第2話
扉は開かれた。
曹瑛と榊は警戒しながら部屋に足を踏み入れる。瞬間、ふわりと甘くエキゾチックな香りが漂う。白檀の香を焚いているようだ。ほの暗い室内にはいくつものキャンドルが揺れていた。正面にワインレッドのビロードのカーテンが下りている。その向こうに捕らわれたライアンがいるのだろうか。
「榊、あのカーテンの向こうにライアンがいるんじゃないのか」
「おそらくそうだろうな」
曹瑛と榊は顔を見合わせる。曹瑛は腕組をしたまま動かない。高いヒールのせいで榊を見下ろす格好になっている。
「行ってこい」
曹瑛が指さす。
「何をたわけたことを言っている。俺だけけしかけようとするな」
榊は眼鏡の奥から殺気を込めた視線で曹瑛を射る。
「そもそも、お前がライアンを助けようと言い出したのだろう」
曹瑛は手を腰に当ててふんぞり返っている。ファー付きのコートにヒールを履いた高圧的な姿は、やたらと様になっている。
「ここに来て怖じ気づいたのか」
榊の挑発に曹瑛は唇を歪めた。榊は唇の端を吊り上げてニヤリと笑う。曹瑛はヒールの音を響かせてカーテンの前に立つ。
「同時に開けるぞ」
曹瑛がカーテンに手をかけた。
「いいだろう」
榊は頷く。2人は妥協点を見いだしたようだ。目で合図をし、一気にカーテンを両側に引いた。
「よく来てくれた、英臣、曹瑛」
そこにはまるで二人が来るのを待ち構えていたように、アンティーク調のソファにゆったりと身体を横たえるライアンの姿があった。艶やかな金髪は軽く後ろに流し、毛足の長い毛皮のコートを羽織っている。
首に巻いた黒いレザーのベルトから動画にあった細身の鎖が垂れている。その先は何にも繋がっていない。ライアンは捕らわれてなどいなかったのだ。
ライアンは優雅な身のこなしで立ち上がった。豊かな毛皮のコートの下には白い大理石のような素肌が見える。足首までのレザーパンツはよく見れば両サイドが編み上げになっていた。曹瑛は見てはいけないものを見た気がして目を逸らした。榊も白目を剥いて頭を抱えている。
「ハロウィンナイトへようこそ、君たちも仮装を楽しんでくれて嬉しいよ」
ライアンが曹瑛と榊を交互に見つめてにっこりと微笑む。
「これはどういうことだ」
曹瑛が真顔でライアンに問う。唇が小さく震えているのは恐怖か、怒りか。
「お前、捕らわれていたんじゃ」
榊は呆然としている。
「おお、よく気が付いたね。今夜のテーマはボンデージ。日本語で言えば、束縛だね。ボンデージと言えばエロティックな響きだけが先行しがちだが、美しいレザーの素材を生かしたデザインの表現性は無限大だ。まさに芸術だよ」
ライアンは大仰な身振りで語り続ける。
「私がパトロンになっているニューヨークの気鋭の若手アーティストに依頼して、君たちにぴったりの衣装をデザインしたんだよ。最高級の革素材を使ったハンドメイドだ。よく似合っている」
「曹瑛、君は細身でスタイルが良い。身体のラインの美を強調したデザインを提案したよ。英臣は均整のとれた筋肉質な肉体を慎ましく覆いながらも、ハーネスにより胸筋を際立たせるデザインになっている」
ライアンは恍惚として2人を見つめている。
「ボンデージといっても、肌の露出だけが見せ場ではない。これは私の美意識だよ」
微笑むライアンに、曹瑛が反射的に怒りの平手打ちを食らわせた。
「ぐっ・・・!」
ライアンが呻く。鉄拳でなく、平手にしたのは曹瑛なりの手加減だった。その顔は恥辱に赤く染まり、怒りに燃えている。
「ああ、SMの世界は理解できないと思っていたが、扉が開いてしまいそうだ」
ライアンは頬を撫でながら曹瑛に艶めかしい笑顔を向ける。
「お前が何者かに捕らわれていると思って来てみれば、仮装大会だと」
曹瑛はマジギレしていた。ピンヒールで容赦なくライアンを蹴り飛ばす。ライアンはよろめいてソファに倒れ込んだ。はだけたコートの下には胸骨の位置にあるリングで首と両肩、パンツを繋ぐ十字のラインが見えた。胸から腰にかけて素肌が露わになるデザインだ。
曹瑛は怒りに任せてライアンを踏み抜く。
「うぐ・・・もっとマイルドに頼む」
ライアンは困り顔だが、曹瑛のピンヒールに踏まれてどこか嬉しそうだ。
「さすが、タフガイだな・・・止めておけ、喜んでるぞ」
榊が目頭を押さえて呆れている。
「榊、そもそもお前が早合点してこの男が捕らわれていると勘違いしたからこんなザマに」
瞬間、曹瑛の怒りは榊に向けられた。その隙を突いてライアンが曹瑛の足に手を這わせる。
「長く美しい脚のラインにフィットするレザーのニーハイブーツ、よく似合っている」
ドン引きした曹瑛が息を呑んで脚を放した。何とか気合いで気絶せずに踏みとどまっている。ライアンがゆっくりと立ち上がる。白い肌に赤味が差しているが、ダメ―ジはほとんどないようだ。さすがに鍛えているだけはある。
ライアンは榊の方を向いた。
「英臣、想像以上にクールだよ」
突然、標的にされた榊はライアンに思わず手にした乗馬鞭を振るった。ライアンの肌を鞭が打つ。
「ああ、なんて激しい・・・君はやはりホットな男だ」
「うおっ」
榊はライアンの首の鎖をつかみ、頬に拳を食らわせた。未知の恐怖で拳は目も当てられないほどへなちょこだった。もちろんライアンにダメージはない。
「君たちの麗しい姿を見られて最高にハッピーだよ。ワインがある。乾杯しよう」
ライアンはサイドボードからクリスタルガラスのグラスを取り出す。
「馬鹿らしい、帰る」
曹瑛は怒り心頭だ。大股で扉の方へ歩いて行く。榊も踵を返した。不意に、慣れないピンヒールに曹瑛がバランスを崩す。転倒しそうになる曹瑛を榊が支えた。
「冷静になれ」
「なれるかこれが」
曹瑛は榊を睨み付ける。
「ああ、見せつけてくれるじゃないか君たち」
嬉しそうなライアンに睨みを利かせながら曹瑛は扉を出て行く。
「あいつはあいつなりにお前のことを心配していた。俺もな。それがまさかこんな茶番とはな」
榊は言い捨てて部屋を出る。曹瑛はまた長い通路で転びそうになっていた。ロッカーのある部屋で着てきた服を掴みとり、そのまま出て行こうとする。
「着替えないのか」
「早く帰りたい」
曹瑛は口をへの字に曲げている。悠長に着替えていたら、またライアンに絡まれるかもしれない。異様な格好だが、そのまま車へ戻ることにした。
BMWに乗り込み、エンジンをかける。榊がデュポンで火をつけた。曹瑛ももらいタバコを咥える。窓を少し開け、細い煙を吐き出す。夜気の涼しさとタバコの匂いに、2人とも冷静さを取り戻してきた。
「思えば、ライアンの招待状を深読みしすぎたのかもしれない」
榊が呟いた。
「そうだな、パーティの誘い、ライアンは待ってると言っていただけだった」
「単純に、仮装パーティの誘いだったのか」
榊は頭を抱える。あまりにリアルで異様な演出にライアンが拉致されたと思い込んだのだ。曹瑛はタバコの火を見つめている。平手で思い切り殴り、ピンヒールで足蹴にした。さすがに悪かったような気がしてきた。
榊も鞭でしばき倒した後に、鎖を引き回して拳を食らわせたことをやや後悔していた。
曹瑛はマンションの部屋の鍵を開けた。時計を見れば、午前12時をまわっている。曹瑛は苦労してやっと脱いだニーハイブーツを忌々しげにポーチに投げ捨てた。
榊が品川のマンションに帰れば、高谷がソファで眠っていた。高谷には鍵を預けてあるので気まぐれに遊びに来る。
今日は榊と曹瑛がライアンの元へ行ったことが気になっていたのだろう。
「結紀、風邪ひくぞ」
榊は高谷の頭を撫でる。
「ああ、榊さんおかえり・・・どうしたのその格好」
榊の格好に驚きのあまり、高谷がソファから転がり落ちそうになる。榊は複雑な表情を浮かべている。
高谷の淹れたコーヒーがガラステーブルに置かれた。顔を洗ってTシャツとジャージに着替えると心が落ち着いた。
「ライアンは無事だった・・・お前は罠だと言っていたな」
榊は下ろした前髪を軽くかき上げる。
「うん、ライアンの悪ふざけだろうなって思ってた」
高谷の返事に、榊は肩を落として大きなため息をついた。裏を読みすぎて冷静さを欠いていた自分を殴りたい。
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