第3話
「なかなか流行ってるやないか」
取引で来日していた劉玲が烏鵲堂に立ち寄った。伊織に榊、孫景が座るテーブルにつく。客として来店するのは初めてらしく、店の賑わいを見て嬉しそうに目を細めている。曹瑛は手早く武夷水仙を淹れ、劉玲に差し出す。
白い茶器に濃い透明感のある赤が映える。口に近づけるとほのかな甘い香りが鼻をくすぐった。
「大したもんや。今度、生産元に話つけてみよ。旬の上質な茶葉が手に入る」
店で出す茶葉は曹瑛が厳選している。劉玲は弟である曹瑛に協力するためにあれこれ考えているようだ。中国全土を「仕事」で飛び回るので、そういったつてがあるらしい。
閉店時間が迫り、お客さんが帰って行く。また来ますね、と最後の女性二人連れが笑顔で階段を降りていった。伊織は立ち上がり、カフェの片付けを手伝い始める。
「あれから嫌がらせはなくなったよ」
曹瑛の見事な”交渉術”により、伊織のアパート周辺をうろつくチンピラを撃退できた。それからは平穏な日々が続いているという。
しかし、曹瑛には気になっていることがあった。走り去った黒いクラウンのナンバーを榊に伝えて持ち主を探してもらったところ、持ち主は麒麟会系の三次団体、舟木組のチンピラだと分かった。面子を潰されたヤクザがこのまま引き下がるとは思えない。
「総和エステートが伊織の住む旭アパートの権利書を手に入れたそうだ。二束三文で土地を取り上げる契約書にサインをさせたらしい」
「なんだと」
厨房で仕込みをする曹瑛に榊が耳打ちする。曹瑛が目を見開く。
「権利書とは何だ」
曹瑛が榊に尋ねる。
「その土地の所有権を証明する重要書類だ。それを取られたからといって土地を奪われるわけではないが、契約書を書かせているから表向き正当に取り上げる手筈だ。おそらく、悪徳弁護士もついている」
舟木組は構成員20名の小さな組で、五反田に事務所を構えている。スイーツビュッフェの会場、東京ロイヤルガーデンホテルにいたのが舟木の若頭と麒麟会のフロント企業である総和エステートの専務だという。
「アパートのある一帯はここ何十年ぶりの再開発の話で湧いている。奴らにとっても甘い蜜ってことだ。多少強引な手を使っても土地が欲しいのだろう」
曹瑛は杏仁豆腐のもとをかき混ぜながら何やら考え事をしている。立ち退きが決まっているなら住人に勧告が出ているはずだ。伊織からはそんな話を聞いていない。
「住人はまだ知らないんだろう」
地上げに住人の意思など関係ない。榊はやり口をよく知っている。
「呑気な奴だ」
曹瑛はテーブルで談笑している伊織を見て鼻をフンと鳴らし、また杏仁豆腐のもとをかき混ぜ始めた。
「権利書と不当にサインさせた書類が戻ればいいわけだな」
曹瑛の目が剣呑な光を帯びる。
書店にバイトに入っていた高谷も交えて、烏鵲堂の隣にある中華料理店「百花繚乱」へなだれ込む。六人が揃うといつもこの流れだ。
劉玲は曹瑛に茶葉の仕入れを提案する。自ら中国の生産農家に買い付けに行くと張り切っている。榊と伊織は温泉話、孫景は高谷と新しい情報機器の話で盛り上がる。
賑やかな宴が終わり、店の前で解散した。
曹瑛はひとり山手線に乗り、五反田駅で電車を降りた。駅から徒歩10分で細長い雑居ビルの前に到着した。榊に聞いた舟木組の事務所だ。五階に舟木興業と金色のパネルがついている。同じビルの二階に総和エステートの名前があった。
見上げれば、五階の窓から明かりが漏れている。一階の駐車スペースには黒塗りのベンツとセンチュリーが停まっている。
曹瑛はポケットから小さな銀色の玉を取り出した。ここへ来る途中のパチンコ店の前に転がっていたものだ。狙いをつけて、親指で弾く。入り口の防犯カメラのレンズがぱりんと割れた。雑居ビルの狭いエレベーターはタバコのヤニと匂いが染みついている。滑り込んで五階のボタンを押す。
エレベーターのドアが開き、舟木興業のプレートがついた黒塗りのドアの前に立つ。曹瑛は呼び鈴を押す。撮影範囲に立つ前に防犯カメラは破壊済みだ。
「なんだお前は」
ドアが少しだけ空き、黒タンクトップに金のネックレス、白いジャージの男が顔を出した。金縁のサングラスに無精髭を生やしており、わかりやすいほどヤクザだ。
曹瑛が無言でドアを蹴飛ばす。白ジャージの男はドアに吹っ飛ばされた。
「池袋の旭アパートの権利書を返せ」
曹瑛は大股で歩きながら事務所に入っていく。事務所には電話番の他に賭け花札に興じていた男が二人。
スチール製の机が並んでいるが、およそまっとうな仕事をしているようには見えない。革張りの応接セット、奥には立派な神棚、組長の座る机と椅子だけは部屋に似合わない豪華なものが置かれていた。
床に転がった白ジャージ男が憤怒の表情で起き上がる。
「てめえ、ぶっ殺してやる」
机の引き出しからナイフを取り出し、曹瑛に斬りかかる。曹瑛はカウンターで白ジャージ男の喉に拳を食らわせる。男は息を詰まらせ、白目を剥いて倒れた。それを見ていた二人が怒号を上げながら立ち上がる。
花柄シャツがそばにあったゴルフクラブを手に取り、曹瑛に殴りかかった。曹瑛はそれを受け止め、クラブの先端を握る。そのまま勢いよく回転させ、柄シャツ男の顎を砕いた。男は口から血を流しながら床でのたうち回っている。
曹瑛は呆然と立ち尽くす男に目をやった。黒シャツからは派手な刺青がのぞいていた。恐怖に震え、手にしたドスを床に落とす。
「た、助けてくれ」
刺青男は情けない声で懇願する。
「権利書はどこだ」
男は首を振る。知らないといいたいようだ。曹瑛は刺青男の首を片手で締め上げる。頸動脈を押さえつけられ、男は目を白黒させている。
「…不動産のことなら、二階の総和エステートだ」
掠れた声を振り絞って刺青男が答える。曹瑛が手を放すと男は床に転がった。その間、1分も経過していない。
「案内しろ」
刺青男は涙目で首を激しく振った。下っ端なので総和エステートの鍵は管理していないらしい。曹瑛は大きく舌打ちをした。
「ヤクザの事務所に乗り込むとは、大した度胸だな」
背後で声がした。振り返れば、扉のところに腕組みをした榊が立っている。その背後に劉玲と頭を抱えて青ざめる伊織がいた。
「なんでお前たちが」
曹瑛があからさまに顔をしかめる。
「榊はんに聞いたんや、悪者のところにアパートの権利書類を取り返しに行くんやて」
劉玲が楽しそうにニヤニヤしている。曹瑛の足下に転がっていた刺青男が背中に隠したドスを手にした。曹瑛は振り向きもせず男の腹を蹴り飛ばす。男は呻いて戦意を喪失し、そのまま気を失った。
何も得るものが無く、舟木組の事務所を後にした。五反田駅近くの小さなバーで曹瑛と榊、劉玲、伊織が顔をつきあわせている。
「追い出されるなんて、聞いてないよ」
榊から事情を聞いたらしく、伊織は憤慨している。新卒のときから住んでいるアパートだ。それなりに愛着がある。それに、あんな無法者のせいで立ち退きになるのは不本意極まりない。
「権利書を取り戻したところで、やつらは執拗に攻勢をかけるだろうな」
榊はブランデーを傾けている。曹瑛はマルボロに火を点けた。劉玲は無精髭を撫でながら何やら考えている。
「榊はん、弟くんはパソコン得意やったな、ちょっとしたバイト頼んでええか」
劉玲がニヤリと笑う。
「それと、こういうときに頼れるのは孫景はんやで」
劉玲は微信(中国版LINE)で孫景にメッセージを送りはじめた。何やら策があるようだ。
「余計なことを」
仕事にケチを付けられた気分なのか、曹瑛は機嫌が悪い。ふてくされながらプリンを口に運ぶ。
***
―数日後。
「何だ、てめえら」
白昼の舟木組は騒然となった。タバコの煙が充満する狭い組事務所に尋ねてきたのは黒づくめのスーツの四人の男たち。中央の一人は黒色の丸いサングラスをかけ、無精髭を生やしている。脇に控える二人の男も組員の恫喝に全く怯える様子はなく、ポケットに手をつっこんで立っている。どう見ても同業者だ。もうひとりはビン底眼鏡をかけ、真面目な佇まいでビジネスバッグを提げている。
「組長さんはいてはるか」
飄々とした無精髭の男が応接セットにどかっと腰を下ろす。
「ふざけてんのか」
チンピラたちが額に青筋を立てて威嚇する。無精髭の男はメンチを切ってきた黒いジャージの男の口からタバコを取り上げ、灰皿で揉み消した。
「ああ煙たいわ、タバコは身体に悪い」
黒ジャージが無精髭の男に殴りかかろうとする。その手を傍らに立っていた長身の男が掴んだ。その細身に似合わない剛力に、黒ジャージの顔が青ざめる。
「待てい、話を聞こう」
そう言って舟木組の組長、舟木道治が交渉の席についた。60代、白髪混じりの髪をなでつけ、深い皺の刻まれた目元は三下にはない迫力がある。
「早速やけど、このビル立ち退いてもらうで」
途端、周囲の組員が怒号を上げる。無精髭の男は足を組んでソファにふんぞり返ったまま、不遜な態度を崩さない。
「ほう、何の権利があって」
舟木は冷静を装っている。ビン底眼鏡の青年が恭しくカバンがら書類を取り出し、机に置いた。そこには土地売買契約書 天龍不動産と書いてある。それを見た途端、舟木は顔色を変えた。
「総和の専務に電話だ」
舟木は総和エステートの専務に書類の確認を取っている。額に脂汗が浮かんできた。無精髭の男は口角を上げて不敵な笑みを浮かべている。
「あんたら…どうやってここの識別番号を手に入れた…!いや、何が目的だ」
舟木は折れた。
***
閉店後の烏鵲堂のカフェスペースに、いつもの面子が顔を合わせていた。
「ヤクザの事務所なんて初めて入ったよ」
舟木興業に入ったときのことを思い出し、伊織は冷や汗を流す。ビン底眼鏡の奥では目が泳いでいた。
「俺たちは出番無しだったな」
榊が肩を竦めて曹瑛を見やる。一暴れの出番があると思っていた榊は肩透かしだったと笑う。曹瑛もそれが不満らしく、へそを曲げている。
「あんたらがおるからハッタリが効いたんやで」
劉玲が満面の笑みで二人の間に割って入り、肩を組む。
「しかし、高谷はんはええ仕事するな、バイト代は弾むで」
「いいですよ、そんな。全然楽勝だったし」
劉玲に褒められて高谷は照れながら笑っている。
「結紀、遠慮せずにしっかりもらっておけ」
榊が有能な弟の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「孫景はんにも世話になった」
「久々の事務仕事だったぜ、いつでも言ってくれ」
高谷が総和エステートのサーバーから所有している五反田のビルの登記識別情報を抜き取り、孫景が正式書類を申請して土地の権利を劉玲の所属する上海九龍会の息のかかった天龍不動産に書き換えたのだ。
「ヤクザが地上げにあったんじゃ、舐められて商売あがったりだからな」
あれは痛快だったと榊は笑う。
「良かったな、これで追い出されなくて済む」
榊が伊織の肩を叩く。アパートの大家に契約書と権利書は返却されたという。
「それが、大家さんが今回の件に疲れちゃったって」
伊織の話によれば、今回のゴタゴタに疲れた高齢の大家夫妻はまともな不動産屋に管理を任せることにして引退するということだった。新しい管理者は老朽化したアパートの建て直しを早急に進めたいらしく、結果的に近々追い出されてしまうのだ。
「うちに部屋は余っている」
次のアパートを決めるまでに居場所に困るなら、新宿のマンションに居候してもいいと曹瑛は言う。そんなことになれば、炊事も家事もまるごと押しつけられるのが目に見えている。
「頑張って新しいアパートを探すよ」
伊織は苦笑いを返した。
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