用したことのお詫びで、伊織が原田の事務所を訪問したのがきっかけだった。今日は伊織が雑誌社に転職してから初めての顔合わせとなる。雑誌のコラム記事のイラストを頼めないかとメールを送ったところ、久しぶりに会おうという話になったのだ。


「そうか、転職したんだね。うん、良かったよ。TKはブラックな噂も多いし、まあ広告代理店なんてホワイトな方が珍しいけど」

 原田は伊織の名刺を見ながらひとりうんうん、と頷いている。

「わざわざ来ていただいてありがとうございます」

「久しぶりに君の顔を見たいと思ってね。なんだか面構えが逞しくなった気がするなあ、転職大変だったんじゃないの」

 原田が伊織の顔をまじまじと見つめる。TKコミュニケーションズを退職してすぐに無理矢理押しつけられたバイトで異国のプロの暗殺者と出会い、日本のヤクザや中国マフィアと戦いながらハルビンに乗り込んで麻薬工場を壊滅させる手伝いをしました、なんて言えない。伊織は苦笑いで返した。


「今の仕事、すごくいいじゃない。日本と中国の文化の橋渡しか、意義のある仕事だね」

 原田は伊織がサンプルで持参した雑誌を興味深く捲っていく。

「このコラムページが殺風景で、ぜひ原田さんに毎号イラストをお願いしたいんです」

 伊織はコラムの概要とイメージを伝えた。

「了解、次号のイラストのラフスケッチができたらメールで送るわね」

 小さな仕事だが、気持ち良く引き受けてくれた原田に伊織は感謝を伝えた。


「しかし、君も律儀だね」

 レモンティーを飲みながら原田は微笑む。

「以前の会社では仕事をお願いする案件がなかなか無くて、今回は俺の采配で誌面を作れるので、ぜひ原田さんにイラストを描いてもらいたかったんです」

「そう言ってもらえて嬉しいわ」

「今後ともよろしくお願いします」

 伊織は頭を下げた。


 中華街まで足を伸ばし関帝廟にお参りをして、榊に頼まれていた王府井の焼き小籠包を買う。関内駅へ戻る途中、裏路地から怒声が聞こえて伊織は思わず足を止めた。

 恐る恐る薄暗い路地を覗き込むと、ライトグレーのスーツにオールバック、黒のサングラス、白い半袖短パンのジャージにサンダル履きの金髪坊主、金色の唐草模様の黒シャツに白ズボンの明らかにカタギではない男たちの姿があった。

 サイドを刈上げたベリーショートの長身の男を囲んで脅しをかけている。


「次の試合も頼むぜ、翔平くん」

 頭ひとつ分小さな白ジャージが首を傾けて翔平を見上げながら猫撫で声を出す。翔平と呼ばれた男は壁に背を向けて立ったまま押し黙っている。

「この間もめちゃくちゃ盛り上がってよ、儲けさせてもらったんだ」

「お前もこの道場を手放したくはないだろう」

 続けて黒シャツがドスの効いた声を張り上げる。伊織が雑居ビルを見上げると、琉球空手と筆文字の看板が掲げられていた。翔平はこの道場の管理者なのだろう。


「それはできない」

 翔平は怯えた様子もなく、低い声で答える。漲る怒りを抑えているが、ヤクザ共はそれに気が付かない。

「お前、この道場の家賃、どれだけ滞納してるか知ってるか、3か月だ。こんな汗臭いオンボロ道場なんて流行らねえんだよ、やめちまえ」

 白ジャージが短い足で翔平のすぐ脇の壁を蹴る。翔平は眉一つ動かさない。


比嘉ひがさん、俺たちは辛抱強い。本来ならすぐにでも出ていってもらうところをこれだけ待ってやっている。その代わりに試合に出てくれないか」

 スーツの男が穏やかな声で翔平に語りかける。胸ポケットからタバコを取り出し、金張りのライターで火を点ける。

「あまり強情を張ると、何が起きるかわからんぞ。例えば原因不明のボヤとかな」

 スーツ男が翔平の目の前でライターの火を揺らめかせる。翔平は静かに拳を握りしめた。そのとき。


「おまわりさん、こっちです」

 大通りから声が聞こえた。スーツ男はライターを慌ててポケットにしまう。白ジャージと黒シャツが慌てて大通りに駆け出し、左右を見渡す。しかし、警官の姿はない。

「お前か、さっき叫んだのは」

 白ジャージが伊織を見つけて顔を歪める。内心ビビらされたことに腹を立てていた。

「も、もうすぐ来ますよ」

 伊織は震える声を押し隠し、白ジャージに向き合う。黒シャツも伊織に近づいてくる。


「あんちゃん、俺たちは話し合ってただけだ。余計なことすんなよ」

 黒シャツが伊織の襟首を掴む。首を絞め上げられて伊織は呻く。

「おい、よせ」

 翔平が黒シャツの肩を掴む。黒シャツは肩を押えてこれ見よがしに痛がるフリを始めた。


「うおお、痛え。肩が痛え」

「大丈夫か。これは折れてるかもな」

 わざとらしく痛がってみせる黒シャツに、スーツ男も同調する。肩に手を乗せただけだ。そんなはずはない。

「空手の有段者がいたいけな一般人に暴力を振るうとは、どうしたものかな」

 スーツ男がニヤリと笑う。やられた、翔平は唇を噛んだ。


「肩がどうした」

 突然、現われたアッシュゴールドの髪に白シャツ、黒いレザーパンツの長身の男が黒シャツが押さえた肩を掴む。そのまま腕を上げ下げしてみるが、痛がるフリを忘れた黒シャツは唖然として男を見上げているだけだ。

「なんともない」

 レザーパンツの男は狂言だと言い放つ。頭にきた黒シャツが男に殴りかかった。男は手の平で拳を受け止める。


「これは正当防衛だ」

 レザーパンツの男が渾身の右ストレートを放った。黒シャツは派手に吹っ飛び、路地裏のゴミバケツにぶつかって気絶した。軽く殴らせておいて、豪腕のカウンターを食らわせる。元極道、榊の常套手段だ。

「お、覚えてやがれ」

 捨て台詞を残し、スーツと白ジャージが黒シャツを抱え上げて逃げて行く。伊織はレザーパンツの男を見上げた。

「獅子堂さん」「和真」

 伊織と同時に、翔平が獅子堂の名を呼んだ。二人は知り合いのようだ。

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