第3話

 時刻は夜9時28分。お台場でタクシーを降りた伊織は、観覧車の見える展望デッキに向かった。曹瑛と一緒に観覧車を見上げた場所だ。のんびり前を歩く三人連れの若い女性客の間をすり抜けて走る。


 観覧車の下にやってきた。周辺を見回すが、曹瑛の姿は見当たらない。七色に変化する観覧車を見上げて、伊織は大きなため息をつく。

 がっくりと項垂れて、そのまま柵に背を預けた。ここに曹瑛がいると考えた理由を冷静に思い返せば、あまりに感傷的だったのかもしれない。そもそも、曹瑛が急に遠くに行ってしまうなんて、勝手に心配して慌てているだけだ。


 いちゃつくカップルに挟まれながら柵にもたれた伊織は、ぼんやりとネオンを映す海を眺める。きっと明日には、何事も無かったかのように烏鵲堂でお茶を淹れているに違いない。無理矢理自分をそう納得させて、その場を立ち去ろうとした。

 ふと、視界に黒い影が映った。芝生の広場、植え込みの近くに長身の男が佇んでいる。伊織は目を見開いた。デッキを走り抜け、慌てて階段を駆け下りる。


「瑛さん」

 息を切らしながら名を呼んだ。黒づくめの男が驚いた顔で振り向く。

「伊織、なぜここにいる」

「瑛さんここに来てるんじゃないかと思って」

 伊織は額から汗を流しながら、乱れた呼吸を整えるのに必死だ。曹瑛は複雑な表情でその様子を見下ろしている。


 二人で芝生のベンチに腰掛けた。ようやく呼吸が落ち着いた伊織が曹瑛の顔を覗き込む。

「瑛さん、覚えてる?あの観覧車のてっぺんで話したこと」

 曹瑛は無表情のまま、返事は無い。伊織は初めて曹瑛に会ったときのことを思い出す。あのときも曹瑛は無表情、無反応で、何を話そうか悩んで一方的に無難な話題を投げかけ続けていた。

「龍神の件が片付いたら、暗殺の仕事を辞めて本屋さんになりたいって教えてくれたこと」

 この観覧車の一番高い場所で願い事を言えば叶う。そんなジンクスがあった。思えばそれは本当になった。伊織は続ける。

「嬉しかったよ。カフェも一緒にって話も取り入れてくれて」


「俺は人生を取り戻したかった。兄貴の復讐だけがその目的だった」

 曹瑛が静かに話し始める。伊織は耳を傾けて頷く。

「お前はその先の生きる目的を示してくれた。烏鵲堂は、本当の意味で人生を取り戻せる場所になった」

「うん」

「だが、俺の手は血に塗れている。明るい光の中ではそれがよく見える」

 数え切れない人間の命を奪った俺には・・・生きる権利はない。曹瑛は続く言葉を飲み込んだ。その言葉を放つことは、許しを得ようとする愚かな甘えだ。誰しも、己の業は死ぬまで己で背負い続けなければならない。


 曹瑛は感情の無い言葉は、まるで自らを断罪しているように思えた。一度は踏み出した光の中で、彼の血塗られた過去が濃く暗い影を落とすようになった。曹瑛はこれまで感じたことのなかった罪悪感と向き合っている。


「瑛さん」

 しばしの沈黙を伊織が破った。

「俺は瑛さんの過去を何も知らない。だけど、出会ってからの瑛さんはきっと過去とは違うと思う」

 曹瑛は命を狙われる覚悟で組織を裏切り、龍神を壊滅させると決意して日本にやってきた。伊織と出会ってから曹瑛が人を殺すことは無かった。


「瑛さんが龍神を壊滅させたことで、たくさんの人が救われたはずだよ。ハルビンのプラントで死なずに生かされていることにはきっと意味がある。瑛さんは、これからも誰かの救いになれる」

 曹瑛は伊織の言葉に耳を傾けたまま沈黙している。


「瑛さんの人生、これからだよ」

 伊織は曹瑛に真っ直ぐな瞳を向ける。己の業も含め、人生に向き合っていけと言われているような気がした。


「いてっ」

 伊織が涙目で額を押さえている。曹瑛が不意打ちのデコピンを飛ばしたのだ。

「俺に説教など、生意気だ」

 曹瑛はニヤニヤ笑っている。

「なんだよ、良い話だったろ」

「腹が減った」

 曹瑛は立ち上がり、フードコートの方へ歩いていく。

 わかっている、曹瑛とは生きてきた世界が違いすぎる。綺麗事なんて気休めだ、でも伝えたかった。今はこれで良かった、と伊織は一人頷く。

 前を行く曹瑛が早く来い、と振り向いた。伊織はデコピンの衝撃が残る額を撫でながら、その背を追った。


 翌日、曹瑛は烏鵲堂のカフェスペースで開店準備をしていた。階段を上がってくる足音がある。大人と、子供のようだ。時計を見れば、開店まであと30分ほどある。

「まだ開店時間じゃないようだね」

 初老の男性の顔に、曹瑛は思わず目を見開いた。そこに立っているのはハルビンの資産家、魏秀永と彼の孫娘だった。曹瑛は社会貢献のために資金援助をする彼を組織の暗殺者の凶手から守り、命を救った。初めて日本にやってくる前のことだ。


「いえ、どうぞ」

 曹瑛はぎこちなく魏秀永を席へ案内した。小さな孫もテーブルにつかまり、ちょこんと席に座る。

「安渓鉄観音をもらおう」

 曹瑛は茶葉を用意し、テーブルに茶器を乗せた茶盤を運ぶ。小さなお嬢さんには桃まんじゅうと甘いミルクティーを出した。

「わあ、おいしそう」

 孫娘は曹瑛を見上げてくりくりした丸い目を向けた。曹瑛は唇を引き結んで、思わず目を逸らす。


「なぜここが」

 曹瑛は茶器に湯を注ぎ、温める。その湯を一度捨てた。

「どうしても君に会いたくてね」

 魏秀永は曹瑛の流れるような指の動きを見守っている。曹瑛は茶葉を急須に入れ、お湯を注ぐ。

「あの日、屋敷から逃げ出した私達はしばらく身を隠した。犯人グループの身元が明らかになり、当局に保護されて命を狙われることは無くなった。私たちが生きているのは、君のおかげだ。本当に感謝している」

 曹瑛は沈黙したまま、何と言っていいのか分からなかった。金色に澄んだ茶が注がれ、魏秀永は馥郁とした香りを楽しんで口をつけた。


「とても美味しい。この美しく澄んだ茶には君の純粋な心が現われているようだ」

 魏秀永は穏やかな笑みを浮かべる。

「おいしい」

 足をぶらぶらさせながら、小さな両手でミルクティーを飲む孫娘も笑顔を向けた。曹瑛もぎこちなく微笑みを返す。

「孫娘が君にお礼を言いたいと強くせがむもんだから、連れてきたよ」

「おにいちゃん、ありがとう」

 孫娘は舌足らずの口調で、照れくさそうに曹瑛に笑顔を向けた。


「あれから優しいお兄ちゃんに会いたいと言って聞かなかったんだ」

 魏秀永の言葉に、曹瑛は困惑する。

「優しい・・・」

 優しいなどと、これまで一度も言われたことが無かった。

「子供は正直だよ」

 魏秀永は開店時間直前まで、孫娘と話をしながらお茶を堪能した。


 去り際、立ち尽くす曹瑛に孫娘が笑顔で手を振る。曹瑛も躊躇いがちに笑顔を向けた。ぎこちないが、それは心からの笑顔だった。

「君は人生を取り戻した。それを見届けることができて嬉しいよ」

 魏秀永はそれだけ言い残すと、孫娘の手を引いて帰っていった。


 ビルの谷間に沈む夕陽が烏鵲堂の店内を照らしている。曹瑛は椅子に腰掛けて格子窓の作る影をじっと見つめていた。階段を上がってくる靴音、この歩調は伊織だ。

「瑛さん、お疲れさま」

 伊織が曹瑛の正面に腰を下ろした。そのままお互いに沈黙を守っている。曹瑛が顔を上げてまっすぐに伊織を見た。

「何か飲むか」

「うん、瑛さんのオススメでお願い」

 曹瑛は立ち上がり、茶器の準備を始めた。流れるような所作に迷いは無かった。

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