第2話

 後日。カフェを店じまいした烏鵲堂で伊織が机に突っ伏して居眠りしている。手にはボールペンを持ったまま、メモを書き散らした紙原稿に顔を埋めて、完全に熟睡している。

「おい」

 曹瑛は見かねて肩を揺らした。伊織はのろのろと半身を起こし、目をこすっている。

「あ、寝ちゃってたのか」

 伊織の目の下には濃いクマができている。


 今の雑誌社の仕事はやりがいがあるらしく、伊織がずいぶん張り切っているのは知っていた。曹瑛は厨房に並ぶガラス瓶から茶葉を取り出し、ブリキ缶にさらさらと入れる。

「これは崑崙山脈の厳しい寒さの中で育った菊を使った雪菊茶だ。安眠や疲れ目に効果がある」

 曹瑛は乾燥した黄色い菊の花を手の平にのせて見せる。グラスに入れ、そのままお湯を注いで飲めばいいと曹瑛が教える。蓋をしてブリキ缶を伊織に手渡す。


「ありがとう、瑛さん」

 実は、と伊織が渋い顔をして話始めた。池袋のアパートの建て替えの話が出た頃から、周辺で嫌がらせが起きているという。ベランダにタバコの吸い殻が無数に落ちていたり、干していた洗濯物に泥がかかっていたり、ネズミの死骸が玄関の外に置いてあったというのは隣人の言だ。ポストには連日、闇金やピンクチラシが山ほど投入されている。

 ここ最近は夜中に大音量で鳴り響くカーステレオのせいで眠れなかったらしい。


「嫌がらせで住人を追い出すつもりだ」

 曹瑛は腕組をしながら口をへの字に曲げている。

「これまで平和な住宅街だったのに、とんだ災難だよ」

 伊織は深いため息をつき、頭を抱える。

「お前のアパートに行く」

 曹瑛の言葉に、伊織ははっと顔を上げ、激しく頭を振った。つい弱気になって愚痴ってしまったが、曹瑛が関わると事件になってしまう。

「いや、これは俺の問題だから、警察に相談してみるよ」

「腹が減った」

 こうなると曹瑛は譲らない。伊織は観念した。


 結局、烏鵲堂を閉めた曹瑛は伊織のアパートに押しかけてきた。六畳の狭い部屋の小さなちゃぶ台の前に曹瑛があぐらをかいて座っている。今日もポストには大量の嫌がらせチラシが入っていた。他の住人も同じ目に遭っているようだ。


 伊織はTシャツとジャージに着替えてキッチンに立つ。

 豚肉は茹でる前に重曹を少し入れておけば肉がぷるぷるで美味しく食べられる。レタスを添えれば冷しゃぶサラダだ。ドレッシングに梅肉ソースを作った。ナスを焼き、みそ田楽に。大鍋に湯を沸かす。茹であがったそうめんにトマト、キュウリ、ゆで卵、ハムを添えてガラスの器に盛る。味付けはシンプルなかつお出汁だ。


「いただきます」

 ちゃぶ台を囲み、二人手を合わせる。麦茶に入れた氷がカランと涼しげな音を立てた。

「夏らしい」

 曹瑛は透き通った糸のようなそうめんを掬って眺め、つるつると啜りはじめた。

「手抜き料理だけどね」

「梅肉ソースがさっぱりしていい」

 客に料理を出している曹瑛に褒められるのは素直に嬉しい。食後に曹瑛が店から持ってきた茶葉で茉莉花茶を淹れてくれた。


「これは試作品だ」

 曹瑛が取り出したのは手作りのエッグタルトだ。サクサクのパイ生地にカスタードクリームを流し込んだ菓子で、卵たっぷりのクリームは濃厚ながら甘さは控えめだ。

「香港やマカオの名物と紹介されているが、中国でもメジャーな菓子だ」

「美味しいね。優しい甘さで中国茶にも合うよ」

 曹瑛は当然だ、と胸を張る。季節に合わせて点心を切り替えていくらしく、これは秋の新メニューにするということだった。


 突如アパートの外で重低音が響き始めた。伊織が唸りながら頭を抱える。

「車をすぐ前に停めてステレオを大音量で流すんだよ。同じ階の住人が警察を呼んだけど、その時は逃げていって、でもまたすぐに戻ってくるんだ」

 騒音はここ毎日、夜中じゅう聞こえるという。曹瑛は殺気が漲らせて無言で立ち上がる。

「瑛さん、待ってここは穏便に」

「話をつけにいく」

 伊織は慌てて曹瑛を引き留める。曹瑛の話し合いは間違いなく肉体言語だ。そもそも穏便な話し合いがこれほどできない男もいない。


「せっかく平和な暮らしを手に入れたのに、こんな下らないトラブルに首を突っ込んじゃ駄目だ」

 伊織は必死だ。

「伊織に安らかに眠ってもらうためだ」

 何だか違う意味に聞こえて怖い。曹瑛はスーツの上着に腕を通し、サングラスをかけた。ベランダを開け、軽やかに柵を飛び越えていった。


 曹瑛はアパートの裏手から通りを覗き込む。通りには旧式の黒色のクラウンが停まっており、大音量でダンスミュージックを流している。ご丁寧にウーファーを積んでいるので無駄に重低音が効いている。曹瑛はマルボロに火を点けた。

 運転席の窓をコンコンと叩く。窓が開いて、金髪のランニングシャツの男が顔を出した。助手席には大股開きの巨漢が座ってスマホゲームに興じている。


「うるさい、消えろ」

 伊織が聞けば白目を剥きそうなドストレートな交渉術に、チンピラ風情の金髪が唇をゆがめる。

「ああ、聞こえねえなあ」

 金髪がわざとらしく耳に手を当てる。曹瑛はポケットから爆竹を取り出し、タバコの火で着火した。それをクラウンの車内に投げ込んだ。ひとつで飽き足らず、3つ立て続けに投入する。車内で弾ける爆音と充満する煙にチンピラは絶叫する。

 様子をアパートの住人がそっと覗き見している。警察に通報する気は無さそうだ。


「てめえ、ふざけた真似しやがって」

 エンジンをかけたままチンピラが2人、喚き散らしながらクラウンから降りてきた。曹瑛はタバコを落とし、つま先で踏みにじる。

 金髪と巨漢は曹瑛の姿に尻込みした。ポケットに手を突っ込み、真夏なのに黒づくめのスーツにサングラスの長身の男。その口元は真一文字に引き結ばれ、表情が読めない。放つ殺気はカタギではないことを本能で感じ取った。チンピラはこちらは二人、ポケットにはナイフ、どうにかなるだろうという保証のない連帯感で結ばれている。


「近所迷惑だ、余所でやれ」

 曹瑛のドスの効いた静かな低声。その声には怒りが漲っている。

「舐めやがって」

 腕に自信がありそうな金髪が曹瑛に殴りかかる。曹瑛はそれを軽々と避け、通り過ぎた金髪の膝の裏を蹴る。金髪はバランスをくずし、アスファルトに転がった。

「てめえ」

 巨漢がポケットからナイフを取り出し、曹瑛に向かって突進してきた。動きが鈍い。曹瑛は巨漢の手を捻り上げてナイフを奪い取り、その尻に突き刺した。


「ひぎゃああ痛ぇ」

 刃渡り10センチほどのポケットナイフが巨漢の尻から生えている。金髪は起き上がり、無謀にも曹瑛に殴りかかる。曹瑛は重心をずらして易々とかわし、金髪の耳に平手を食らわした。金髪は激痛に叫び声を上げるが、どこか遠くで自分の声が聞こえる。耳の鼓膜が破れたのだ。

 戦意を失った男を尻目に、曹瑛はクラウンの方へ歩いていく。車内にあったドライバーでカーステレオを突き、破壊した。静まりかえった住宅街に車のエンジン音だけが響き渡る。伊織が部屋から出てきた。唇を噛んで険しい顔をしている。


 伊織はその手に嫌がらせピンクチラシが入った袋を持っている。それをクラウンの中に袋を逆さにしてすべて投入した。ささやかな抵抗だ。

「これは俺の問題なのに、逃げてばかりだった」

 曹瑛にここまでさせた自分が不甲斐なく、伊織は唇を噛む。

「気にするな、問題は解決していない」

 曹瑛は平然としている。男たちは逃げるように車に乗り込んで走り去って行った。


「しくじった」

 腕組をした曹瑛が神妙な顔で呟く。

「どうして」

「話し合いで解決しようと思ったが失敗した」

「瑛さん、本気で言ってるの」

 伊織は目を丸めて呆れている。チンピラどもは今夜はもう現れないだろう。アパートの住人がカーテンの隙間から親指を立てているのが見えた。

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