烏鵲堂店長の憂い

第1話

 開店から1週間が経ち、烏鵲堂は書店、カフェスペースともに順調な滑り出しを見せた。中国書籍に特化した書店は品揃え豊富、マニアックな輸入書籍も取り寄せることができるので、中国文化に興味を持つ一般人の他に学生や研究者の出入りも多い。


 カフェスペースは手頃な価格で本格的な中国茶が楽しめ、手作りの点心も美味しいと評判だ。中華風に設えた店内は落ち着いた雰囲気で、居心地が良い。曹瑛の茶芸目当てにリピーターとなるお客さんも増えている。長身に黒い長袍姿、モデルのような整った顔立ちの曹瑛に見とれる女性客も多い。


 開店当初はお客さんの入りを完全に見誤り、大わらわだったがバイトスタッフの協力も得られてうまく回せるようになってきた。

 無愛想な曹瑛がお客さん相手の商売ができるのか伊織は密かに心配していたが、お店の良い雰囲気を見て安心した。これなら上手くやっていける、そう確信していた。


 伊織は日中文化交流雑誌の取材で、神田の漢方専門薬局を訪れていた。今日は取材が終われば直帰できることになっている。神保町の烏鵲堂までここから20分ほど。帰りに立ち寄ってみることにした。

 夕方17時過ぎ、カフェの営業は終わっている。女子高生と楽しそうに話している書店の店番の高谷に軽く挨拶をして、伊織は2階のカフェスペースへの階段を上がっていく。


 カフェは片付けが終わっており、曹瑛の姿は見えない。厨房で仕込みをしているのだろうか。

「瑛さん、お疲れ」

 伊織は厨房を覗き込む。シンクの前に黒い長袍姿の曹瑛が立っていた。呆然とした表情で手元を見つめている。様子がおかしいことに気が付き、伊織は肩掛けカバンをテーブルに置き、曹瑛の側に駆け寄った。

 まな板に包丁が投げ出され、切りかけのタマネギが置いてある。曹瑛の指から真っ赤な血が滴っていた。曹瑛はその血を虚ろな瞳で見つめて、微動だにしない。


「瑛さん」

 伊織が曹瑛の肩を揺らす。曹瑛はその瞬間、はっと我に返った。

「どうしたの、指」

「切った」

 曹瑛はどこか上の空で、まるで他人事だ。傷は大事ではなく、軽く流水で流して押さえると血は止まった。伊織が近所の薬局まで走って傷口保護シートを買ってきた。


「これ、使って」

 保護シートを曹瑛に手渡す。

「ああ、悪いな」

 曹瑛は保護シートを指に巻いて仕込みの続きを始めた。トントンと軽快なリズムが聞こえてくる。慣れないカフェ経営に疲れているのだろうか、しかしナイフの扱いに長けている曹瑛が包丁で指を切るなんて。伊織は不安に思いながらそれを口には出さず、無言で曹瑛を見守った。


 仕込みが終わったのか、曹瑛が厨房の明かりを落とす。カフェスペースのダウンライトの中に静かに佇む黒い長袍の曹瑛の姿は、まるで闇に溶け込もうとしているかのように見えて、伊織は息を飲んだ。

「瑛さん、大丈夫」

 伊織は思わずそう訊ねた。

「ああ」

 曹瑛は短く答えて、3階の居室へ着替えに上がっていった。高谷が書店の売上げをまとめて階段を上がってきた。


「あ、伊織さんこんばんは」

「こんばんは」

 高谷は伊織と同じテーブルに腰を下ろす。

「瑛さん何かあった」

 伊織の質問に高谷は首をかしげる。

「え、普段通りですよ。カフェの切り盛りも要領が分かってきたみたいで、手が抜けるって言ってました」

 高谷は何も心配していない様子だった。


「伊織さんそんなに心配しなくても、曹瑛さんうまくやってますよ。お客さん相手だと愛想が別人みたいに良いし、あしらい方も上手だし」

 高谷は曹瑛をよく観察している。伊織もそうだね、と無理矢理笑顔を浮かべる。あの無愛想な曹瑛に接客ができるのか、最初はそれが心配だった。しかし、今はそういうことじゃない。うまく説明できず、高谷にはそれ以上何も言わなかった。


 新宿西口の繁華街を抜け、曹瑛はエレベーターでマンション5階へ上がり、部屋の鍵を開ける。伊織と高谷の晩飯の誘いを断り、真っ直ぐに帰ってきた。

 ポーチのセンサー式照明が点灯したが、しばらくして消えた。部屋の明かりを点けないまま、リビングのソファに座る。


 レースカーテンの向こう、ネオンに照らされた夜空が仄かに光っている。曹瑛はソファに体重を預け、ぼんやりと天井を見上げた。指の傷が少し疼いた。夜の街の喧騒がどこか遠くに聞こえている。

 暗闇の中、マルボロに火を点けた。橙色の光が暗い部屋にぽつりと灯り、細い煙が立ち上る。


 烏鵲堂は伊織や仲間たちが手伝ってくれ、思ったより上手くいっている。カフェでお茶を楽しむお客さんの笑顔は好きだ。ここは明るい陽の当たる場所、しかしときに眩しさに目を背けたくなる。

 目を閉じれば、闇の中に戻れる。闇は夜の月に照らされた血の色をしている。命を奪った者たちから流れる夥しい血だまりに立つ己の姿が浮かんだ。

 これまで組織の指令に従って生きてきた。何人殺めたかもう覚えていない。しかし、これだけは覚えている。一番最初に殺したのは自分の心だった。


 自分はここに居てもいい人間か、烏鵲堂のオープンからずっと燻っていた違和感だった。考えが堂々巡りし、気がつけば指に痛みを感じた。裂けた皮膚から赤い血が流れ出した。血で染まっていく自分の手をじっと眺めていた。伊織が声をかけるまで。

 そうだ、この手は血に塗れている。“人生を取り戻す”権利が俺にはあるのだろうか。曹瑛は自問する。長くなったタバコの灰がポロリと落ちる。それを気にも留めず、曹瑛は闇の中で静かに目を閉じた。

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