第2話

 伊織の入院する東都大学病院には緑豊かな広い中庭があり、経過の良い入院患者は陽光を求めてここで過ごす者も多い。孫と思しき小学生くらいの女の子に車椅子を押してもらう老人や、中年の夫婦、妊婦さんとその夫など、無機質な病棟から出て、中庭を思い思いに散策している。

 木漏れ日揺れるベンチで伊織は曹瑛と並んで座っていた。この時期、朝晩は冷えるが、日が昇ると気持ちの良い気候だ。心地良い風が頬を撫でる。


「手術は明日だったな」

「うん、抗生剤の効きを見て、状態が良ければ明日3時からって聞いたよ。早く退院してお腹いっぱい食べたいよ」

 昨日から緊急入院になり、まともに食事をしていない上に虫垂炎のオペ前ということで食事制限がある。伊織は深い息をつく。

「腹が減るのは元気な証拠だ」

 曹瑛はフンと鼻を鳴らして笑う。


「よう、ここにいたのか」

 榊がやってきた。シャドウストライプの黒のスーツにグレーのシャツ、紺色のタイ、縁なし眼鏡をかけている。仕事の合間なのだろう。長い前髪を軽く下ろし、申し訳程度にその鋭い目を隠しているが、醸し出す雰囲気はカタギに見えない。曹瑛の隣に腰を下ろし、足を組む。

「明日オペだろ、頑張れよ。麻酔で寝て、目が覚めたら終わってるだろう」

「ありがとう、榊さん」

「手術が終わったらゆっくり温泉にでも行くか」

 毛が生えそろってからな、と榊はニヤニヤ笑っている。曹瑛は意味が分からず、食首を傾げている。

「腹腔鏡ならお腹に穴を開けるだけって聞いてるから」

 伊織はふくれっ面を向ける。退院したらどこの温泉に行くか、何が食べたいか、他愛の無い会話で気分が紛れた。


***


 伊織と共に病室に戻った。

「また明日来る」

 曹瑛はそう言いながら目線をずらし、ベッドサイドにある医師の名前を確認する。主治医の名は大野亮平と書いてあった。昨日病状説明に来た若い医師の胸のネームプレートと一致した。

「主治医の大野という医者がオペを担当するのか」

「そうだよ、昨日の先生」

 曹瑛はそうか、と短く呟いてカーテンを閉めた。曹瑛の瞳が険しく光るのを榊は見た。

 回診にやってきた大野医師を見つけ、曹瑛が声をかける。


「ちょっといいか」

「あなたたちは宮野さんのお友達ですね」

 長身で鋭い目をした曹瑛と、カタギに見えない風貌の榊に囲まれて大野医師は怪訝な表情を浮かべる。曹瑛は大野医師を病棟の屋上にある庭園に連れ出した。緑化の一環で、屋上に樹木や草花を植えて庭に設えてある。15階の屋上からは都内が一望できるた。


「あの、一体なんですか」

 大野医師は何故連れ出されたのか分からず、困惑している。

「チンピラに何を脅されている」

 単刀直入な話に、大野医師は表情を凍りつかせた。ポケットに手を突っ込んで曹瑛の後ろに控える榊を見て、組関係者ではないかと直感した大野医師はさらに血の気が引いた。


「何故それを」

 大野医師は震える声を振り絞る。

「昨夜、中庭でお前たちの話を聞いた」

 心臓がドクンと跳ねた。もう終わりかもしれない、大野医師は目眩を覚えて頭を抱えた。曹瑛が腕を掴む。凄い力だ。倒れることを許されない。顔を上げると、曹瑛の鋭い視線が自分を射る。まるで心を見透かされているような錯覚に陥った。

「あなたたちには関係のない話だ」

「関係はある。お前は伊織の主治医だ。心ここにあらずの状態で患者の治療ができるのか。伊織に何かあればお前を殺す」


 冷徹な脅し口調に若い医師は口ごもった。

「患者と接するときは、切り替えている」

「人間はそんなに器用ではない。心に闇があれば、影響がでるものだ」

 俯いていた大野医師は曹瑛の顔を見上げた。自分を責める鋭い瞳だ、しかしその瞳は真っ直ぐに澄んでいる。友人を想う気持ちを知った大野は大きなため息をついた。

「座って話そう」

 大野は脱力して藤棚の下のベンチに腰掛けた。曹瑛と榊も腰を下ろす。


「シニアレジデントの最後の年だ。病院に寝泊まりして患者の診察、オペ、論文と多忙な日々が続いていた。神経を随分消耗していたように思う」

 空き時間で気晴らしにパチンコ店に入った。それから無心で座っているだけのパチンコにハマり、暇があれば通いつめていた。

 そこで声を掛けてきたのが、昨日の男だ。名前を木村といった。もっと興奮できるギャンブルがあると、半ば強引に裏カジノへ連れていかれた。気持ち良く儲ける事ができた。一度きりの遊びだった。しかし、それをネタに脅しが始まった。


「夜中に救急に運ばれたヤクザ同士の刃傷沙汰を事故にしろと言われ、カルテを書き換えた。保険会社へ出す書類も世話をした」

 闘争による怪我は健康保険が使えない。保険会社からも見舞金は出ない。そのため事故としてカルテを書き換えさせたのだ。

 一度きり、ヤクザがそれで許すはずがない。弱みを握られたら最後、利用できるものはどこまでも絞り尽くされる。そんなカルテ改ざんを3回、今度は医療用麻薬を持ち出せと言ってきた。もう終わりだと思った。


「私は医師として恥ずべきことをした」

 大野医師は頭を抱える。小学生の頃、父が胃がんを患った。ステージは進行しており、外科手術をすることになった。難しい手術だったが、無事成功に終わった。

 そのとき、手術を成功させ、家族を勇気づける言葉をかけてくれた医師に憧れて医者になろうと決めた。必死で勉強し、医大に入った。そんな大野を父と母は応援してくれた。父は医大卒業まで生きていてくれた。

 研修医で徹夜が続いた日も患者を助けることに生きがいを感じていた。極度の疲労の中で生まれた、一瞬の心の隙につけ込まれたのだった。


「お前の道徳心を責める気はない。伊織の主治医として、責任を果たせ。チンピラのことは今日ケリをつけてやる」

 曹瑛の言葉に大野医師は顔を上げた。

「だが、どうやって」

「お前にこれ以上関わらないよう話し合いをする」

 話し合い、の言葉に榊は思わず吹き出した。曹瑛は榊を睨み付ける。

「話し合いとは見物だな、面白いから俺も付き合ってやるよ」

 榊は笑いを堪えるのに必死だ。曹瑛は榊に何がおかしいのか真面目な顔で尋ねている。

「君たちは一体」

「伊織の友人だ」

 榊はそう言ってニヤリと笑った。


 深夜2時、病院の地下薬品庫の前にチャコールグレーのスーツに柄シャツの男、その舎弟のツーブロックのジャージ、坊主頭にカーキ色のジャンパーの3人が立っていた。大野医師からの情報で、トラック搬入口からセキュリティをくぐり抜けてきたのだ。

「ここに大野がやってきて、鍵を解除する手筈だ」

「木村さん、やりますね」

 柄シャツを着た木村に舎弟がおべっかを使う。ニヤニヤ笑う顔は前歯が1本抜けている。

「上質なヤクがただで手に入るってわけだ、さすがですわ兄貴」

 3人はほくそ笑んでいる。しかし、約束の時間に大野はまだ来ない。


「あのガキ、待たせやがって」

 木村がスマホを取り出した。大野を電話で呼びつけようというのだ。

「ここは病院だ、携帯電話は禁止だぜ」

 不意に廊下の奥から声がした。白衣の医師が2人、並んでこちらに歩いてくる。

「誰だ、おめえら」

 木村が怪訝な表情を浮かべる。


「大野の代理ですかね」

「誰でもいい、ここを開けろや」

 木村が薬品庫を指さす。2人の医師は木村の前に立つ。やたら背が高い。縁なし眼鏡の医師は目つきの悪さが尋常ではない。まるで極道だ。荒くれ者の木村も思わず目を逸らしたくなった。

 もう一人も細身の長身だが、威圧感のある態度は底なしにふてぶてしい。氷のような冷ややかな目でこちらを見下ろしている。白衣の下に黒いスーツを着込み、ワインレッドのタイを絞めている。

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