第2話
日が傾いてきた。夕陽色に染まり始める海を眺めながら風の道を歩いて宮野家に帰ったときには、ちょうど夕食の頃合いだった。
「あ、アニキ、久しぶりだね。えっ、その人モデル…は?アニキの友達?嘘でしょ」
玄関先で会った妹は相変わらず溌剌として元気だった。小柄で、くりくりした目元に愛嬌がある。曹瑛は自己紹介をして会釈した。
食卓には父親が地元の海で釣り上げた魚料理が並んだ。伊織が帰ってくるというので張り切って知り合いの漁船で出掛けたという。大きな鯛が釣れたので刺身に、余った身は鯛飯に使った。わかめのお吸い物に、漁師から分けてもらったタコ刺、めばるの煮付けと海鮮づくしだ。カボチャのそぼろ煮と大豆とひじきの煮物、ほうれん草のおひたしが彩りを添える。
「いただきます」
曹瑛は箸を取る。今日釣れたばかりの新鮮な刺身は肉厚で臭みがない。これまでに食べた刺身の中で一番美味いと思った。思わず目が丸くなる。めばるの煮付けはほんのり甘めの味付けが好みだ。ほうれん草やかぼちゃは伊織の作る料理と同じ味がした。
「瑛さんは東京でブックカフェをやってるんだよ」
伊織の紹介に、美織が曹瑛に憧れの眼差しを向ける。
「素敵!おしゃれだわ、今度東京に行くことがあれば遊びにいきたい!」
「ぜひ、どうぞ」
曹瑛も営業スマイルが板についていると伊織はしみじみ思った。気のせいか、カフェの接客よりも表情が柔らかい気がする。
「中国から来てるんだって、日本語とっても上手ねえ」
母親が感心している。
それからもとりとめの無い話題で笑い声の絶えない和やかな食卓だった。
曹瑛に興味津々の母親と妹の質問攻めにも、曹瑛は気を悪くせず丁寧に受け答えをしていた。寡黙な父親は伊織の近況を聞いて、頑張れよ、と言ってくれた。
「とても美味しかったです」
曹瑛の言葉に母親は満面の笑みを浮かべた。
「日本の料理が口に合うか心配してたのよ、良かったわ~」
大物を釣り上げた父親も嬉しそうだった。食事の片付けを手伝おうとすると、風呂へ行けと追い出された。Tシャツとジャージに着替えて仏間に戻れば、ふとんが敷いてある。
「なんだか張り切ってるなあ」
自分だけ帰ったときは、こんなにサービスが良くないと伊織は笑う。
「良い家族だな」
曹瑛は穏やかな笑みを浮かべている。
「瑛さん、疲れてない」
「大丈夫だ」
建前というわけでも無さそうだ。伊織はホッと安心した。障子の向こうの庭から鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。ふとんに横になれば、心地良くすぐに眠りに落ちた。
***
障子がぼんやりと柔らかな光を放ち始める。日が昇る時刻か、曹瑛はゆっくり半身を起こす。
伊織は自分のふとんエリアからはみ出して寝返りを3回転ほどしたのだろう、そのまま障壁にぶつかり止まった、そんな格好で呑気に眠っている。
ここは瀬戸内海に面したのどかな港町、伊織の実家だ。昨夜は宮野家全員から温かいもてなしを受けた。個人的なことをいろいろ聞かれるのは面倒だと思っていたが、悪い気はしなかったように思う。
曹瑛は起き出して渡り廊下の先にある洗面所で顔を洗う。仏間に戻ると伊織が身体を起こし、眠い目をこすっていた。
「おはよう、瑛さんもう起きたの」
時計を見ればまだ6時だ。
「せっかくだから早朝しかやってない製麺所に行ってみる?」
家の近くに製麺所があり、早朝だけうどんを出しているという。玄関を出れば、空には朝日に染まる薄雲がかかっていた。少し肌寒いが、澄んだ空気が心地良い。遠くに海鳥の声が聞こえる。
庭の犬小屋から父親が可愛がっている老犬の武蔵が顔を出している。久しぶりに戻った伊織をまだ警戒している。
「俺のこと覚えてないのかな、結構可愛がってたんだけどな」
伊織は切ない顔で武蔵に向き合う。武蔵は曹瑛を見上げてペタンと地面に座り込み、尻尾を振る。曹瑛が片膝をついて頭を撫でてやると気持ちよさそうに舌を出した。
「何で初対面の瑛さんに懐くんだ」
伊織は驚きを隠せない。
住宅地を歩いて県道に出る。道沿いにトタン屋根を乗せた簡素なつくりの建物があった。オープンテラスと言えば聞こえは良いが、その下に寄せ集めのような多様なテイストの椅子と机が申し訳程度に並んでいる。
早朝だというのにお客さんは結構入っており、「山戸製麺」と書かれた看板の建物には行列ができていた。
「わあ、ここ知る人ぞ知るって店だったのに、お客さん増えたなあ」
住宅街にある製麺所が気まぐれで朝うどんの提供を始めたところ、口コミで話題になってお客さんが増えたそうだ。用意した麺が無くなり次第終了なので、8時には閉まるという。
伊織と曹瑛は列に並ぶ。メニューはシンプルにきつねうどん、釜玉うどん、ぶっかけうどんの3種類。持ち帰りの人も多い。回転が速いので、順番はすぐに巡ってきた。
「釜玉うどん2つ」
おばちゃんが大鍋から茹でたてのうどんを器に盛ってきた。器に入っているのはうどんのみ、卵は側に置いてある生卵を自分で取っていくシステムだ。
「薬味はここから」
ねぎや天かすもセルフサービス。割り箸を取り、紙コップのお茶を注ぎ、席についた。曹瑛は卵を割り入れ、器用に混ぜている。最初に出会ったとき、新宿のセルフうどん店で伊織の食べる釜玉うどんに驚いていた。中国では卵の生食はやらないということだった。しかし、一度食べて以来、曹瑛は釜玉にハマっているようだ。
「美味い」
「製麺所の茹でたてだから美味しいよ」
つやつやの麺はもちもちしているが、しっとりと歯ごたえがあり、卵としょうゆのシンプルな味付けが良く合う。まさにのどごしが良い。新鮮なネギの風味がまたクセになる。狭い飲食スペースは満席で、どんどんお客さんが入れ替わっていく。
「毎日食べても飽きない」
曹瑛が器を空にして呟いた言葉に、伊織は思わず吹き出した。そんなに気に入ってもらえるとはありがたいことだ。
家に帰れば、妹の美織が車のキーを貸してくれた。
「ぶつけないでね、アニキ運転は久々でしょ」
「うん、気をつけるよ。ありがとう」
伊織は温厚だが、妹は気が強い。それでも会話の端々から仲が良い兄妹ということは察することができる。美織が曹瑛に楽しんで、と手を振る。
地方は東京のように公共機関が発達していない。どこへ行くにも車が必要なんだよ、と伊織が説明する。
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