ゆく年くる年

第1話

「何をそんなに慌ただしくしている」

 新宿のマンションの一室。リビングのソファで横になって本を読んでいる曹瑛は、忙しなく動いている伊織を不思議そうに眺めている。伊織はキッチンで奮闘している。そう言えば、冷蔵庫には食材がたくさん入っていた。


「お正月の準備だよ」

 今年の年末年始は休みが短いので、実家には帰らないつもりだ。広告代理店の営業時代は、東京で年を越すときはアパートに籠もりきり、だらけきって何もしなかった。しかし、曹瑛にとっては初めての日本の正月だ。気分だけでも味わってもらおうと、年越し蕎麦とおせちの材料を買ってきたのだった。曹瑛本人は店を休める大義名分があって助かる、と普段通りなのだが。


 読書に区切りがついたのか、曹瑛がキッチンを覗き込む。海老に数の子、小魚、かまぼこ、ごぼう、卵、黒豆、昆布と雑多な食材が並んでいる。

「お正月に食べるお節料理。出来合いものを詰めるのがほとんどだけどね」

 伊織は海老を煮込み始めた。同時進行でかまぼこを切り、卵焼きを作る。

「お節料理にはいろんな願いが込められていて、海老は腰が曲がるまで長生きができるように、黒豆はまめに働いて健康に、とか」

 伊織が卵焼きを返す。黄色い綺麗な焼き色ができている。


「ゴボウはしっかり根を張る、れんこんは見通しが利く」

 曹瑛が容器につけてあった紅白なますをつまみ食いする。

「酢が利いてるな」

「そうだね、お節料理はかまどの神様に3日間は休んでもらう意味もあるんだって。だから日持ちが利くように酢で味をつけたものが多いよ。そのなますは赤と白でおめでたい意味があるね」

 海老も仕上がって、伊織は四角いお重に食材を詰め始めた。


 夕食は出雲そばを茹でた。海老天をレンジでチンしてつゆをかけたそばにのせる。ネギと花形に抜いたにんじんを添えたシンプルなものだ。大皿には筑前煮を盛った。

「これが年越しそばか」

「そう、日本の大晦日にはそばを食べるよ。長く細く伸びるから長寿の意味があるって。それにそば粉は金細工を作る職人が金粉を集めるときに使ったことからお金が集まるという縁起担ぎがあるらしい」

 曹瑛は興味深く話を聞いている。中国語教室で日本のお節料理やお正月の風習について講師の中国人から尋ねられたので、慌てていろいろ調べたことは内緒にしておいた。


「今年はすごい年だった」

 曹瑛の淹れた温かい武夷岩茶を飲みながら伊織がしみじみと呟く。プロの暗殺者である曹瑛との出会い、ヤクザや中国マフィアとの闘争、果てはハルビンの麻薬工場へ乗り込んでそれを壊滅させるというとんでもない事件に巻き込まれた。関わらなければ関わらずに済んだことだったが、曹瑛の人生を取り戻す、という言葉にそれを手助けして最後まで見届けたい、と思った。

 行く道で出会った元極道の榊と弟の大学生高谷とは今やよき友人だ。ノリの良い曹瑛の兄、劉玲に連れられていった宝探しは痛快だった。孫景にライアン、獅子堂に千弥も個性的で一緒にいるだけで面白い。


「そうだな」

 年の瀬という感覚のない曹瑛は気のない返事をする。しかし、いろいろ思うところがあるのか、ふふっと鼻で笑った。

「年明け、榊さんたちが来るって、いいかな」

 榊と高谷はそれぞれ別に暮らしている。集まるきっかけが欲しいのかもしれない。

「別に構わない」

 曹瑛の言葉に、伊織は榊とLINEでやりとりをしている。9時頃に来るという約束になったようだ。


「伊織、世話になったな」

 ソファでマルボロを吹かしていた曹瑛がおもむろに呟く。テレビのしょうも無いバラエティ番組をその隣で観ていた伊織は驚いて曹瑛の顔を見つめる。

「瑛さんどこかに行くの・・・?」

「何を言っている」

 曹瑛は眉を顰める。

「だって、急にそんなこと言うから」

「日本の年の瀬の挨拶なんだろう」

 真顔で言う曹瑛に、伊織はソファからずり落ちそうになった。

「そうだね、俺もいろいろお世話になったよ。来年もよろしく」


 翌朝、9時に来るという榊たちを迎えるために伊織は7時に起き出してお雑煮の用意を始めていた。ベランダのカーテンを開ければ、眩しい朝日が射し込む。少し窓を開けてみると冷たい風が吹き込み、一気に目が覚めた。さすがに今日は周辺の道路も静かだ。一年の始まりの特別な朝に気分は爽やかだ。

「早いな」

 キッチンからは鰹だしの香りが漂ってくる。匂いに釣られて曹瑛も起き出した。髪をもしゃもしゃかいて眠そうな目をこすっている。

「瑛さん、明けましておめでとう」

「あ、ああそうか。おめでたいのか」

 快活な伊織の声に曹瑛はどうもピンと来ていないようだ。顔を洗うためにのろのろとバスルームに入っていった。


 チャイムが鳴り、玄関のドアを開けると榊と高谷だ。その背後にライアンもちゃっかりついてきている。キッチンのテーブルで新年の挨拶を交わす。

「悪いな、新年早々押しかけて」

 榊が日本酒“獺祭”とお節の足しにとお重を広げる。

「いや、賑やかでいいよ、わあすごい豪華」

 伊織が風呂敷をひもといて声を上げる。榊が思い立って作ったというお重にはローストビーフやハムなど洋風のオードブルが詰まっている。

「私もささやかだが」

 ライアンからはお頭付きの立派な鯛が提供された。

「あのう、俺も作ってみたんだよね」

 高谷からはタッパーに詰めた金色の栗きんとん。テーブルには豪華な正月料理が並んだ。


 伊織が温めたお雑煮を配る。

「塩焼きのぶりを入れたおすましか、地方によりいろいろだな」

 関東もおすましだな、と榊は続ける。

「うちは毎年これ。味噌で作るところもあるよね。香川県はお餅にあんこが入ってるらしいよ」

 伊織にその話を聞き、榊と高谷は軽いカルチャーショックを受けている。

 いただきます、と手を合わせ正月料理に箸を伸ばす。

「久しぶりにこちらで過ごすが、日本の正月はいい。お節料理はとても美しくて好きだよ」

 ライアンは満面の笑みを浮かべている。榊は嫌がっていたようだが、せっかく日本で過ごすとわざわざやってきたライアンを無碍にはできず、こうして誘って連れてきたのだった。アメリカではクリスマスを盛大に祝うから、ニューイヤーデイは簡素なのだそうだ。


 3が日で食べるはずの料理がきれいさっぱり無くなった。榊とライアン、高谷は獺祭を空けて何度も乾杯し、ほろ酔い気分になっている。お節料理は酒の肴になる。

「初詣、行くか」

 榊の提案で腹ごなしに出掛けることになった。

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