第2話

 都営新宿線で神保町駅へやってきた。早朝のすずらん通りの古書店街は開店前。人気がなく静かなものだ。通りには書店の他に老舗の喫茶店や台湾料理屋など、味わいのある飲食店も多い。これからの楽しみができた。

 烏鵲堂の裏口を通り抜け、二階カフェスペースへ階段を上がる。曹瑛は厨房で下ごしらえを黙々と進めていた。伊織はエプロンを手にとる。


 間もなくして高谷と榊がやってきた。高谷はライトブルーのカットソーに白い半袖のシャツブラウスを羽織り、足首を出した黒いパンツにサンダル、首元には羽根のチャームがついたネックレスをしている。大学生らしい格好だ。

 榊は白のカットソーに黒いジャケット、パンツは黒、鋭い眼光を隠すためにオフのときは前髪を下ろしているので、一見誰だか分からない。


 孫景と劉玲が連れ立ってやってきた。

「おはようさん。俺は今日も書店担当や」

 マニアックな中国書の知識もあり、上海マフィアのつてで流通の幅広いパイプを持つ劉玲がいれば心強い。しかもスマホを使ってその場で商談をまとめてしまうそのスピーディな手腕は見事だった。


 孫景が高谷の傍らに立つ榊を怪訝な顔で眺めている。

「伊織、あの根暗そうなの誰だ。曹瑛の雇った臨時バイトか」

 だとしたら人選に問題だ、と孫景が伊織に耳打ちする。伊織は思わず吹き出した。

「誰が根暗だ」

 榊が前髪をかき上げ、鋭い眼光を向ける。


「お前、榊か、ぜんぜん分からなかったぜ」

 孫景は豪快に笑いながら頭をかいている。

「あいつより根暗な奴はいないだろ」

 榊が曹瑛を指さしながら、不満げに孫景を見上げる。厨房から出てきた曹瑛が榊に黒い長袍を手渡す。

「俺は根暗じゃない」

 曹瑛が暗い炎の宿る瞳で榊を睨む。

「似たもの同士やろ、二人とも仲良くしいや」

 劉玲は不機嫌な二人と肩を組んであっけらかんと笑う。


「胸元が随分キツいな」

 長袍に着替えた榊が胸回りに文句をつける。榊も曹瑛と並ぶ長身で、背筋を伸ばした凜とした立ち姿にシックな黒い長袍は見栄えがする。

「そうだ、他人が着ることを想定してなかったからな」

 曹瑛はオーダーメイドで同じものを複数作らせているらしい。

「長さはいいのか」

「ああ、胸板の厚みのおかげでちょうどいいぞ。言っておくが、お前と身長は三センチほどしか変わらないからな」

 榊と曹瑛は口角を上げて笑い合っている。しょうもない張り合いを楽しんでいる二人は伊織は生暖かく見守る。


「榊さん、良いライバルができたよ」

 エプロンをつけた高谷がしみじみ呟く。

「組で若頭を張っていたときには若い人たちに慕われていたけど、本当に理解し合える人がいなくて孤独だったと思う」

 あれは彼らなりの友情表現なのだ。榊は曹瑛の出店に親身になって相談を受けていたという。実際、烏鵲堂の内装はセンスがよく隙がない。開店まで何も知らされていなかった伊織は寂しい気分になった。

「今日もよろしく頼む」

 曹瑛に肩を叩かれて伊織は頷いた。


 榊の言うとおり、SNSの口コミも相まって店は大忙しだ。友人同士の女性客が多いが、近所の老夫婦や中国からの留学生カップル、一人で読書を楽しみにきた中年男性と客層は豊かだ。


 伊織も今日は茶の種類やお菓子の名前を覚えて挑んだ。時々、お客さんの方が詳しいことには驚いてしまう。榊は強面だが営業スマイルを心得ており、そのギャップある雰囲気がウケているらしく曹瑛とともに女性客から熱い視線を注がれている。

 お客は本格的な中国茶に感動し、満足して喜んで帰って行く。曹瑛の手作り中華菓子も人気だ。テイクアウト用も午前中には売り切れた。


 一階の書店は高谷の愛想の良い接客と劉玲の軽快なトークで、売り上げは好調のようだ。高谷は劉玲の持つ上海の流通ルートを使い、専用の注文サイトを作っていつでも在庫の把握と発注をできるようにしたいと曹瑛に提案した。

「高谷は商才がある」

「当然だ、俺の弟だからな」

 曹瑛の言葉に榊は誇らしげに笑っている。


 男手六人で烏鵲堂初めての日曜日を無事に乗り切った。

 閉店後、曹瑛は皆に謝礼を出そうとしたが、全員に押し返された。高谷は約束した時給分だけを受け取った。

 カフェ営業が終わり、伊織は書店を物色していた。ふと、ガラス扉の向こうに人影が見えた。昨日立ち寄ったジュエリーショップの店長だ。グレーのスーツに身を包み、かしこまった表情を浮かべている。


「あ、昨日の」

 思わぬ来訪者に伊織は怪訝な表情を浮かべる。冷たい手で心臓を掴まれたような感覚。何となく、嫌な予感がする。

「ああ、あなたにもお会いできるとは、昨日は怖い思いをされたことと思います。申し訳ありません」

 頭を下げて謝ってはいるが、その皮肉めいた愛想笑いには心がこもっていない。


「店長さんはいらっしゃいますか」

 店長は名刺を差し出した。“片山商事 片山直治”と書かれており、経営する店舗リストのひとつに昨日のジュエリーショップの名前が入っている。

「ちょっと待ってください」

 伊織は店の外に出て、すぐ脇の路地へ入っていく。


 烏鵲堂とその隣の中華料理店百花繚乱の間の狭い路地には、両店が共同で使う業務用灰皿が置かれている。

「瑛さん、昨日のジュエリーショップの店長さんが来てるよ」

 伊織の呼びかけに煙をくゆらせていた曹瑛の瞳が光る。

 灰皿を囲んで榊と孫景もタバコを吹かしている。間違って覗き込んだら思わず走って逃げたくなる光景だ。


「今行く」

 曹瑛は吸い始めたばかりのマルボロを灰皿で揉み消し、片山の前に立つ。長身に黒い長袍、氷のような無表情の曹瑛を前にして、その迫力に思わず息を呑む。

「昨日はご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「何故ここが分かった」

 片山の謝罪を無視し、かぶせるように曹瑛が訊ねる。感情のこもらぬ威圧的な物言いだ。傍らに立つ伊織は曹瑛の意図を測りかねている。


「店の防犯カメラにあなたの姿が映っていまして」

 曹瑛の冷徹な眼差しに耐えかね、片山は目線を逸らす。

「ならば、犯人の方を捕まえろ」

「警察に任せていますが、マスクをしていてなかなか」

「俺に何の用だ」

「そ、それは、警察が店にいた方から事情を聞きたいと」

「断る」

 曹瑛は容赦なく突っぱねる。片山は渋い顔をしている。


 その様子を道路の向かいから見ていたチャコールグレーのよれたスーツに赤い柄物のシャツ、Tシャツに金ネックレスにジャージのどう見てもチンピラ風情の男が肩を揺らしながら片山の両脇に並んだ。


「事件のあと、警察の事情聴取から逃げたそうじゃないか」

「話をしてくれんと強盗事件の処理が終わらないんだよ」

 チンピラが脅しをかける。片山は曹瑛と伊織を見比べた。

「そういうことでね、警察に事件当時の状況を話をしてもらえませんか」

 チンピラを連れてきて半ば脅しだ、図々しい物言いに伊織は眉を顰める。


「怖くて事件のことを思い出したくない、帰ってくれ」

 曹瑛が心にも無い事を言う。伊織はその場でズッこけそうになった。

「頼む、協力して欲しい」

 片山は愛想笑いをしながら再三頭を下げるが、曹瑛は取り付く島もない。

「考えておこう、今日のところは帰ってくれ」

 曹瑛はチンピラを凝視する。底知れぬ深い闇を宿す瞳にチンピラは恐れをなしたのか、道ばたに唾を吐き捨てて片山と共に去っていった。


「こいつは笑える」

 路地裏から一部始終を覗いていた榊と孫景が出てきた。曹瑛は面白くなさそうにチッと舌打ちをした。緊張で息をするのを忘れていた伊織は、大きなため息を吐き出す。

「榊さん、笑い事じゃないよ」

 伊織は榊にくってかかる。榊はニヤニヤ笑っている。


「いい指輪は見つかったのか」

 勘の良い榊は事情を察したらしい。曹瑛は榊に名刺を手渡す。

「この男の素性と、ジュエリーショップの経営状況、調べられるか」

「昨夜、宝石強盗があった店だな」

「そうだ」

 曹瑛と榊の眼光がぶつかる。

「調べておこう、分かれば連絡する」

 榊は真面目な顔に戻る。


 店の片付けを済ませ、百花繚乱で打ち上げをして解散した。榊は気をつけろよ、と曹瑛と伊織に伝えて去って行った。

「伊織、今晩はここに泊まれ」

「え、お店に」

 曹瑛が伊織を引き留めた。店の三階は居室になっており、簡易的なベッドや洗面、シャワーがある。


「俺、明日は仕事が」

「それなら仕方ない。奴らは気の弱そうなお前を狙う。用心することだ」

「えっ」

 曹瑛の言葉に伊織は絶句する。そこまで深刻な状況とは思ってもみなかった。確かにどちらかを脅すなら虎のような気迫の曹瑛ではなく、善良でお人好しの一般人伊織を選ぶ。

「心配するな、すぐに片付く」

 曹瑛は不敵な笑みを浮かべる。

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