烏鵲堂の開店祝い

第1話

 神保町のブックカフェ”烏鵲堂”のオープン初日は大盛況に終わった。十七時にカフェを閉め、十八時に書店の営業を終えた。

 オーナーは裏社会の元暗殺者という過去を持つ曹瑛そうえい。組織の指令に従うことをやめ自分の意思で戦い、勝ち取った新しい人生だった。


 細身の長身で色白の肌に鼻筋の通った整った顔立ち、切れ長の澄んだ瞳は夜の森の湖のような静謐な光を湛えている。

 表情に乏しく唇を一文字に引き結んでいることが多いが、黒のシックな長袍に身を包んだエキゾチックな姿は一日中女性客の視線を集めていた。


 二階カフェスペースでは本格的な中国茶を提供する。茶盤に茶壺、蓋椀に杯と茶具を一揃えテーブルへ運び、茶葉の品種と淹れ方を説明する。茶葉の種類により、器の材質も異なるものを選ぶ。甘味は杏仁豆腐と月餅、桃饅頭、開口笑、ごま団子など、すべて曹瑛が手作りで準備した。


 初日の営業を終えて、曹瑛は二階のカフェスペースの椅子に座り、テーブルにつっぷして脱力している。こんな姿を見るのは初めてだ。

「瑛さん、お疲れ様」

 宮野伊織は奇妙な縁で裏社会に生きる曹瑛と出会った。お人好しな性格で曹瑛の人生を取り戻す戦いに巻き込まれることになったが、肚を決めてそれを見届けた。今は理解者であり良き友人だ。

 都内の中堅広告代理店を自主退社し、現在は中国と日本の橋渡しをする文化交流雑誌の編集に関わる仕事をしている。


「曹瑛さん、今日の書店の売り上げまとめておきました。あれ、ダウンしてる」

 一階書店から階段を上がってきたのは高谷結紀。二十一歳の大学生で、アルバイトとして曹瑛の書店を手伝う。顔にかかる長い髪をさらりと流し、大きめのぱっちりした目は愛嬌がある。

 そのすぐ後からジーンズのポケットに手を突っ込んだ無精髭の長身、短髪の男が笑顔で階段を上がってきた。


「大学の偉い先生がなんたらの全集を欲しい言うて、上海の倉庫にすぐ確認して取り寄せたったわ、他にも希少本の大口注文がなんぼかあってまあまあ売り上げあるんとちゃうか」

 劉玲は烏鵲堂の開店祝いに駆けつけたまま、書店に居座って手伝いをしていたようだ。

 劉玲は曹瑛の兄で、中国マフィア上海九龍会の上級幹部だ。若い頃に神戸滞在中に覚えた関西弁のイントネーションが抜けておらず、明るく飄々とした印象を与える。普段は愛想の良い笑顔を絶やさないが、怒らせるとその気迫漲る鋭い眼光は誰よりも恐ろしい。


「榊さん、中国マフィアに転職したんですか」

 高谷がカフェの窓際にもたれ腕組みをしている榊英臣の姿を見て揶揄する。

 榊英臣は高谷の腹違いの兄で、以前は関東の小さな組、鳳凰会柳沢組の若頭を務めていた。組の解散により現在は極道から足を洗い、それまでのシノギを引き継いで個人実業家として活動している。

 裏社会を知る射貫くような鋭い眼光は健在で、その佇まいはどう見てもカタギには見えない。曹瑛と同じ黒い長袍に身を包み、剣呑な表情で佇む姿は中国マフィア以外の何者でもなかった。


「縁起でもないこと言うな」

 榊は高谷の頭を軽く小突いた。

「ごめん、あまりに似合いすぎてつい」

 開店祝いに立ち寄った榊は、唐突にカフェを手伝えと曹瑛に長袍を渡された。ピンストライプのスーツではお客が怖がるという配慮だ。

 湯をつぎ足したり点心をテーブルへ運んだりと伊織と一緒に一日中せわしなく動き回っていた。


「曹瑛、バイト雇えよな、初日から全然回らなかっただろ」

 厨房から大柄な男が出てきた。小さいエプロン姿をつけた姿は滑稽で、まるで似合っていない。

 孫景は個人経営の武器ブローカーで、曹瑛とは古くからつかず離れずの付き合いがある。劉玲や榊と共に開店祝いにやってきて、そのまま厨房で品出しや洗い物をこなしていた。

 軍人上がりのいかつい体躯と強面ではお客さんが怖がるだろうと、裏方をかって出た。涼やかな目元はどこか優しげで、粗野な大男という印象をかき消している。


 曹瑛が頭を抱える。この大入りは完全に予想外だったようだ。開店から閉店までほぼ満席、待ち客が一階の書店に溢れている状態だった。おかげで書店も売れ行きが良く、大繁盛だ。

「大成功じゃないか、良かったよ」

 伊織が曹瑛を励ます。


「明日はカフェをやらない」

 頬杖をついて遠い目をする曹瑛の言葉に、何言ってるんだと皆から総ツッコミが入った。

「お茶もお菓子も好評で、お客さんみんな喜んでたよ。やめるなんてもったいない。明日は仕事休みだから手伝いに来るよ」

 伊織がたたみかける。

「奇遇だな、明日は俺も時間がある」

 榊がニヤリと笑う。

「俺も顔出すわ。マニアックな客が多くておもろいわ」

「俺はエプロン持参するかな」

 劉玲と孫景も手伝う気満々のようだ。曹瑛が控えめにありがとう、と呟いた。


「じゃあ、打ち上げといくか」

 榊がスーツ姿に着替えてネクタイを締め直している。

「お、ええな、いこか」

 ぞろぞろと連れだって烏鵲堂の横にある中華料理店“百花繚乱”へ入っていく。円卓に着席し、宴会が始まった。

 本格四川料理を出す店でメニューの品数も多く、リーズナブルだ。店長は成都出身で、十六年の修行を積んで日本にやってきたベテランだ。烏鵲堂の開店を歓迎し、酒は店のおごりにしてくれた。


 この面子で集うのは約三ヶ月ぶりになる。そもそも、今日顔を見るまでは曹瑛と彼の兄劉玲はハルビンでの戦いで命を落としたと聞かされていたのだ。衝撃の再会からこうして食卓を囲んでいるのが未だに信じられない。


「完全に見込み違いだった」

 カフェを書店のおまけ程度に考えていた曹瑛はため息をつく。本でも読んでのんびり過ごそうというアテが外れたようだ。店の立地は良いし、明日から口コミでもっと客は増えると榊は断言している。

「バイトなら俺の通ってる中国語講座で学生さんのつてがあるから聞いてみようか」

「そうだな、頼む」

 伊織の申し出はありがたい。


 盛大な祝宴が終わり、会計は開店祝いだと劉玲が済ませていた。店の前で解散し、伊織と曹瑛は地下鉄神保町駅に向けて歩き始める。

「買い物に行く」

 不意についてこい、とばかりに曹瑛は首を傾ける。

「いいけど、どこに」

 曹瑛は答えず、足早に歩き出す。


***


「え、ジュエリーショップ」

 伊織は怪訝な顔で曹瑛を見た。曹瑛はライティングも煌びやかな店内に入っていく。

「結婚指輪はどれだ」

 曹瑛の言葉に、伊織は彼を二度見した。意中の女性ができたのか、いつの間にそんな話になっていたか。


「瑛さん、結婚するんだ。おめでとう」

 壮絶な裏社会を生き抜いた男がとうとう愛を見つけたのか。伊織は祝福の笑みを向けた。

「寝言は寝て言え」

「へ」

 伊織は口を開けたまま不機嫌全開な曹瑛を見上げている。一体どういうつもりなのか。


「榊に聞いた。女を寄せ付けたくなければ、左手の薬指に指輪をしておけと。その指輪はどれだ」

「榊さんが」

 またいらんことを、と伊織は眉を顰める。

「今日、何人もの女に身の上を聞かれた。それに時間を取られるのが面倒だ。指輪があれば女を黙らせることができると聞いた」

 結婚指輪は便利アイテムではない。世間知らずの曹瑛にしょうもない悪知恵を授けた榊を恨み、伊織は頭を抱えた。


「結婚指輪ですか」

 白髪交じりの男性店員が愛想良く声をかけてきた。名札をには店長と書かれている。ショーケースに案内され、指輪を提示される。細工が凝ったものはいらない、と曹瑛はきっぱり伝えた。

 店長はシンプルな細身のプラチナのリングをいくつか取り出して見せてくれた。値段を見て、財布を出そうとした曹瑛を伊織は全力で止めた。

「瑛さん、偽装するだけならこんなに高いのいらないよ」

 曹瑛は経済観念も欠如しているようだ。


 突如、横にいたマスクで顔を隠したジャンパーの男がショーケースのガラスをスパナでぶち割った。もう一人の黒のマスク男がこちらに拳銃を向ける。

「動くなお前ら、床に伏せろ」

 マスク男が牽制しているうちに、もう一人がショーケースの貴金属を根こそぎかき集めてリュックに詰め込む。白髪混じりの店長は悲鳴を上げて床に腹ばいになった。


 伊織は驚きと恐怖に固まっている。曹瑛が背後から伊織の襟首を引っ張る。伊織は我に返り、慌ててしゃがんだ。曹瑛は膝立ちで二人組の男の動きを冷静に観察している。

 リュックに貴金属をしこたま詰め終わり、銃口をこちらに向けて牽制しながら二人は店を出る。すぐに乗り付けた車に乗り込んで逃走する。店長は震える手でようやく防犯ベルを鳴らした。


「行くぞ」

 曹瑛は何事も無かったかのように立ち上がり、店を出ていく。

「瑛さん、警察に」

「そんな義理はない」

 曹瑛は吐き捨てるように言う。あんな連中は簡単に倒せたはず、何故そうしなかったのだろう。伊織は疑問に思い、曹瑛の背中を追う。曹瑛は不機嫌に唇を引き結んでいる。


「伊織は肝が据わったな」

 曹瑛が伊織の顔を振り返り、口角を上げる。

「おかげさまでね」

 伊織は複雑な心情で肩を竦める。日本ではヤクザを相手に戦い、ハルビンまで飛んで中国マフィアと戦い、最悪のドラッグ龍神のプラントを壊滅させるのを見届けた。不謹慎だが、宝石店強盗などかわいいものだ。


「明日も店に来れるか」

「もちろん、手伝いに行く」

 九時に烏鵲堂に集合する約束をして、新宿駅で曹瑛と別れた。

 警察が追って来ないか心配になったが、その気配はなさそうだ。大体こちらは何も悪いことはしていない。しかし、事情聴取に協力せずに帰ったのは気が引けた。伊織はやはりどこか腑に落ちないまま、池袋の安アパートへ帰宅した。


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