東京ラプソディ
第1話
カフェの営業時間を終えて、曹瑛はホッと息をついた。明日の仕込みも営業中に済ませておいた。ビルの合間から射し込む夕陽が店内をノスタルジックな色合いに染めている。賑やかだった店が静寂を取り戻す、この時間が好きだった。
店内にはまだ人影が残っていた。窓際のテーブルに足を組んで座るスーツ姿の男。ノートパソコンを広げ、神妙な顔でキーをタイプしている。縁なし眼鏡の奥には切れ長の瞳。曹瑛は黙ってグラスに足し湯をする。男の目が見開かれ、ゴクリと息を呑む音が聞こえた。そして唇を一文字に引き結び、固まった。
「どうした、榊」
普段冷静な榊が取り乱す姿は珍しい。パソコンの前で固まっている榊は嫌そうな顔で画面を指さす。曹瑛が回り込んで画面を覗き込めば、ブロンドのスーツ姿の男が立派なデスクに座っている。榊が音量を上げた。
「ハイ、英臣。曹瑛も一緒か、ホットだね」
画面の向こうにいるのはライアン・ハンター。36歳の若さでグローバルフォース社CEOにして、裏の顔はアメリカンマフィアの二代目。そして、榊に一目惚れして拉致監禁した油断ならない男。
その後も榊とのビジネスに執着し、榊はライアンの熱意に根負けした。ライアンは現在ニューヨークにいるが、Web会議で打ち合わせを持ちかけてきたのだ。
「なぜわざわざここでする必要がある、家でやれ」
曹瑛が殺気のこもった目で榊を睨む。迷惑千万と言いたいようだ。曹瑛もライアンに対してはトラウマがある。これまで出会ったことのないタイプの人間に対する苦手意識が植え付けられてしまったのは否めない。
「すまん、サシではとても耐えられない」
榊がここまで弱気になるとは。さすがに気の毒に思わなくもない。しかし、曹瑛は巻き込まれた恨みは忘れていない。ライアンはビジネスプランをプレゼンする。榊は黙って聞きながら、要所で意見を伝える。
「さすが英臣、君の意見は的を得ているよ。君をパートナーに選んで良かった」
ライアンが顔をアップにしてウインクする。榊と曹瑛は同時に画面から引いた。
「おい、奴の後ろの絵」
身を引いていた榊が曹瑛の指摘に、画面を注視する。ライアンの背後の壁に立派な額縁が掛けられている。そこには深いワインレッドの布の波に悠然と横たわる美しい毛並みの銀色の狼が描かれていた。首には金色の鎖が繋がれている。
「榊、お前に似てないか」
瞬間、榊は全身に鳥肌を立てる。雄々しい銀狼のこちらをじっと見据える瞳は、まなじりの切れ上がった榊の目元にどことなく似ている。
「な、何を言う、気のせいだ」
榊の声が震えている。
「あの無愛想な顔のモデル、絶対にお前だぞ」
こいつに言われたくないと思いながら榊は曹瑛を睨む。
「この絵、エクセレントだろう。君に会えない寂しさを紛らわせるために、ニューヨークきっての気鋭の画家に描かせたんだ。最高の出来だよ。とても気に入っている」
ライアンが嬉しそうに言う。榊の額から嫌な汗がたらたらと流れ落ちる。呼吸を整えるのに必死だ。曹瑛はほくそ笑む。
「2人に会えて良かった。では私はそろそろ寝るとしよう、良い夢を」
手を振るライアン、通信は切れて画面はフェードアウトした。
「曹瑛お前、人ごとだと思ってせせら笑いやがって」
「お前がきっぱり断っておけばこうはならなかった、お前が悪い」
曹瑛は冷徹に言い放つ。図星を突かれて榊は黙り込む。が、曹瑛の鼻っ面に人差し指を向ける。
「お前があのとき奴を助けなければ、ここまで調子に乗ることもなかったんじゃないのか」
曹瑛が口ごもる。ライアンが高谷のアパート前で銃撃されたとき、身体が反射的に動いてしまった。あのときのライアンの甘い台詞と、自分を見上げる惚気た瞳、頬に触れた指の感触は今でもトラウマだ。
「やめろ、それは言うな」
一触即発の2人を止めるかのように、再びパソコン画面が明るくなる。見れば、ライアンがダークブラウンのガウンを身に纏い、ソファにゆったり座っている。今度は寝室に移動したらしい。
「ああ、私のいないところで、まったく君たちは見せつけてくれるね」
今にも互いに掴みかかろうとしていた曹瑛と榊は慌てて距離を取った。
「まだ用があるのか」
気を取り直して榊が尋ねる。
「急な話だが、来週東京へ行く。スケジュールがぎっしり詰まっているから一日しか会えないんだが、東京観光をしたい。案内してもらえないか」
「断る」
榊は腰に手を当ててきっぱりと言い切った。人は学ぶものだ。
「寂しいことを言う」
「社の人間に頼めばいいだろう」
「私は気兼ねなく楽しみたいんだよ、そうだ、英臣が忙しいなら曹瑛でもいい」
急に話を振られて、榊の背後でニヤニヤしていた曹瑛は顔色を変えた。
「ここはビジネスパートナーと親交を深めるべきだろう」
「曹瑛お前…!また俺を売りやがったな」
榊が曹瑛を睨み付ける。曹瑛も負けじと目を逸らさず、2人は火花を散らすが如く睨み合う。
「ああ、私の前でそんなに見つめ合うなんて、嫉妬してしまうな」
「黙れ」
曹瑛と榊は同時に画面に突っ込んだ。その瞬間、ライアンの背後にある絵に気がついた。ワインレッドの波に横たわる銀色の狼、そして虎。
「曹瑛、あの虎お前に似て…」
「言うな」
榊の言葉を曹瑛が遮った。
「曹瑛は八虎連の有能な暗殺者だったのだろう。当時の二つ名は“東方の紅い虎”、美しい名だ。君に相応しい」
ライアンはうっとりした表情で絵の虎に指を這わせる。
「やめ…さ、触るな…!」
曹瑛が動揺している。曹瑛のそんな姿を見たことがない。榊はさすがに気の毒になった。
「早く君たちに会いたいよ、日時は改めて連絡する、ではおやすみ」
画面はまたフェードアウトした。
「さて」
榊はノートパソコンを閉じ、曹瑛に向き合った。
「どちらが来日したライアンの相手をするか、だ」
「お前に決まっているだろう、奴と組んでいるのは榊、お前だ」
曹瑛の身体から殺気が漲る。
「奴はお前も指名した、どちらでも良いとな」
「その選択肢はない、お前が行けば済むことだ」
「話にならんな…お前とはいつか決着をつけたいと思っていた」
榊はスーツの上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。シャツの袖のボタンを外し、腕まくりをする。拳を握り込んでファイティングポーズを取った。
「勝負だ、曹瑛。負けた方がライアンと東京観光だ」
黒い長袍姿の曹瑛も間合いを取り、構えた。
「榊、残念だがお前に勝機は無い」
曹瑛は冷酷な暗殺者の顔になる。榊はそれを見てニヤリと笑う。
「お前のことは嫌いじゃ無いが、こればかりは譲れん」
榊が撃って出た。拳を曹瑛の腹に撃ち込む。曹瑛はそれを避け、手刀で榊の首を狙う。榊は腕でそれを防ぎ、曹瑛の体幹に膝蹴りを入れる。手応えが弱い。衝撃の瞬間、曹瑛は身体を捻り、ダメージを軽減したのだ。曹瑛が姿勢を落とし、鎌で刈るような鋭い足蹴りを放つ。榊がバランスを崩し、床に転がった。
「貴様、やるな」
「お前は俺に勝てない」
曹瑛が榊を見下ろす。その目には慈悲などない。榊は跳ねるように飛び起きた。その勢いで曹瑛に突進する。曹瑛はひらりとかわす。その背に肘を入れる。曹瑛がぐ、と呻いた。すぐに体勢を立て直し、榊の腹に膝蹴りを食らわせた。
「クソ、効くぜ…その細身のどこにそんな力がある」
「お前とは鍛え方が違う」
曹瑛はそう言いながらも顔を歪めている。背中のダメージが効いているようだ。曹瑛は身を屈めて榊の間合いに入った。蹴りと拳を間髪入れず繰り出す。そのスピードに榊は防御に徹するしかない。鳩尾に受けた拳に怯んだそのとき、追い打ちで放たれた曹瑛の蹴りでソファに倒れ込んだ。
一切の容赦なく、曹瑛が飛びかかる。ソファに倒れた榊が身を起こすことを許さず、その身体に馬乗りになった。曹瑛の長い指が榊の首を捉える。そのまま首を締め上げる。
「ぐ…曹瑛お前…マジでえげつねえ…!」
「これはお前が挑んだ勝負だ」
曹瑛の指が頸動脈を的確に締め付ける。榊は唇を戦慄かせ、目を細める。呼吸ができない。脳へ運ばれる酸素が欠乏し、意識が朦朧としていく。このまま負けるのか、そうなればライアンの相手をすることに…嫌だ。それは絶対に嫌だ。
そのとき、一階の書店から和気あいあいと伊織と高谷が階段を上がってきた。突如目に飛び込んできたカフェスペースで繰り広げられる死闘に、二人とも顔面蒼白になる。
「え、瑛さん何やってんの」「榊さん、これどういうこと」
伊織と高谷が同時に叫ぶ。曹瑛と榊が揉み合っているソファに走り寄る。その本気具合は全然シャレになっていない。榊は曹瑛に首を絞められて今にも落ちそうだ。
「邪魔をするな」
曹瑛が殺気漲るオーラを放つ。伊織は一瞬怯んだが、曹瑛の腕を引き剥がそうとしがみつく。高谷も遅れて兄を助けようと曹瑛の腰にしがみついた。曹瑛は細身だが暗殺者として肉体を鍛えている。二人がかりでもその暴走は止められない。
「フフ…」
ソファに押しつけられている榊が唇を歪ませて笑っている。酸素不足に錯乱したのか。高谷は兄の顔を悲壮な表情で見つめる。
「貴様、この期に及んで何がおかしい」
榊の力無い指が曹瑛の頬をゆるゆると撫でる。
「お前は…美しい…獣のよう…だ」
息も絶え絶えに紡がれたその言葉に、曹瑛は硬直した。だんだんと血の気が引いていく。唇を引き結び、その目は見開かれている。先ほどまでの鬼気迫る表情が消えた。榊の台詞に、ライアンによるセクハラトラウマ映像のフラッシュバックが引き起こされたのだ。
曹瑛は目を見開いたまま、ぽてんとソファに倒れ込んだ。
「ぐ、げほっ」
自由になった榊が首をさすりながら立ち上がる。涙目の高谷が榊に駆け寄る。
「榊さん!大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
心配かけてすまん、と高谷の頭をガシガシと撫でた。伊織は虚空を見つめたままソファに転がる曹瑛に近づいた。
「瑛さん、何で榊さんとこんなケンカを」
ケンカというか、むしろ殺し合いだ。曹瑛がゆっくりと瞬きをしている。呆れる伊織に助けられてソファに座ることができた。目の前には勝ち誇った顔の榊が立っている。
「こ、この外道が!」
曹瑛の剣幕に、伊織と高谷は驚いて目を見開く。
「勝てばいいんだ、勝てば」
榊は悪びれもせず、フンと鼻を鳴らす。曹瑛は唇を噛んだまま榊を睨み付けている。よほど悔しかったらしい。
「二人とも、大人げない」
事情を知った伊織の一言に、ソファに並んで座る榊と曹瑛がお互いそっぽを向いた。
「ライアンの観光案内を押しつけようとして本気でケンカするなんて、信じられない」
伊織が呆れて大きなため息をつく。高谷も心配して損したとぼやく。
「お前はあいつがどれだけヤバいか知らないんだ」
榊が唇を尖らせて反論する。腕組をした曹瑛も何度も頷いている。
「じゃんけんとか、あみだくじとか、平和に解決できる方法があったでしょ」
「…その発想は無かった」
榊と曹瑛は顔を見合わせた。まるで大きな子供だ。伊織はまた大きなため息をついた。
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