第2話

 バーGOLD HEARTからの帰り道、曹瑛は無言のままだ。榊の話を聞いてからずっと思案を巡らせているようだった。考えながらもしっかり料理は平らげていた。獅子堂が食べようとした最後の一切れの肉を遠慮無く口に放り込んでいた。バーのわりにがっつり系の料理が豊富でリーズナブルなのは、オーナーである榊のこだわりなのだろうと伊織は思った。


 榊原組は関東一円を支配する麒麟会の一次団体で、神奈川県西部における一大勢力を誇る。組長を務める榊原昭臣は一代で組をここまで大きくした切れ者だ。榊はその榊原のガードを獅子堂に依頼した。

 破門により、榊原に恨みを抱く羽島武則が今月出所するのを受けてのことだ。羽島がどんな男か聞き知っており、日本の裏社会のネットワークも持っていることから榊は獅子堂を選んだ。


 榊原は毎年、この時期に行われる天龍山不動院の菊祭を見学する。護衛は最小限、滅多に公の場に姿を現さない榊原の命を狙う絶好のチャンスになる。

 羽島は刑務所で知り合った危ない連中とともに榊原の襲撃を計画している。訳あって榊は表だった動きはできないという。

「榊さん、何か訳がありそうだった」

 伊織の問いかけに、曹瑛は黙って頷いた。


***


 榊の話が気になった伊織は、閉店後の烏鵲堂に立ち寄った。

 曹瑛は長袍を脱いで、ジーンズに謎のキャラクターがプリントされた黄色いTシャツを着ている。

「瑛さん、それなに」

「ペンギンだ」

 真顔で曹瑛はペンギンだと言い張るのだが、どう見てもそうは思えない。普段私服もスーツも隙無く着こなしている曹瑛だが、部屋着のダサさは目を見張るものがある。榊や高谷が見たら吹き出すに違いない。


「週末はここに行く」

 曹瑛のタブレット画面を覗き込めば、天龍山不動院のページが開かれていた。1200年の歴史のある大きな寺だ。菊祭の案内が大きく出ている。

「ここ、榊原組の組長が行くといっていた寺だ」

「そうだ」

 どういうつもりなのだろう。菊祭に興味があるのだろうか。はたまた獅子堂と組んでガードをするつもりなのか、伊織がよほど怪訝な顔をしていたらしく、曹瑛はフンと鼻を鳴らして笑う。


「榊原はおそらく榊の父親だ」

「えっ」

 伊織は目を丸くした。

「ハルビンにいたとき、八虎連の命で日本人のガードを務めたことがある。そのときによくしてもらった恩がある」

「そんな繋がりがあったんだ」

 縁とは不思議なものだ。まさか榊の父親と曹瑛が面識があったとは。


「榊さん、名字が違うね」

「親父のヤクザ家業を継ぎたくないと自ら離縁を申し出て、家を飛び出した。そのときに榊原の姓を捨てたのだろう」

「榊さん、頑固なところがあるからなあ・・・お父さんとは顔を合わせてないのかな」

 離縁とはまた思い切ったことをしたものだ。

「さあな」

 曹瑛は生返事のまま画面を真剣な表情で見つめている。榊から依頼を受けた獅子堂とは別で動こうとしているのだろうか。


「伊織、これだ」

 曹瑛がおもむろに画面を見せる。離縁したとはいえ、父親を凶漢に狙われる。心穏やかではない榊の心境を思い、複雑な表情をしていた伊織は白目を向きそうになった。

「相模湾でとれる湘南しらすを使った小田原丼・・・って瑛さんそれ調べてたの!?」

「この魚市場で食べられるらしい」

 曹瑛は列車の時間を調べ始めた。榊原のガードの件はおそらく彼の頭の中で完結しているのだろう、それはそれで安心なのだが。伊織は小さなため息をついた。


***


 品川のマンションのエントランス前で高谷はバイクのエンジンを切った。榊の乗っていたホンダシャドウを譲り受け、メンテナンスして大切に乗っている。

 エントランス前ではタバコを吸いながら榊が待っていた。ダークグレーのジャケットに白のニット、黒いパンツにスウェードの紐靴を履いている。高谷は榊にヘルメットを手渡す。

「悪いな、急に」

 榊はヘルメットをかぶり、ブラウンのサングラスをかけた。

「父さんのことだし、いいよ」

 あ、もう父さんって呼べないなと高谷は薄く笑う。榊は高谷のシャドウの後ろに跨がる。

「俺の運転で良いの」

「ああ、バイクは久しく乗ってないからな。お前の方が慣れているだろう」

 榊が高谷の腰に手をまわす。高谷はアクセルを吹かし、シャドウは走り出した。


「あのときと逆だね」

「そうだな」

 榊原の家を出る最後の日、榊は夜の海岸線を小さな高谷を乗せて走った。当時、高谷はまだ7つだったか、それが今はホンダシャドウのハンドルを握っている。月日の経つのは早いものだ。榊は自嘲した。

 首都高を西へ、小田原を目指す。朝の海岸は太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。


 兄に倣うように離縁を切り出した。それは自分なりの覚悟を決めてのことだった。父、榊原昭臣の寂寞とした無念の顔は今でも忘れられない。しかし、彼は無理に引き留めることもなく、送り出してくれた。そのことは心底感謝している。

 兄である榊より父の命が狙われることを聞き、高谷は動揺した。過ごした期間は短かったが、血の繋がった父への情と恩義はある。自分が行って何かできるわけでもない、しかし行動せずにはいられなかった。


 海沿いのカフェでバイクを停めた。

「休憩しよう、朝は食べたか」

 榊は朝食を抜きがちな高谷を気遣う。相模湾を見渡すカフェテラスでモーニングセットを注文した。空の色を映し、海は目に沁みるほどの美しい青さを見せる。寄せては返す穏やかな波の音を聞けば心が落ち着く。

 フレッシュサラダに目玉焼き、カリカリに焼けた香ばしいトースト、挽き立てのコーヒー。幸せな朝の匂いだ。


「大丈夫かな」

 父親のことだ。不安そうな表情の高谷に榊は胸を痛める。しかし、この件を知らせないのは筋が違う。高谷もそう思っているだろう。

「護衛には大塚もついているだろう、抜かりない男だ。それに獅子堂にもガードを依頼した」

 大塚は榊原組の若頭だ。羽島の出所ももちろん知っている。厳重な警備を敷いているに違いない。獅子堂の仕事ぶりも情報屋から聞いている。信頼できる男だ。


 しかし、物事に絶対はない。かつて所属した組では警戒していたにもかかわらず、目の前で若頭が凶弾に斃れた。獅子堂に任せるだけではあまりにも無責任だ。何かあれば動けるように、榊も心づもりはしていた。

「海、綺麗だね」

 高谷は遠い水平線を眺めている。穏やかな高谷の声に榊は自分がひどく焦っていることに気がついた。

「海は好きだよ、榊さんとの思い出がたくさんある」

 高谷はにっこりと微笑む。

「そうだな、俺も好きだ」

 榊は目を閉じて心地良い波の音に耳を傾けた。


***


 新宿から鈍行を乗り継いで小田原へ、港に近い駅で伊織と曹瑛は電車を降りた。魚市場の中にある食堂で小田原丼を食べるためだ。目当ての食堂は市場の中にある。活気のある市場の中を歩いて行く。

 食堂の看板を見つけ、潮で錆びが浮く階段を上れば開店前だがすでに客待ちの列ができていた。


「すごく人気の店だね」

 これは期待できる。店内は簡素なテーブルが並ぶ昔ながらの食堂だ。窓の外には市場の様子が見下ろせた。名物小田原丼を注文し、番号札の呼び出しを心待ちにする。

 手にした丼を見て伊織は身を乗り出すほど感動した。相模湾でとれた新鮮なしらすに、甘エビ、ハマチ、鯛、まぐろ、ヒラメ、いか、いくらがはみでるほどのボリュームで乗っている。味噌汁は魚のあらが入った漁師風で出汁の風味が香る。一品で海老と野菜の天ぷらもついており、コスパは最高だ。


「わ、すごいボリューム!新鮮で美味しい」

 おろしわさびを醤油に溶かし、丼にかける。市場の食堂とあって、肉厚の大きな鮮魚の切り身がどかっと乗っており、食べ応え充分だ。名物のしらすは一般的なものより大きい。器は美しい小田原漆器を使っている。艶やかな赤色の器はさらに食欲をそそる。

「これはいい」

 中国人だが、日本にやってきて生食にすっかり慣れた曹瑛も満足そうに食べている。次に来た時はあの海鮮ユッケ丼が食べたいと言い始めたから、相当気に入ったようだ。味噌汁を飲み干し、温かいお茶で一服する。


「不動院に行くぞ」

 漁港で海を眺めながらマルボロで一服していた曹瑛が呟いた。良かった、本来の目的を忘れていなかったようだ。

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