消えた浮世絵

第1話

 烏鵲堂のオープンから二週間が経った。伊織が紹介した中国人留学生のアルバイトも仕事に慣れ、曹瑛も手が抜けるようになっていた。若い彼らと時々中国語で会話ができるのも、良い気分転換になっているようだ。


「店長さんはとてもやさしい」

「日本語の勉強もできて楽しい」

 学生たちは伊織にも感謝していた。女子学生三人と男子学生一人、曹瑛は彼らの予定に合わせて柔軟な勤務を組んでいる。やさしいという声が意外だったが、店での曹瑛はそれなりに人当たりが良い。以前の彼ならそれが演技ではないかと疑ってしまうところだが、今は違うのかもしれない。


 手伝いはいらなくなったが、伊織は時々店に顔を出す。雑誌記事の企画書を書くとき、中国茶を飲みながら落ち着いた時間を過ごすことで、煮詰まっていた頭がリラックスしてアイデアが浮かぶことがある。

 高谷もここでのバイトは楽しみのようだ。榊も気まぐれに訪ねてくる。閉店後の烏鵲堂は心地良い溜まり場になっていた。


 今日のおすすめは武夷水仙という福建省武夷山の烏龍茶だ。鼻に抜ける蘭の香りと甘く爽やかな風味が特徴だ。伊織は帆布の肩掛けカバンから一枚のプリントを取り出して目を通す。

「それはなんだ」

 不意に背後から声がした。振り向けば、曹瑛が仁王立ちしていた。人に近づくとき、完全に気配を消し去るのは元プロの暗殺者の習性だ。伊織は肝を冷やしながらそれお客さんにしないでよ、とぼやく。

 曹瑛はそれに答えず、伊織が手にしたプリントを興味津々で覗き込んでいる。


「これは浮世絵だよ。明日都内の美術館に取材に行くんだ」

 曹瑛はプリントを手に取って眺める。

「浮世絵は江戸時代に流行った絵画で、当時人気だった三国志や水滸伝なんかも多く題材にされているんだ。日本と中国の文化の融合、面白いよ」

 プリントには三国志演義で蜀の劉備が諸葛孔明を三度訪ねる”三顧の礼”や水滸伝の英傑が並んでいる。


「明日行くのか」

「うん」

「明日は店が休みだ」

 つまり、一緒に行きたいと言いたいのだ。素直じゃない、と思うがへそを曲げても面倒なので聞いてみる。

「じゃあ一緒に行く?」

「ああ」

 話がまとまると、気を良くした曹瑛は厨房へ戻っていった。


 翌日、代々木駅前で待ち合わせをした。駅から徒歩圏内で規模は小さいが、浮世絵専門の博物館がある。伊織は東京暮らしが8年になるが、こんな博物館があることを知らなかった。

 公園を抜け、住宅街を通り抜ける。坂道を降りると、そこに大野記念美術館があった。

 貿易商社の社長を務めた大野秀郎が個人蒐集した浮世絵コレクションを多くの人に公開しようと設立された美術館だ。レトロなレンガ造りの壁を蔦が覆っている。看板には歌川国佳の特別展開催中とあった。


「浮世絵と言えば、風景画や美人画を思い浮かべますけど、歌川国佳は力強い武者絵を得意としていた画家です。だから武侠ものをよく題材にしていて、三国志や水滸伝をモチーフにした作品が多いんですよ」

 チケットを購入し、係員の案内で館内を見学する。平日とあってお客さんはまばらだ。大学生と見える若いカップルや初老の夫婦がゆっくりと絵画鑑賞を楽しんでいる。


 一階の特別展示に歌川国佳の絵画がずらりと並んでいる。伊織は正直、個人の美術館というので大したことはないのではと思っていたが、良い意味で予想を裏切られた。その鮮やかな色彩に大胆な構図、迫り来る力強い筆致で描かれる豪傑たちの姿や物語に思わず見入ってしまう。曹瑛も興味深く1点1点じっくりと眺めている。

「なかなか良い」

 言葉少ないが、曹瑛も楽しんでいる様子だ。


「これは三国志演義の関羽だな」

 曹瑛が見入っている絵には、赤い顔に豊かな髭を蓄えた関羽が描かれている。囲碁を打つその片腕に老人が何か処置を施している。

「関羽が敵の矢傷を受けて、骨にまで毒が回った。それを麻酔なしの外科手術で取り除いている場面だ。この白髪の老人は医神と言われた華陀という人物だ」

 関羽は痛がる様子もなく、平然と囲碁を打っている。そういった逸話が分かればより面白い。


 曹瑛は博識で、三国志や水滸伝の逸話をよく知っていた。場面や人物の解説を聞きながらの絵画鑑賞は楽しみがいや増す。ときに宮本武蔵や忠臣蔵など日本主題のものは伊織が曹瑛に説明した。気が付けば、傍に立つ老夫婦が2人の話に耳を傾けていた。

「若いのに物知りだね」

 勝手ながら解説を楽しませてもらったと、お礼を言われた。

 二階にも風景画や美人画など、有名作家の作品が多く展示されてした。


 帰りにアポイントを取っていた竹本学芸員に話を聞いた。日本と中国の文化の橋渡しをテーマにした雑誌に浮世絵を紹介したいという目的で、原稿執筆と写真提供を取り付けることができた。

 絵画鑑賞は充実した時間で、仕事もうまくまとまった。伊織はご満悦だ。竹本は水滸伝が好きらしく、曹瑛が中国人と知って話が弾んでいた。


 外に出ると時刻は13時過ぎ、鳴り止まない蝉時雨に、真夏の灼熱の太陽がアスファルトを焦している。駅に向かって歩き出すと、途端に汗が噴き出す。曹瑛は中国東北地方のハルビン出身だ。この暑さはさぞや堪えるに違いない。

「この近くに美味しいそば屋さんがあるよ」

 伊織が口コミサイトで調べた老舗のそば屋に案内した。

 のれんをくぐるとダウンライトの店内はよくクーラーが効いている。木をふんだんに使った和風モダンで上品なデザインの店だ。ざるそばと天ぷらの盛り合わせを注文する。冷えた麦茶を一気に飲めば、身体に染み渡る。


 運ばれてきた打ちたてのそばはコシがあり、のどごしが良い。カツオの風味がよく効いた出汁がそばのおいしさを引き立てる。

「うどんも良いがそばも美味いものだ」

 曹瑛は箸に取ったわさびを出汁に混ぜて食べている。すっかり日本の味に慣れたようだ。新鮮な野菜にプリプリのエビとキスの天ぷらの盛り合わせも食べ応えがあった。


 食後に曹瑛が真剣な顔でメニューを眺めている。

「かき氷か、いいね」

 空気を読んだ伊織が提案すると曹瑛は頷いた。伊織はいちごミルク、曹瑛は宇治抹茶を選んだ。愛想の良い女性店員がかき氷を運んできた。涼しげなガラスの器にふわふわの盛られた白い氷は見るだけで涼を誘う。


「初めて食べる」

「かき氷は一気に食べると危険だから、ゆっくり食べて」

 伊織が真顔で説明する。かき氷初体験の曹瑛にはその意味が分からず、怪訝な顔をする。何口か食べたあとに曹瑛が頭を抱えはじめた。頭にキーンときたのだろう。伊織の言葉の意味を初めて理解した。

「これは危険だな」

 曹瑛は何度か頭を抱えながらも完食して、勝ち誇った表情を浮かべていた。


 曹瑛と初めて出会った頃、得体の知れない彼を連れて街中を散策したときの緊張感をふと思い出した。伊織が思うに、曹瑛はずいぶん丸くなった。それを口にすると、生意気だときっと首を絞められるので黙っておくことにする。

 店を出て代々木駅で解散し、伊織は会社に戻った。

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