第2話
烏鵲堂のテーブルに曹瑛が突っ伏していた。正面に座る伊織は気の毒そうな表情で曹瑛の姿を見つめている。仕事疲れではない、原因は別にあった。
先日、榊が持ち込んだライアンの観光案内だ。どちらがライアンの面倒をみるかを巡って本気のケンカを繰り広げ、曹瑛は榊の策に落ちたのだった。
「ライアンは東京で何を見学したいんだろうね」
伊織が思案している。
「さあな、俺の知ったことではない」
曹瑛はどうでも良さそうに足を組む。観光案内をする方がこの態度ではこの先思いやられる、伊織は苦笑いを噛みつぶした。
階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。特徴的な力強い足音に、曹瑛はピクリと反応する。
「よう」
「貴様…今度こそ死にたいのか」
曹瑛が殺気を漲らせて立ち上がる。スーツ姿の榊だ。榊は曹瑛の怒気を気にすることなしに、上着をハンガーに掛けて伊織の横に座った。
「この間はすまなかった」
榊が律儀に頭を垂れる。突然の謝罪に毒気を抜かれて、曹瑛は無言で着席した。伊織はヒヤヒヤしながら二人の顔を交互に見比べている。
「その、結紀がちゃんとお前に謝れと」
「…謝ったところでお前の外道な行いを許すつもりはない」
曹瑛は腕組みをして顔を背ける。唇を尖らして眉をしかめる顔はまるで大きな子供がふて腐れているようだ。
「瑛さんも相当大人げなかったと思うけど」
伊織がぼそっと呟く。榊の喉元を見れば、曹瑛の残した指の跡が鬱血している。曹瑛もそれをチラリと見て、バツが悪そうに目を伏せた。
「その、絞め落とそうとしたのは…悪かった」
曹瑛が頭をかきながら小声で呟く。
「はいはい、仲直り」
伊織が二人の手を取って握手を促す。
「曹瑛、お前とはいずれきっちり決着をつけるからな」
「懲りないやつだな、榊。今度こそ容赦はしない」
握手にやたら熱が入っている。どこまでも低レベルなやりとりに、伊織は肩を竦めた。
「それで、俺は考えた」
榊がじんじんと痺れる手を振りながら、カバンから封筒を取り出す。縁なし眼鏡の奥の切れ長の瞳が光る。封筒からおもむろに書類を取り出し、机の上に広げた。
「あ、鳩バスツアー」
伊織がパンフレットを開く。“東京の魅力を発見、多彩な観光コース”とうたい文句が書いてある。曹瑛もパンフレットをじっと眺めている。
「バスで東京観光をするのか」
「そうだ、団体でバスに乗り込み、バスガイドの持つ旗についていく。行き先も食事も決められており、すべてスケジュール通りに行われる」
曹瑛の問いに榊がもっともらしく答える。
「榊、お前を見くびっていたようだな」
「ふ…つまり、バスに乗せておけば、ひとりでも観光ができるというわけだ」
伊織は椅子から転がり落ちそうになった。榊と曹瑛は不敵な笑みを浮かべている。
「まさか、ライアンさんをバスツアーに一人で参加させる気なの」
伊織は真剣な表情の二人を見比べる。どうか冗談と言って欲しい。
「バスに乗りさえすれば苦せずして東京観光ができる。奴の欲求はそれで満たされる」
「違いない」
曹瑛の言葉に榊が頷く。
「この件を曹瑛にだけ任せるのは心苦しいと思ってな、俺なりの誠意だ」
榊の曹瑛への誠意はいいが、ライアンへの誠意はどうなるのだろう。伊織は心の中でツッコミを入れた。榊は善は急げとスマホから鳩バスツアーの予約を進めている。
「やっぱり外国人が興奮するのは浅草だろう」
「東京タワーがベタでいいんじゃないか」
「このツアーは昼飯が寿司だな、悪くない」
コース選択を真剣に考え始めた。曹瑛と榊、頭を付き合わせてパンフレットを見ながらあれこれ相談している。
端から見れば楽しそうな旅行の相談なのだが、日本に不慣れな超セレブのアメリカンマフィアを庶民向けバスツアーに一人で参加させようというとんでもない話だ。
「予約完了だ」
榊は達成感に満ちた清々しい表情で天井を仰ぐ。伊織は怪訝な顔でそれを見ている。
「本当にライアン一人で予約を入れたの」
「ああ、俺たちはバスの集合場所でやつを引き渡すだけだ」
何かヤバい取引のように聞こえるのは気のせいだろうか。
「お前も来るのか、榊」
「もとはと言えば、俺にオファーがあった案件だからな」
ライアンにつきっきりでないと分かっての余裕だ。曹瑛も半ば呆れている。
「ではお前一人で十分だな」
曹瑛が真っ直ぐに榊を見据える。
「どさくさに紛れて何をとぼけたことを言っている」
お前も絶対に来いよ、と榊は念を押した。バスツアーの時間と場所は追って連絡する、と階段を降りていった。
「まったく調子の良い奴だ」
曹瑛は大きなため息をついた。
「東京観光、三人で楽しんできたら」
「ライアンがバスに乗るところを見守ったら解散だ」
「そんな投げっぱなしな観光案内聞いたことないよ」
伊織は上機嫌でグラスを片付ける曹瑛を心配そうに見つめた。
***
鳩バスツアー当日。
新宿駅近くのオフィスビル街にあるバス乗り場が集合場所となっていた。付近には様々なツアーのバスが停車し、バスガイドが大声でツアー名を叫んでいる。
榊と曹瑛は集合時刻の15分前に現地に到着した。榊はダークグレーのピンストライプのスーツに白シャツ、紺色のタイ。曹瑛は黒のスーツにグレーのシャツ、臙脂色のタイにサングラスをかけている。ポケットに手を突っ込んで2人佇む姿は異様に目立つ。
ライアンは集合時間の5分前にやってきた。白いレクサスから颯爽と下りたその姿、明るいグレージュのスーツを見事に着こなしている。朝日に艶やかなブロンドが眩しい。
榊と曹瑛は思わず目を細めた。それは朝日の眩しさではないだろう。レクサスはライアンを下ろすと静かに走り去っていった。
「ハイ、英臣!曹瑛も一緒なんだね。嬉しいよ」
ライアンの快活な笑顔に二人はげんなりする。しかし、ここで負けてはいけない。曹瑛は動揺を隠そうとしているのか、サングラスを深くかけなおしている。大手を広げてハグを求めるライアンをかわし、榊は申し込みをしたツアーのバスガイドのもとへ行く。
「おはようございます、“東京の魅力凝縮!東京タワーから眺める魅惑の夜景ツアー”ご参加でよろしいですか」
40代くらいのベテラン女性ガイドは百戦錬磨といった雰囲気だ。威勢がいい。
「そうだ、ライアン・ハンターで申し込みをしてある」
「はい、お客様一名様ですね。こちらのバスです」
ガイドは黄色いラッピングバスを指さす。
「あと2人、追加できるかな」
背後から現われたライアンがバスガイドに話しかける。榊と曹瑛は一気に血の気が引いた。あまりの衝撃で二人とも硬直して、声が出ない。
「席は余裕がありますから、大丈夫ですよ」
「感謝するよ」
ライアンは柔和な笑みを浮かべる。バスガイドも思わず微笑み返した。
「ちょっと待てライアン、俺たちはここで見送りだ」
「そうだ、お前一人で気楽に楽しめばいい」
榊と曹瑛が猛烈な勢いでライアンを説得する。ライアンは爽やかな笑顔を崩さない。
「せっかく席を準備してもらったんだ、さあ行こう」
ライアンは軽やかにバスに乗り込む。
「おい、どうする」
バスに乗せておさらばという完璧なはずの計画が破綻して、榊が動揺している。
「こ、断ればいいだろう」
「お客様は一番後ろのお席です。三名様でゆったりお使いくださいね」
「え、はい・・・」
ベテランガイドの勢いに押されて、榊と曹瑛はバスに乗り込む羽目になった。
「おい、どうしてくれる。お前の杜撰な計画のせいでこんなことに」
曹瑛が榊を責める。
「俺としたことが、詰めが甘かった」
榊が本気で落ち込んでいるので、曹瑛はそれ以上言うのを止めた。詰めも何も、バスに乗らずにとっとと帰れば良かったのに、この男も案外お人好しなのだ。
他の乗客はすでに乗り込んでいる。60代後半から70代のおじいちゃんおばあちゃんばかりだ。和気あいあいと話に花が咲いている。最後部座席が近づいてきた。曹瑛が榊の背中を押す。ライアンは真ん中に足を組んで優雅に座っている。
榊と曹瑛はその両端に座った。ライアンとはできる限り距離を取る。
「楽しみだよ、普段ゆっくり観光をする機会が無くてね」
「それは良かったよ」
榊は半ばヤケだ。ライアンは目を細めて榊の顔をじっと見つめている。榊は目線を合わせぬよう窓際に顔を寄せて唇を一文字に引き結んでいる。
「これは…おお、君たちはずいぶんホットな夜を過ごしているんだね」
榊のシャツから覗く首筋のアザをめざとく見つけたライアンが恍惚の表情を浮かべている。
「こ、これは違…!あいつに首を絞められたんだ、本気でな」
榊は動揺して曹瑛を指さす。
「なんてエキサイティングなんだ、激しいな君たちは」
ライアンは曹瑛の方を振り向く。曹瑛はビクッと身を震わせる。
「曹瑛、過激なプレイもいいが、くれぐれも英臣を殺さないでくれよ」
曹瑛は魂が抜けていた。
「みなさん、おはようございまーす」
参加者が揃い、バスガイドが乗り込んできた。
「今日は鳩バスツアーにご参加いただき、ありがとうございます。青葉町敬老会の皆さんと、三名の方が個人でお申込みされています、今日はよろしくお願いします!」
乗客の拍手とともにバスが発進する。今日の行程をガイドが説明している。車窓から皇居見学、浅草寺、昼食、隅田川クルーズ、東京タワーへ。
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