第2話
ブルー系のダウンライトとローテンポのジャズが落ち着いた雰囲気を醸し出す。新宿西口にあるバー、GOLD-HEARTのカウンターで伊織は人を待っていた。手元には淡い青色のカクテル、チャイナブルー。この色を見ると、あのときを思い出す。グラスの縁のレモンを戯れにつつくと氷がカラン、と音を立てた。
「待たせたな、伊織」
背後から肩を叩かれた。振り向けば、榊だ。シャドウストライプのスーツにダークグレーのシャツ、紺色のタイを締めている。スーツの上着をハンガーへかけ、伊織の横に座った。
「ギムレット」
榊の注文に、マスターは黙って頷く。榊はこの店のオーナーで、週に一度は飲みにやってくる。かけつけ一杯から強い酒を注文することをマスターはよく知っていた。すぐに榊の前に爽やかなグリーンのショートカクテルが置かれた。
「忙しいのに来てくれてありがとう、榊さん」
伊織がぎこちなく微笑む。榊は実業家として忙しい毎日を送っている。平日の夜に突然呼び出したことで、伊織は申し訳無く思っていた。
「いや、構わない」
榊はギムレットを一口流し込み、フィリップモリスを取り出して火を点けた。キン、と涼やかな音を響かせてミッドナイトブルーのデュポンをポケットにしまう。そしてうまそうに煙を吐き出した。今日一日、喫煙を我慢していたのだろう。
「何か悩みか」
榊の言葉に、伊織は唇を引き結んだまま黙って頷く。
「曹瑛のことか」
「・・・うん、まあ」
核心を突かれて、伊織は歯切れの悪い返事をした。榊はフィルターを軽く弾いて灰皿に灰を落とす。
「烏鵲堂はうまくいってるんじゃないのか」
榊の問いに伊織はどう説明したらいいか言葉を選んでいる様子だったが、顔を上げて榊をまっすぐに見た。
「お店のやりくりは心配ないよ。俺もびっくりするくらい愛想が良くて、お客さんにも好かれてる」
伊織は思わず鼻を鳴らして笑う。
「でも、なんて言うか、上手く言えないんだけど、ときどきどこか遠くに行ってしまいそうな気がして」
伊織の表情が曇る。榊は灰皿でタバコを揉み消し、ギムレットを飲み干した。
「お前の心配、何となく想像がつく」
榊はかつて極道の若頭として裏社会に身を置いていた。その意味では、伊織よりも曹瑛に近い。伊織はチャイナブルーを口に含み、流し込んだ。
「人を殺したことがある人って、何を考えているのかな」
榊は伊織の横顔を見つめる。伊織はその答えを聞くことを恐れているようだった。カクテルグラスについた雫を指で弄んでいる。
「言っておくが、俺は人を殺したことはない」
伊織が弾かれたように顔を上げ、目を見開いて榊を見る。
「バカ、俺はムショに行くようなことはしてないんだよ」
榊は呆れて伊織を軽く小突いた。
「そうなんだ」
「最近のヤクザ者で殺しをする奴などそういない。任侠映画の観過ぎだ」
日本刀を振り回していた男に言われても、と伊織は不満げだ。
「だが、人を殺した奴がどうなるかは見てきた。裏社会の人間も特別じゃない。その重さに耐えきれず酒やドラッグに溺れるか、やみつきになってとことん楽しむようになるか、両極端だな」
伊織の顔から血の気が引いていく。榊は目を細める。しかし、この話は真実であり、伊織には話す必要があると判断した。
「瑛さんは、お酒飲めないし、ドラッグのことは誰よりも憎んでいるはずだ」
曹瑛は狂気のドラッグ、龍神の流通を阻止し、その根幹を根絶やしにするため命を賭けた。その姿を間近で見ていた伊織が一番よく知っている。
「でも、酒にも、ドラッグにも逃げ場が無いとしたら」
曹瑛はひとり孤独に苦しんでいるのではないだろうか。伊織はチャイナブルーを一気に飲み干した。
「俺、行かないと」
伊織は立ち上がり、バッグから財布を取り出そうとする。しかし、ファイルに紛れてすぐに出てこない。榊が伊織の腕を掴んだ。
「ここは俺のおごりだ」
榊がニヤリと笑う。伊織はありがとう、と礼を言って店を飛び出した。新宿に曹瑛の借りているマンションがあるはずだ。
走り出した伊織は足を止めた。後ろにいたカップルがぶつかりそうになり、文句を言いながら伊織を追い越していく。
「そう言えば俺、瑛さんのマンションを知らない」
伊織はスマホを取り出し、曹瑛に電話をかけた。10コールしても、応答はない。15コール目に留守番電話サービスの音声が流れ始めた。
「そうだ、榊さんなら」
伊織は思いついて榊に電話をかける。
「榊さん、瑛さんのマンションの部屋、知ってる?」
榊は曹瑛が烏鵲堂を出店する手続きを請け負っている。マンションの世話もしているかもしれない。
「ああ、確認する」
3分後に榊からラインが届いた。マンションの場所と部屋番号が書いてある。伊織はそれを確認し、また走り出した。
急激に走ったため、アルコールが体中にまわったのか動悸が激しい。普段より呼吸も上がっている。伊織は肩で息をしながら曹瑛の住むマンションにたどり着いた。エレベーターで5階に上がり、部屋の前に立つ。
チャイムを鳴らすが、反応はない。ドアを何度か叩いても同じだった。その場でもう一度曹瑛に電話をかけても、やはり応答は無かった。
曹瑛はこれまでもふらりといなくなることがあった。それが自由気ままに生きてきた彼の性分なのだろう。しかし、今は放っておくのは良くない、伊織にはそんな気がした。
駅へ引き返し都営新宿線に乗り、神保町駅へ。改札を出て階段を駆け上がる。すずらん通りを走り抜け、烏鵲堂の前に立った。シャッターは降りており、2階の明かりはついていない。居住スペースの3階も真っ暗だった。
「どこにいるんだろう瑛さん」
伊織はシャッター前に頭を抱えて座り込む。曹瑛の行きそうな場所の想像が全くつかない。それもそのはず、彼の趣味趣向について伊織はほとんど知らないのだ。
曹瑛との初めての出会いが脳裏を過ぎる。とんでもなく無愛想で、最初は名前すら教えてくれなかった。それから、食べ物をきっかけに話ができるようになって、中国茶を振る舞ってもらった。一緒に東京観光もした。
「そうだ」
伊織は目を見開いて立ち上がった。表通りに出て、両手を挙げてタクシーを拾った。急ぎ乗り込んで行き先を告げる。タクシーはネオンの光の中を走り出した
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