第3話

「これはひどい」

 月に2回の中国語教室の帰りだった。中国人留学生の王麗から教えてもらった飲食店口コミサイトを見て、伊織は絶句した。彼女は烏鵲堂でアルバイトをしている。


「店長さんが悲しみますね」

 大手の飲食店口コミサイト“食ログ”のページだ。カフェのカテゴリに烏鵲堂は掲載されている。何も評価が入らなければ5点のスタート、8点台になれば間違いない店、9点台は行列ができる有名店という感触だ。烏鵲堂には2.4点という評価がついていた。2点台などそうそうあるものではない。コメント欄を見れば、似たようなアカウント名で値段が高い、接客態度が悪いなどコピーペーストしたような悪意ある文字が並ぶ。カビの生えた茶を飲まされた、というコメントに伊織はピンときた。


「きっと、あいつらだ・・・」

 伊織は悔しさに唇を噛んだ。数日前、烏鵲堂にやってきたチンピラ風の3人組だ。カビの生えた茶を飲ませたという狂言での嫌がらせが目的だった。

「大丈夫だよ、サイトへ申し立てして悪意のある書き込みは消してもらえる」

 伊織の言葉に王麗は安心したようだった。


 帰りの山手線の車内で他のサイトを検索してみた。大手のサイト3つで烏鵲堂の評価はひどく下げられていた。適当なアカウントを使ってコピーした文言を書き込んでいる。口コミサイトの評価を左右する業者がいると、前職の広告代理店で小耳に挟んだことがある。

 曹瑛はこんな口コミサイトの評価を気にしないだろう。しかし、曹瑛が新しい人生の門出に始めた店を、こんな形で侮辱されるのが伊織には許せなかった。烏鵲堂の近くに店を構えた“天龍茶館”の天野が怪しい。しかし、証拠が無い。


 マンションに帰れば、曹瑛が夕食を作っていてくれた。白湯スープの鶏煮込みそばに春巻き、トマトと卵の炒め物が並ぶ。

「わあ、美味しそう。ありがとう」

 食事の用意は早く帰った方がすることになっている。締め切りが近づくと伊織は遅い日が続くので、小鉢に盛れる副菜を作り置きするようにしている。

「このスープ、ショウガの風味が効いてて身体が温まるね」

 素朴で優しい味の白湯スープが美味しい。春巻きは揚げたてでパリパリだ。トマトと卵の炒め物は簡単にできるのでよく登場するレシピだが、飽きが来ない。


「今日、店に天野が来た」

 曹瑛の言葉に伊織は心配そうな顔を向ける。

「何しに来たの」

「茶を飲んで帰った」

 曹瑛は白湯スープを啜る。味付けはまずまずと満足そうだ。

「それだけ?」

 伊織は拍子抜けした。しかしプライドが高い天野のことだ、偵察にやってきたのだろう。

「茶葉をどうやって仕入れているのか聞いてきたな」

 曹瑛は茶葉を個人輸入している。時々、兄の劉玲が独自ルートで仕入れた品を送ってくれることもある。劉玲の見定めた茶葉は通常の市場に出回らない、品質が良いものばかりだ。


「仕入れのことを教えたの」

「教える義理などない」

 曹瑛の不遜な態度に天野の憤る顔が目に浮かんだ。口コミサイトの件もあり、伊織の表情は暗い。

「奴のことを気にしてどうなる」

 曹瑛の言葉に伊織はそうだね、と小さく微笑む。烏鵲堂のお客さんも平常通りらしく、競合店に取られたのは一時期のことのようだ。何も心配はいらないだろう。


 珍しく定時で職場を出た日だった。地下鉄駅を出て烏鵲堂へ向かう途中、伊織は見覚えのある3人組を見つけた。烏鵲堂で騒ぎを起こした連中だ。天龍茶館の脇の路地に入っていく。心臓がドクンと鳴った。伊織は天龍茶館の裏手に回り込んだ。壁に身を隠して覗き込めば、裏口から出てきた天野とチンピラ3人組が話をしている。

「烏鵲堂で毎日騒ぎを起こして客を飛ばせと言ったのに、何故できないんだ」

 天野の苛立った声。

「厄介な奴がいて、難しいんだよ」

 榊のことだ。足を洗っても裏社会での榊の影響力は大きいらしい。天野は不甲斐ない男たちを睨み付け、舌打ちをする。


「口コミサイトの方は順調だろ」

 やはり、口コミサイトの低評価は天野の指示か、なんて卑怯な。伊織は怒りに顔を赤らめる。

「それより、あの店の仕入れルートは分かったのか」

 天野の言葉にチンピラどもは薄ら笑いを浮かべている。

「ああ、中国から個人輸入をしているようだ。荷物は青海のコンテナセンターに留め置かれる」

「よし、届いた荷物を奪うぞ。あれほど高品質な茶葉をあの価格で提供するなど、あの男はいったいどういうルートを持っているんだ」

 天野は悔しそうに顔を歪めている。チンピラどもにとって悪どいことを平気でやってのける天野は良い金づるのようだ。


「今、青海に届いてるぜ。明日の朝には集配がくる」

「今夜決行だ。お前達、段取りはできるだろうな」

 天野はピアス男の顔を見据える。

「まかせとけ、警備員には金を握らせてある」

 今夜9時に青海埠頭だ、と話はついたようだ。男たちは裏路地から立ち去った。伊織は壁に張り付いたまま凍り付いている。烏鵲堂の茶葉が奴らに盗まれてしまう。伊織は唇を噛み、拳を握りしめた。


 伊織は新橋の出版社に戻った。駐車場にある取材用のカブに跨がり、ヘルメットをかぶる。東京は交通が発達しているが、どうしても不便な場所もある。そういうときにはこのベージュのカブを借りていくのだ。青海埠頭は広い。足があった方がいいだろう。


 夜道をパタパタとカブで駆ける。逸る心で普段よりスピードを出している。しかし、茶葉を守りたい一心で飛び出してきたものの、青海埠頭の倉庫に9時という情報しかない。それに荷物を見つけたとしてどうするのか。警備員は買収されている。

「ああ、やっぱりダメだ・・・」

 埠頭について暗い海を前にして伊織は頭を抱えた。計画性の無さに目眩がする。


 伊織が無力感に打ちひしがれていると、一台の黒いバンが通り過ぎ、倉庫街の通りを曲がっていった。運転席にはあのピアス男が見えた。

「奴らだ」

 もう迷ってはいられない。伊織はカブのエンジンをかけ、バンを追った。倉庫の影にカブを留め、バンに近づいていく。バンにはすでに誰も乗っていなかった。伊織はスマホのカメラでバンのナンバーを撮影した。


 倉庫の裏口は開いていた。警備員が開けておいたのだろう、ここから入ったに違いない。伊織は静かに扉を開け、倉庫に忍び込んだ。高い天井までコンテナが積み上げられている。申し訳程度に薄暗い明かりがついている。小口の荷物は奥の方へ分けられているようだ。伊織はコンテナの隙間を身を屈めて進んでいく。


「お、これだな。上海からの荷物、烏鵲堂あてだ」

 男たちの声が聞こえてきた。伊織は積み荷の影に身を隠してそっと覗き込む。

「5箱もある、意外に重いぜ。クソ、面倒だな」

 男たちは烏鵲堂あての荷物を物色している。伊織はそっとスマホを取り出し、動画撮影ボタンを押した。緊張で口の中がカラカラだ。スマホを握る手は汗びっしょりになっている。


 スーツのピアス男と背中に翼のエンブレムがついた白いジャージの男、髭面の金髪男の3人だ。薄暗いが、スマホのカメラは性能がいい。もう少し近づけば顔も認識できるだろう。男たちは台車に段ボール箱を載せて運び出そうとしている。顔を撮影すれば、警察に証拠を提示できる。伊織は息を殺してぎりぎりまで粘った。カメラが3人の顔を捉えた。停止ボタンを押し、物陰に隠れる。


 男たちは倉庫を出て車に段ボール箱を積み込んだ。しかし、残り2箱が入らない。

「面倒だな、天野には何箱あるか言ってないだろ」

「そうだな、海に捨てようぜ」

 金髪は台車を蹴り飛ばす。下っ端なのか、白いジャージが台車を海沿いへ押していく。どうしよう、このままでは大事な茶葉が海に捨てられてしまう。伊織は思わず飛び出した。


「やめろ、荷物から手を放せ」

 伊織は叫んだ。緊張で声が震えている。タバコを吸っていたピアス男と金髪が振り向いた。

「何だ、お前・・・あの店にいた奴か」

 ピアス男がタバコを地面に落とし、揉み消した。金髪と共に伊織に近づいてくる。

「お前、一人か。何しに来た」

 男たちはヘラヘラと笑っている。

「お前たちが荷物を盗むのを動画で撮った。これから警察に行く」

 その言葉にピアス男は顔色を変えた。

「スマホで撮影したのか、寄越せ」

 ドスの利いた声で凄む。伊織は頭を振った。強い拒絶の意思に男たちは苛立ちを募らせる。


「スマホを寄越さないと、こいつを落とすぜ」

 ジャージが台車に手をかけ、海際へ押す。

「や、やめろ!」

 伊織は台車に手を伸ばす。ピアス男が伊織を突き飛ばした。コンクリートに転がった伊織に追い打ちをかけ、海に向かって蹴り飛ばす。伊織は河岸のブロックにしがみつき、何とか転落を免れた。しかし、ピアス男が伊織を見下ろして歯を剥き出して笑っている。

「お前が落ちればスマホもオシャカだな」

 そう言いながら伊織の手を踏みつける。

「うぅ・・・」

 台車が海に落ちる音が聞こえた。踏まれる手が痛い。悔しさで涙が滲む。せめてこいつらの悪行の証拠だけでも。伊織は顔を上げてピアス男を睨み返した。痛みに耐え、よじ登ろうとする。


 不意に男の足の力が抜けた。見れば、男が宙に浮いている。そのまま背後に吹っ飛んだ。そして、太い腕が伸びて伊織の身体を引き上げた。

「孫景さん・・・!」

 そこには孫景が立っていた。

「伊織、一人で無茶しすぎだぜ」

 孫景は男たちにむき直る。横を見れば、台車はそのままで海に落ちたのは白ジャージだった。意外と深いらしく、助けてくれと情けない声で泣き叫んでいる。

「俺の荷物に手をつけやがって、それに大事な友人を痛めつけたな」

 大柄な孫景の威圧感に金髪は怯えている。ピアス男はポケットからジャックナイフを取り出し、叫びながら突進してきた。孫景はナイフを持つ腕を掴み、捻り上げる。


「クソ、痛え、離せ!」

 喚くピアス男の横っ面に拳を食らわせた。ピアス男は勢いよく吹っ飛び、気絶した。孫景は振り向きざまに金髪の頭を掴み、持ち上げる。

「ゆ、許してくれ」

 孫景はニヤリと笑い、金髪を海に放り投げた。派手な音がして金髪は海に落ちる。孫景は近くにあった浮き輪を投げてやった。


「孫景さん、ありがとう。でも、どうして」

 伊織はふらふらと立ち上がる。踏みつけられた手の甲には血が滲んでいる。

「烏鵲堂への荷物は俺が運んでいるんだ。最近荷物の周りをかぎ回る奴らがいることに気付いて、箱にGPSを仕込んでおいたらこいつらが釣れた。おまけに伊織までな」

 伊織は安心して脱力した。茶葉は無事だ。海に落ちそうな台車を引き上げる。


 孫景のトラックに積み荷を移動させ、伊織も助手席に乗り込んだ。

「これは明日烏鵲堂へ届ける、安心してくれ」

「うん、ありがとう」

 孫景の言葉が心強い。温かい缶コーヒーが身体に染み渡る。

「何で一人で来たんだ」

 孫景がいなければ海に突き落とされていた。もしかしたらもっと酷い目に遭っていたかもしれない。

「奴らが茶葉を狙っていると知って、どうにかしないとって思って・・・何も考えずに飛び出してきちゃったよ」

「そうか、頑張ったな。でも無茶はやめとけよ」

 孫景の言葉に伊織はそうだね、と力なく笑った。


「俺、烏鵲堂が好きなんだ。お茶も点心も美味しいし、お客さんにお茶を淹れる瑛さんも楽しそうで、お店をオープンして本当に良かったって思ってる」

 孫景は黙って伊織の話を聞いている。

「瑛さんがやっと掴んだ人生、それを心ない人が潰そうとしている、そんなの許せない」

 悔しさに涙がにじんで、伊織は目を閉じた。

「本屋ならまだしも、あの無口で無愛想な曹瑛がカフェなんておかしいだろう。何でカフェをやろうと思ったのか聞いたことがある。伊織があいつが淹れたお茶に喜んでくれたからだって言ってたな」

 曹瑛が初めて中国茶を飲ませてくれたときのことを思い出した。その流れるような手技の見事さとお茶の美味しさに感動したときのことを。


「伊織の証拠動画であいつらはお縄だ、あいつらに指示した奴も罪に問われるだろう。お手柄だぜ」

「うん、良かった。・・・じゃあ俺帰るね。カブで来たから」

「大丈夫か、気をつけろよ」

 伊織は車から降りて孫景に手を振った。


***


 翌日、天龍茶館の前を通りかかると臨時休業になっていた。伊織は烏鵲堂へ向かい、いつもの窓際の席に座った。曹瑛が何も聞かず、茶盤を持ってきた。

「鳳凰単叢通天香、烏東山の樹齢150年以上の樹から採れる希少な茶葉だ。今日、入荷したばかりだ」

 曹瑛は流れるような手技で美しい深みのある金色の茶を淹れてくれた。ほのかな花の香りが口に含んでもしばらく続く。甘さの中に爽やかな渋みもあり、味わい深い。

「わあ、すごくおいしい」


「今ここにあるのはお前が守ってくれたおかげだ」

 伊織はドキッとして曹瑛を見上げた。孫景から事情を聞いたのだろう。曹瑛はすべてお見通しのようだ。

「ありがとう」

 そう言って曹瑛は伊織の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「でも、もう無茶はするな」

 ついでのデコピンが意外に痛くて、伊織は頭を抱えた。

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