第3話

 烏鵲堂の三階は倉庫と居住スペースだ。倉庫には蔵書が整然と積まれている。基本的に大雑把だが、仕事にかけては几帳面な性格の曹瑛らしい。分類も的確で、どこに何があるのか把握している。


 居住スペースは十二畳のリビングと簡易キッチン、シャワールーム、トイレは別。床置きのベッド、小さな事務机にはタブレット、本棚とガラステーブル、ソファ。新宿にマンションを借りているので必要最低限の家具のみ。カフェの仕込みが長引くときにここに泊まるという。


 明日の朝はそのまま出社できるよう着替えを持参した。伊織はTシャツとジャージに着替え、ソファに腰を下ろす。

 曹瑛が水出しの西湖龍井をグラスに注いでテーブルに置く。さっぱりした爽やかな風味だ。


「物騒な事件に巻き込まれたね」

 伊織はスマートフォンで宝石店強盗の記事を検索する。未だ犯人は捕まっていない。

「二人のチンピラ、店に強盗に入った奴らだ」

 曹瑛の言葉に伊織は目を見開く。曹瑛はジュエリーショップでの一部始終を冷静に観察していた。背格好や仕草で犯人と見抜いたのだ。


「店長の片山もグルだ。犯人が店に押し入ったとき、アイコンタクトをしていた」

「そんな、信じられない。どうして自分の店を襲わせたんだろう」

 伊織が首を傾げる。

「保険金目当て、盗品は売りさばく」

 良くある手口だ、と曹瑛はつまらなそうに言う。


 曹瑛のスマートフォンが振動する。

「榊だな、いけすかない奴だが仕事は早い」

 なんでいちいち一言多いのか、伊織は苦笑いする。曹瑛は真剣な表情で画面をスクロールしていく。

「裏は取れた。片山はギャンブルと女で借金まみれ、店はヤクザの借金の抵当に入っており、売り上げを借金に充てながらの自転車操業で赤字、経営状況は悪い。そんなときに保険金の話は都合がいい」

 曹瑛は不穏な笑みを浮かべる。何やら企んでいるに違いない。

 伊織の心配をよそに、曹瑛は兄の劉玲に電話をかけている。


「もう寝ろ。そこのベッドを使えば良い」

 曹瑛はクローゼットからタオルケットを出して伊織に投げて寄越す。

「ありがとう」

「俺はやることがある」

 曹瑛は部屋の電気を消し、タブレットを持って二階カフェスペースへ降りていった。


 曹瑛はカフェの厨房で菓子の仕込みを始める。明日は月曜日、仕込みは今日の六割程度で良い。シンク脇に置いたタブレットの時計は夜中十二時をまわっていた。画面には薄暗いすずらん通りの映像が映し出されている。それを注視しながら仕込みを続ける。


 組織子飼いの暗殺者だった自分が野垂れ死ぬことなくこうして生きている。死んだと思った兄の復讐だけが地獄のような世界で生き抜く心の支えだった。だが、兄は生きていた。復讐は生きる目的ではなくなった。

 仲間たちに導かれた新しい人生に未だ戸惑いはある。


 アラームが鳴り、曹瑛は目を見開く。暗い画面に蠢く影がある。店の防犯カメラの映像だ。

 曹瑛はすずらん通り側の窓を静かに開けた。軽やかに雨樋に飛び移り、それを伝い地上へ降り立つ。閉じたシャッターの前で男が二人、新聞の束を火種にライターで火を点けていた。火はちろちろと燃え始めている。


 曹瑛は見張りのジャージ男の背後に音も無く近づき、首を絞めて落とした。静かに身体を横たえ、次にしゃがみ込んで火を煽る柄シャツ男の頭を踏みつけた。男は燃える新聞に顔からつっこみ、悲鳴を上げる。

「てめえ、何てことしやがる」

 柄シャツは怒りの剣幕で振り返った。

「消火活動だ」

 曹瑛は冷徹に言い放つ。相棒がアスファルトに突っ伏しているのを見つけ、立ち上がった。顔にはまだらに火傷の跡、前髪はチリチリに焦げていた。柄シャツはポケットから刃渡り十五センチのナイフを取り出した。


「ふざけやがって」

 ナイフで曹瑛に斬りかかる。曹瑛はそれを難なくかわす。柄シャツは苛立ってがむしゃらにナイフを振り回して襲いかかる。曹瑛は勢いづいた男の足を引っかけた。柄シャツは受け身を取る間も無く、顔面からアスファルトに突っ込んだ。


 曹瑛はナイフを握る柄シャツの手を踏み抜いた。

「い、痛えよ、放せコラァ」

 男は無様に喚く。曹瑛は無言で足に力を入れ、踏みにじる。柄シャツは痛みのあまり、ナイフを放り出した。

「瑛さん、何事っ」

 叫び声を聞いて、裏口から飛び出してきた伊織がその情景を見るや、ひえっと叫んで頭をかかえた。曹瑛はチッと舌打ちをする。


「こいつは放火魔だ」

「え、放火」

 曹瑛が目線をやった先、烏鵲堂のシャッター前に焦げた新聞の束があった。伊織は息を呑んで固まった。夕方のチンピラだ。まさかこんなことをするなんて。

「よほど切羽詰まっているとみえる」

 アスファルトで伸びていたジャージ男がふらふらと立ち上がる。仲間を踏みつける曹瑛を見て、怒りを剥き出しにして拳を振りかぶった。


 ゴン、と鈍い音が響いてジャージ男は再び地面に突っ伏した。男が倒れた背後には伊織が中華鍋を持って立っていた。隣の中華料理店が廃棄するために路地に放置していたものだ。

「暴力反対」

 伊織は慌てて鍋を手放した。道路に転がる中華鍋。曹瑛は踏みつけていた柄シャツから足を離した。

 柄シャツは立ち上がり、無謀にも曹瑛に殴りかかろうとする。曹瑛はすぐさま地面の中華鍋を拾い上げ、その勢いで柄シャツの頭を殴った。ゴン、とまた鈍い音が響いて柄シャツは気絶し、倒れた。


「言っておくが、これは不可抗力だ」

 曹瑛はポケットからマルボロを取り出し、真鍮のジッポで火をつける。伊織は道路に転がる放火魔を見つめ、奥歯をギリギリ噛んでいる。曹瑛はふてぶてしい表情を崩さない。

「説教は聞く気は」

 ないぞ、と言いかけたとき。

「瑛さんが新しい人生のために頑張って開いたお店を燃やすなんて、許せない」

 伊織が怒りは地面に転がるチンピラ二人に対して向けられていた。曹瑛は口元を緩め、フンと鼻を鳴らした。


「こいつらは明日警察に突き出してやる」

 曹瑛は道路に落ちたナイフを拾い上げる。気絶したジャージを持ち上げて、片方の眉毛をきれいに剃った。もう一人も同じように剃ってしまった。ナイフは指紋を拭き取って男のポケットに戻した。

「古来中国では道義を忘れた罪人の眉を片方だけ剃る習わしがあった。集落に戻れば半端者と後ろ指を指される」


***


 その頃、都内ホテルの一室で男がテーブルに置いたジュラルミンケースを開いた。中にはシャンデリアの光を受けてキラキラと輝く大ぶりのダイヤをいくつも連ねた美しいネックレスや指輪が入っていた。

「これを買い取って欲しい」

 白髪交じりのグレーのスーツの男が焦るような口調で切り出す。


「いいだろう、片山さん」

 目の前に長い足を組んで座るのは、左肩から胸元にかけて金色の龍の刺繍が施された黒い長袍の男。短髪に丸いサングラスをかけており、表情が読めない。無精髭の下の唇には薄い笑みを浮かべている。


 寡黙だが、凄みのある雰囲気に片山は緊張で口の中がカラカラに乾いているのが分かった。

 背後には黒いシャツに迷彩柄のズボン、編み上げブーツを履いた大柄な男が控えている。ボディガードだろうか。その横には黒のスリーピースにグレーのシャツ、ダークブルーのネクタイに濃い色のサングラスの男が立っていた。


 無性髭の男は長い足を組んだまま、ネックレスを手に取った。

「本物だろうな」

「もちろんだ、鑑定書もある」

 片山の必死な説明に、無精髭の男は口角を上げて笑う。

「盗品に鑑定書なんかあるんか」

 それまでの平坦な標準語が突然関西弁に変わり、片山は怪訝な顔をする。


「盗品でも買い取ると言っただろう、文句をつけるのか」

 震える声で片山は言い返す。

「自作自演の強盗で手に入れたモンやろ」

「なぜそれを」

 片山は動揺を隠せない。額からは脂汗が流れ落ちる。

「お前、運が悪かったで。目撃者は選ぶべきや」

 首筋に衝撃を感じた。片山はその場に眠るように倒れ込んだ。無精髭の男、劉玲は振り返り、孫景と榊に目配せしてニヤリと笑った。


***


 キッチンから漂ってくる香ばしい匂いに目を覚ました。顔を洗ってテーブルにつくと、野菜サラダにピータン粥、トマトと卵のスープ、蒸したての肉まん、懐かしい中国風の朝食だ、伊織は嬉しそうに目を丸める。

 砂糖入りの豆乳ドリンクを持って、曹瑛も伊織の前に座る。タブレットをテーブルに立てて、ネットの動画ニュースを流し見る。


「あ、この店」

 ニュースには宝石店強盗が捕まったと出ている。早朝ランニングの夫婦が強盗にあった宝石店の前に店長と男二人がロープでぐるぐる巻きにされているのを発見、警察に通報したという。その傍に盗まれた宝石が入ったリュックが置いてあり、その不可思議な状況が話題になっていた。


 伊織はぽかんと口を開けている。昨夜、烏鵲堂に放火をしたチンピラだ。それに店長まで。

「まさか、劉玲さんに頼んだことって」

「盗品買い取りを餌にすぐに食いついてきた」

 劉玲の上海マフィアのネットワークを使えばお手のものだっただろう。伊織は曹瑛と劉玲の仕事の速さに驚嘆した。


***


 次の土曜日、カフェスペースの手伝いに入る約束をしていた伊織は、少し早めに烏鵲堂にやってきた。厨房で仕込みをしている曹瑛は、黒い長袍がしっかり板についている。仕込みが一区切りついたのか、黄山毛峰をグラスに淹れてテーブルに置く。

 伊織はバッグから包みを取り出し、曹瑛に手渡す。

「なんだこれは」

 曹瑛は怪訝な顔で包みと伊織の顔を見比べる。雑誌ほどのサイズの板状のものを包装しているようだ。

「俺だけ烏鵲堂の開店を知らなくて、何も用意できなかったからさ。遅くなったけどお祝い」


 曹瑛が包みを開封すると、シンプルな木の額縁に入った一枚の写真だった。

「開店祝いなら花が定番かなと思って」

 烏鵲堂の開店に、劉玲や榊、孫景は豪華な蘭の花を贈っていた。出遅れで同じものを贈るのも格好悪いだろ、と伊織は言う。


 そこには、満開の桜の花が映っていた。背後には青い海にかかる大きな白い橋。伊織が撮影した写真だという。

「俺の故郷の風景なんだ。瑛さんが日本でお店を出してくれたこと、嬉しかった。桜は日本の花だよ。烏鵲堂で中国茶を楽しむ人たちを見て思ったんだ。このお店は日本と中国の架け橋になるって」

 伊織は照れながら頭をかく。曹瑛は沈黙したまま写真を見つめている。


 曹瑛はおもむろに立ち上がり、カフェスペースに写真を飾る場所を探し始めた。

「えっ、お店に飾るの」

 伊織は急に気恥ずかしくなった。曹瑛は真剣に額縁を壁に合わせたり、棚に置いたりして飾る場所を考えている。悩んだ結果、茶器をディスプレイしている棚に並べることになった。ここならお客さんがゆっくり眺めることができる。

「悪くない」

 曹瑛は満足そうに笑みを浮かべた。

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