第3話

「お前ら、本当に医者か」

 木村が思わず叫ぶ。

「ああ、お前らのようなクズを治療するのが専門だ」

 眼鏡の医師がニヤリと笑う。レンズの奥の瞳が不敵に光っている。

「何だと、てめえ」

 激昂した坊主頭が殴りかかる。ワインレッドのタイをした医師が長い足を蹴り上げた。かなりのウエイトがありそうな坊主頭が軽々吹っ飛び、壁に激突した。

 ツーブロックがそれを見て目を見張る。ケンカでは負けなしの坊主頭が容易くノックダウンされたのだ。


 恐れをなして逃げ出そうとしたツーブロックの首に太いチューブが巻き付けられた。

「おっと、逃げるなよ」

「ぐえっ…!」

 眼鏡の医師が背後から聴診器で首を締め上げている。気道と頸動脈を圧迫され、ツーブロックが白目を剥いて崩れ落ちた。木村は連れてきた武闘派の舎弟がこうもあっさりやられるのを見て、動揺している。床に倒れた舎弟を見捨てて、逃げ出した。

「おい、あいつ逃げるぞ」

 縁なし眼鏡をかけ、医師に扮した榊が呆れている。もう一人の白衣、曹瑛はため息をつきながら胸元からメスを取り出した。

「お前、それ好きだよな」

「これは意外と投げやすい」


 曹瑛が手首のスナップを利かせてメスを投げた。一直線に飛んだメスは木村の尻に突き刺さる。薄暗い通路にギャッと情けない叫び声が響く。痛みに思わず床に倒れ込む木村。

「仲間を置いて逃げるとは、どうしようもないクズだな」

 振り向きざまに榊の蹴りが顔面に入り、木村は意識を失った。


***


 木村は寒さに目を覚ました。いや、寒いのではない、冷たいのだ。背中が氷のように冷たい台の上に横たえられている。部屋自体も冷気に包まれている。身体は固定されていた。薄暗い部屋だ。頭上の光源は見たこともない形のライトだった。

 顔を横に向ければステンレスの寝台のようなものがずらりと部屋中に並んでいた。その不気味な光景に木村は身震いする。ここは大学病院の解剖室だ。


「気がついたな」

 自分を白衣の医師が見下ろしている。先ほど薬品庫の通路にいた男たちだ。木村は叫ぼうとしたが、口に脱脂綿のようなものがしこたま詰め込まれており、声を出すことはできない。首を振り、くぐもった呻き声を上げている。

「さて、薬品庫に何の用があった?・・・おっと騒げばこのままお前を解剖するぞ」

 榊は木村の口を塞ぐ脱脂綿を取り除いた。


「ひ・・・たまたま通りかかっただけだ」

「ほう、この期に及んで吹かす気か、度胸あるなお前」

 曹瑛が木村の頬にメスを当てる。身動きが取れず、木村は頭を振る。

「お前は誰かを脅していたな」

「・・・そ、それは・・・」

 頬にメスが突き立てられる。温かいものが頬を伝うのを感じた。

「大野という医者だ、大野の弱みを握って脅した」

 木村は涙目になっている。

「それで」

「医療用麻薬を横流しさせる手筈だった」


「大野から手を引け」

「一体あんたら何者なんだよ!大野に雇われたのか?」

 木村が叫ぶ。曹瑛が無言で水道の蛇口をひねった。冷たい水が木村の身体を濡らしながらステンレスの解剖台を流れていく。空調が過度に下げられた解剖室で体温が一気に奪われていく。

「うわ、やめろ、わかった!手を引く!水を止めてくれ!」

 木村は泣きわめく。曹瑛は蛇口を閉めた。

「今後、大野に近づいたらお前はまたこの冷たい台に乗ることになる。そのときはもう寒さは感じないだろうな」

 耳元で低めのドスの利いた声で囁かれ、木村は震えながら何度も頷いた。


 再び顔にメスが当てられる。

「ひ・・・約束をしただろう、もう大野に手はださねえよ」

 木村は情けない声で命乞いをする。曹瑛はそれに応えず、木村の眉毛をメスを使って片方きれいに剃り落とした。木村は恐怖のあまり、気絶した。榊は木村を解剖台に束縛していたロープを解いた。

「しかし、お前だけは敵に回したくない」

 榊が曹瑛の顔をまじまじと見つめながら呟いた。

「なんだ急に」

「楽しんでるだろ、お前」

「伊織の手術を邪魔する奴を排除しただけだ、行くぞ」

 曹瑛は白衣を脱ぎながら解剖室を出て行く。榊もそれを追った。


 中庭を抜けてロータリーへ向かうとき、渡り廊下のところに大野医師の姿が見えた。

「もう終わった、何も心配はいらない」

 大野はあの蛇蝎のような木村にどんなケリをつけたのかは想像もつかなかったが、曹瑛の言葉は信頼できると思った。

「ありがとう、感謝します」

 大野は深々と頭を下げた。カルテ改ざんの件は大学に報告するという。

「お前がどんなけじめをつけようが、俺には関係ない。明日の伊織の手術をよろしく頼む」

 曹瑛はそれだけ言って去って行く。

「あいつの大事な友達なんだ、俺の友でもある。俺からも頼む」

 榊も大野に頭を下げた。


 病院の敷地を出て、曹瑛は待ちかねたようにマルボロに火を点ける。榊ももらいタバコを吸い始めた。

「病院はどうも好きになれないな」

「ああ、まったくだ」

 紫煙がふわりと夜空に立ち上る。

「大野はもう大丈夫だろう」

 曹瑛は気持ちよさそうに煙を吐き出した。


***


 翌日、曹瑛は烏鵲堂の開店前に伊織の病室へ立ち寄った。伊織は文庫本を読んで暇を持て余していた。

「手術が終わるのは夕方か」

「そうだね、いざとなると緊張するよ」

「心配ない」

 それだけ言って、曹瑛は立ち上がった。カーテンを閉め、病室を出ようとしたところで主治医の大野医師に会った。大野医師は笑顔で曹瑛に挨拶をする。その顔を見て、彼の心に迷いが無いことを悟った。曹瑛は小さく微笑んだ。


 その日、烏鵲堂は普段よりお客さんが少なく、のんびりとした時間が流れていた。時間が経つのがやけにゆっくりと感じられる。時計を見れば、夕方6時前。伊織の手術はもう終わっているはずだ。仕込みを済ませて一階の書店に降りると、本を整理している高谷が曹瑛に声をかけた。

「早く上がってください、俺が最後閉めて帰りますよ」

 曹瑛は店の施錠を高谷に任せて東都大学病院へ向かった。日はすっかり落ちて、病院のエントランスには街灯がついている。エレベーターに乗り、伊織の病室へ向かう。


 カーテンを開けると、伊織はベッドで眠っていた。曹瑛はパイプ椅子に腰掛ける。どのくらい時間が経っただろうか、カーテンの隙間から大野医師が顔を出した。

「手術は成功ですよ。経過を見て問題なければ退院です」

「ありがとう、恩に着る」

 曹瑛は大野医師に丁寧に頭を下げた。それから半刻ほどして、榊と高谷がやってきた。


「ああ、みんな来てくれたんだ」

 伊織が目を覚ました。麻酔のせいか、まだ意識はぼんやりしているようだ。

「気分はどうだ」

 榊が伊織の顔を覗き込む。

「いいよ。でもまだぼーっとする。ああ、帰ったら餃子をたらふく食べたいな。それにラーメンと炒飯、神田屋のたい焼きも」

「まったく、食い意地の減らない奴だ」

 曹瑛は呆れて溜息をつく。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。


***


 手術翌日には伊織の職場の同僚や、雑誌の編集長も見舞いにやってきた。回復したら食べて、と中国のお菓子をたくさんベッドサイドに置いた。

「あなたが曹瑛さんね、この間の中国茶に関する記事、とても素晴らしかったわ。それにとても男前ね。あらハルビン出身なの、私は北京なのよ」

 40代という女性編集長は中国人で、驚くほどパワフルだった。伊織を通して提供した曹瑛の記事を絶賛した。

「彼は頑張り屋さんだからね、またには休みなさいという天啓ね。しばらく休養しなさい」

 編集長のお墨付きが出た。

 その後、榊と高谷も顔を出してくれた。粥食が始まってずいぶん血色が良くなった伊織を見て安心している。


 病室を出ようとしたところで、大野医師に呼び止められた。エレベーターで屋上庭園へ向かう。

「宮野さんの経過は問題ないですよ、明日には退院です」

 大野医師の言葉に曹瑛と榊、高谷は安堵する。

「私は、今回の件を大学長に報告しました。医師免許の剥奪はないということですが、それなりの処分が待っているでしょう」

 榊は複雑な表情を浮かべている。この男も志を持って苦労して医師になったはずだ。曹瑛は無表情だが、大野に侮蔑の念も同情も抱いていないようだった。


「ありがとう、あなたたちのおかげで救われました。このまま奴らの良いなりになっていれば破滅しかなかった」

「あんたは良い医者だ、患者の顔を見れば分かる。やり直せるだろう」

 榊の言葉に、大野医師は小さく微笑んだ。

「奴らがまたきたらいつでも言え」

 榊がまた白衣を着るのか、と曹瑛を揶揄している。高谷は白衣を着た二人を見たかった、と残念な顔をしていた。


***


 退院後、初めて伊織が閉店後の烏鵲堂に顔を出した。曹瑛がグラスに淹れた茶をテーブルに置く。

「これ金木犀の香りがする」

「桂花烏龍茶だ」

 この時期にふわりとどこからともなく香ってくる優しい匂いだ。

「なんだか懐かしい匂い、秋の匂いだ」

 口に含むと、鼻に金木犀の香りがすうと抜ける。


「よう、快気祝いだ」

 階段を上がってきたのは仕事帰りの榊だ。神田屋のたい焼きを伊織に手渡す。

「榊さん、ありがとう」

 伊織はあんがたっぷりのたい焼きに尻尾からかじりついた。曹瑛の店仕舞いが済んだ後は、すずらん通りのラーメン“かもめ”に行くことになっている。

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