ひったくり犯を追え

第1話

 烏鵲堂に集まったいつもの面子で酒盛りをした帰り、孫景はJR駅を出て常宿にしている新橋のビジネスホテルに向かっていた。部屋と風呂は狭いが、朝食バイキングが豪華なのがお気に入りのホテルだ。


 今日は少し冷え込むこともあり、中華料理店”百花繚乱”ではゴテゴテの四川料理を食べた。日本人向けにマイルドにアレンジしたものではなく、店長が成都で学んだ本格的な料理を出してくれた。伊織は辛いと涙を滲ませながら食べていた。パンチの効いた香辛料のおかげで、まだ身体が汗ばむほどに温かい。


 冷たい夜風も頬に心地良い。フライトジャケットのポケットに両手を突っ込んで鼻歌交じりに歩いていると、荒々しいスクーターのエンジン音が聞こえてきた。スクーターは孫景の脇を猛スピードで通り過ぎ、前を歩く髪の長い女性のショルダーバッグをひったくった。


「キャッ」

 女性はバッグを奪われたはずみで転倒する。スピードを落としたスクーターに向かって孫景は全力で走り出した。エンジンを吹かそうとした男の肩を鷲づかみにし、バッグを奪い返す。男が抵抗したため、バッグの中身が散乱した。男は焦りながらも足下に落ちたポーチを拾い上げ、逃走した。


 孫景は女性の方を振り向いた。艶やかな長い髪にライトグレーのコート、ピンクのセーターに黒いスカートを履いている。20代半ばくらいだろうか、ナチュラルメイクで美人と言える顔立ちだった。困惑した表情で孫景を見上げている。孫景は手を伸ばし、彼女を起こした。

「あ、ありがとう」

 思ったより低めの、落ち着いた声だった。孫景は女性とともに散乱した持ち物を拾う。スマホは画面が割れていた。


「ポーチが無いわ」

 女性は険しい表情で孫景を見上げる。

「おお、スクーターの男が何か拾って行ったな」

「大事なものが入っているのに・・・どうしよう」

 女性は悲しげに俯き、形の良い唇を噛みしめている。

「とりあえず、警察に行って被害届ってやつか?出してみるしかないな」

 孫景はそうは言ったものの、一度ひったくりに遭ったものが戻ってくることはほぼないことは知っていた。彼女には気の毒だが、それでも警察に任せるしかない。孫景は女性が歩けることを確認して、そのまま別れようとした。


「待って」

 凜とした声で引き留められた。

「なんだ」

 孫景は振り返る。女性は孫景をじっと見つめている。一緒に警察に行けと言われたら面倒だ。孫景は口をへの字にして頭をかいている。

「あなた、スクーターのナンバーを見たでしょう」

 確かに確認した。覚えている。先ほどひったくりの被害に遭ったばかりなのにやけに冷静な女だ。

「ああ、メモしてやるよ。それを持って警察へ行けばいい」

「警察はアテにならないわ」

 形の良い唇は気の強そうな意思が窺える。大柄な孫景を恐れも抱かず見上げる目は鋭く光っている。


「あのポーチ、大事なものが入っているの。取り返してくれない?」

「は?」

 突然の依頼に孫景は頓狂な声を上げた。

「走り去るスクーターから私のバッグを取り返してくれた、その働きを見て頼んでいるのよ。もちろん、お礼はするわ」

「何で俺が・・・」

「これ、私の名刺よ。あなたの連絡先も教えてくれる?」

 女性はポールスミスの名刺入れから一枚の名刺を取り出した。グローバルフォース社 企画室主任と肩書きがついている。


「けい・・・ぶ?なんて読むんだ?」

 名刺には刑部千弥と書いてある。漢字の意味は分かるが、日本人の名前となると読み方が難しい。もしかしたら曹瑛でも読めないかもしれない。

「おさかべ ちひろよ。それで、あなたの連絡先は」

 押しが強い。夜道で出会った男にこうも積極的に絡んでくるのか。孫景は仕方なしにスマホの番号を教えた。

「名前は?」

「孫景」

「あら、日本人じゃないのね。日本語がとても上手だわ」

 高飛車な態度に褒められている気がしない。


「俺は次の週末には帰国するんだよ」

「そう、ならそれまでに捕まえないとね、今日は解散しましょう。また連絡するわ」

 千弥は颯爽と去っていった。小娘のくせに、随分と肝が据わっているものだ。孫景はすっかり酔いが覚めてしまった。


 翌日、夕暮れの烏鵲堂で小型のノートPCをいじる孫景の姿があった。頬杖をついて面倒くさそうに画面を眺めている。

「孫景さんがそんな顔してるなんて珍しい」

 仕事帰りにやってきた伊織が正面に座った。ハーフコートをハンガーにかけ、その横に榊も座る。烏鵲堂は仲間たちの居心地の良い溜まり場になっている。黒い長袍姿の曹瑛が西湖龍井をグラスで運んできた。

「ああ、ちょっと面倒なことに巻き込まれてな」

 孫景は眉根を寄せて渋い顔をしている。


「え、ひったくり犯を捕まえるの」

 孫景がかいつまんで先日の飲み会帰りの話をした。その顛末に伊織は驚いている。

「その女もなかなか豪気だな、警察に任せず得体の知れないお前を雇うとは」

 榊の言葉に孫景は不満そうな顔を向ける。

「俺はこう見えても優しいお兄さんだぞ、でもまあ、普通は見ず知らずの男にこんなこと頼まないだろうな」

「で、手がかりはあるのか」

「無いな、バイクのナンバーを調べたが盗難車だ」

「だろうな」

 榊は何やら考えている。


「ひったくりは常習になるからな、付近で似たような手口で被害が起きているんじゃないか」

 榊の言葉に孫景は少し考えて、ノートPCから情報屋に依頼をかけた。曹瑛が絵皿に揚げ菓子を盛ってきた。時々こうして試作品を食べさせてくれる。

「麻花だ」

「お、懐かしいな」

 孫景には見覚えがあるようだ。麻花は砂糖をまぶしたねじりが入った小さな揚げパンだ。中国では定番の菓子だと曹瑛が説明する。

「うん、おいしい」

 噛めばサクサクしており、食感が良い。伊織は二本目に手を伸ばした。

「飽きの来ない素朴な味だな、これならテイクアウトにも良いんじゃないか」

 榊も気に入ったようだ。


「その女性も災難だったけど、孫景さんのおかげで全部取られなくて不幸中の幸いだったね」

 伊織の言葉に孫景は頭を抱える。

「俺はそんな現場に出くわして不幸だよ」

「そんなこと言っても何とかしてあげようとする孫景さんはやっぱり優しいよ」

 伊織のフォローに孫景は弱々しく笑う。

「だが、お人好しもほどほどにな、得体の知れない女だ」


「そうだ、グローバスフォース社の名刺だった」

「なに、グローバル・フォース社だと・・・」

 孫景の言葉に榊の顔が曇る。

「ライアンの会社だな」

 窓際にもたれて話を聞いていた曹瑛が呟く。榊はあからさまに嫌そうな顔をする。

「ライアンが女のことを知っているんじゃないか」

 曹瑛が榊に尋ねてみるよう促す。

「あいつとは必要最小限にしか関わりたくないんだよ」

 榊は頭を抱えている。


「まあ、いいさ。名刺を渡すくらいだから怪しいことなんて無いだろう」

 榊のライアンに対する気苦労を知っている孫景は、無理して千弥の素性を調べるつもりは無いようだ。

「今度、WEB会議をする予定があるからそれとなく聞いておいてやるよ」

「榊、その会議は自宅でやれ。この店では絶対に禁止だ」

 曹瑛は厳しい表情で言い放ち、空になった麻花の皿を持って厨房へ引っ込んでいった。

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