間章

第23話 まどろみ







 静かな病室で、ベッドの上で男が寝ている。

 女はそれに寄り添うようにして、手を握っていた。

 年の暮れ、男は心肺停止に陥った。

 回復の見込みはないと診断されたが復帰した。

 もう、時間はなかった。










「あなた、名前は?」




「……わからない」




「わからない?」




「まだない」




「ご両親は?」




「いない……なるかも? って人はいる……」




「……なに、それ?」




 病院の一室、白い髪をした少女は、びくびくとあらゆることに怯えている少年と出会った。

 名前も両親もいない少年の病室の表札には何も書かれていない。

 ここに入ったのは単なる好奇心と暇つぶし。定期検診が終わり、迎えが来るまでの間、資料室へと足を運ぶ途中にこの病室を見つけた。

 少年は外をぼーっと眺めていて、外傷も何もないままで個室をあてがわれていた。叔父が経営するここは、いわゆるVIP待遇の病室があり、ここがその一つで、特にともいえる患者に提供されているはずだ。

 しかし、ここにいたのは何もできなさそうな少女と同い年の少年。話をしてみれば、よくわからなかった。この時すでにメディアを騒がせていた彼女にとって、ある種屈辱的な体験だったのだ。

 少女を知らず、外見でも、内面でも、声でも、すべてに怯えているようで、驚いてはいない。

 何より何も推察できなかったのが悔しかった。少年は何もかもが不明瞭だった。知能が遅れているのか、それとも委縮しきっているだけか。

 そうこうしているうちに迎えが来た。いつもと違う場所にいたから、何か小言を言っていたような気がするがどうでもよかった。

 その日から、少女は日に一度必ず病室に足を運んだ。といってもわずか一週間の内だ。

 話をするのは主に少女で、少年は興味なさそうにふーんだとかうんだとか、相槌を打つだけ。最後に名前や両親のことを聞く。答えは変わらず、わからないだ。

 両親になるかもしれないという人たちは少女とは違う時間帯で会いにきているらしい。

「あなた、名前は?」

 六日目。

 最後の質問。

「はしば、かずひと」

 君はと視線だけで問いかける。

「私は春」

 七日目。両親が家を抜け出して、使用人を脅しつけて病院に来ていることがばれた。

 病室にまで踏み込んできて、人殺しの息子がと、和人に向けて言った。









 春はあの時殴られ、怒鳴られ、引きずられるようにして出て行った。

 彼女の叔父という院長は和人の事情を気にせず話しかけてくれるようになっている。

 会わないだろうなと考えていた時、春がやってきた。

「和人」

 彼女の笑みが、声が、魂を解く。犯されるみたいだ。

 両親は良いのかと聞くと、

「どうでもいいわ、あんな人たち」

 と、冷たい声で吐き捨てた。絶対に聞かないような冷淡な声、つまらないものを見下す顔。すぐに和人へと向けるものへと変化する。

 操っている。操られている。そんな印象を得た。

 それから、退院が決まり、同時に名前を与えてくれた人たちの元へと引き取られることが正式に決まった。

 橋場和弘、警察に努めているらしい。

 橋場翠、テレビにも出ていた料理研究家だとか。

 それが和人にとっての新しい帰る家だった。新しいというのは違うかもしれない。和人は、記憶を失っていたからだ。

 あるのは、生きていることへの罪悪感、閉塞感。自覚し、言葉にできるようになるのはもう少し、あとのこと。

 小学校に通い始めた。学校に通うまでも春はどこから調べたのかどうやって話をつけたのか、会いに来た。

 特に大きなことはない。一つ、橋場春として春が隣の席に座って授業を受けていること以外は。

 このとき既に天才と騒がれ始めていた彼女は通常の授業を受けることさえ拒否していた。問題となり始めていたころ、いとも簡単に授業を受け始めたことは大人たちの間で議論が始まったことは言うまでもない。周囲の言葉を無視して、春は和人の側にいることを選び始めた。

「人殺しの子供」

 春の両親がある日、橋場家へと乗り込み罵声を浴びせた。両親はいなかった。遊びに来ていた春を殴り、和人へと手をあげた。

 翌日、春の両親は死んだ。事故だった。目に涙を溜めながら、両親に哀悼の意を示したその夜の春に、和人は悟った。

「春が殺したの?」

 ええ、と女のように頷いた。

「あなたを傷つけるものはいらないでしょう?」

 両親を排除した理由は一つ。橋場和人を傷つけたから。一度許したのは、どうしてなのだろうと和人はぼんやりと春の寝息を聞きながら考えた。

 無意味だ。もういないものはしょうがないと諦める。

 考えたくなかったが正解かもしれない。

 疲れたなと目を閉じると、二人寄り添うように寝始めた。





 息をするように人を操る。無意識に、プログラムでも書くかのように。

 春は、橋場春として名を広げ始めた。不思議と以前の姓は使われず、記録にも残っていない。

 脳を広げた分野は様々。ある時を境にメディア露出を一切断った。原因は和人を侵害されかけたからだ。

 一人の記者が交通事故にあったらしい。一組の夫婦が事故にあったらしい。

 小学校高学年、クラスの間で女といるなんてなどというのがはやる。妬みからくる冷やかしか。それをした少年は次第に、はぶられていった。男女がいてもからかわれることはなくなった。

 春と一緒にいて狡いと嫉妬したクラスメイトがいた。その女の子はゆっくりと知らない毒でも与えられているみたいに変わっていった。

 教師が、クラスメイトが、両親が、何もかもが、子供にとって絶対的とさえいえる狭い社会が、すべて、一人の少女によって好きに整えられていく。

 不自由はなかった。

 中学校に上がった。新しい環境もすぐ、彼女の手のひらに収まる。

 不自由はない。

 毎朝待ち合わせをして、登校をして、授業を受けて、一緒に帰り、一人の彼女の家で過ごす。

 料理を覚え始めた。少しずつ、重ねていく。母に教えてもらい、本などで学びながら、覚えていく。

 できるようになっていくのは、今までの勉強などより楽しかった。

 作り出した理由を語るのは野暮というものだろう。

「彼女とはどうだい」

 いつの頃か、夏休みでも何でもなかった時だったと思う。春の付き添いで、海外の何かのためのパーティーに出ていた。中学レベルの英語で話しかけることも、聞き取ることもできず、壁の花を決め込んでいた。よくわからない男子中学生のアジア人に興味がある人間がいないことも幸いしてか、ずっと話しかけられることはなかったが一人だけ知り合いがいた。

「花山院長」

「昔のようにおじさんで構わないよ。ずっと見てたから今更だろう」

 それにとあたりを見渡す。

「日本語が通じるのは三人だけだ」

「そういうものですかね」

「敬語もやめたまえやめたまえ。君はこのパーティーで二番目に偉いんだよ」

 一番は当然のように彼女だ。

「なんで俺が二番目なんですか」

「決まってるだろ。彼女の隣に居るからだ、和人君」

 花山は変わらぬ様子でグラスを傾けた。

「小さなころからずっと。君が望むものは彼女が叶えて、与えるだろう。なんでもだ。ここにいる人間皆嫌いだといったら彼女は皆殺しにするだろう」

 それは、きっとそうだろう。春は天才だ。何世代に一人だけの、たった一人だけの新種に等しい。

 それが、旧種のとるにたらない石ころのような男の子を傍に置いている。

「それだけじゃない。彼女の隣に居続けるというのはそれだけですごいことなんだよ」

 知ってるだろ、と花山の言葉に黙り込む。

 平凡な人間と、春は話しても二分が限界だった。著名な人物でも五分。そんな短時間で春は脳の構造を掴み、解体しつくしてしまう。

 ならば、どうして自分は違うのだろう。

 傍に、隣に立っている理由。

「で、どうだい、避妊してる?」

 口につけた飲み物を噴き出した。なんだかよくわからないが柑橘類を使用していたのは間違いない。

「……あの、いきなり何を言い出すんですか」

「まだだった? いやぁ、すまないねぇ。おじさんのころはもう許嫁がいたから最初から遊んでやろうと羽目外してたんだよね」

「いやいやそうじゃなくて……」

 どうしようもねえなこのおっさんと白けた目を向けながら、和人は口元を拭う。

「付き合ってないですしそういうことは」

「…………え?」

「は?」

「付き合ってない? どうして? あんなかわいい子がいるのに?」

「え、いやだから……」

 そういうのじゃ、と続けようとして肩を掴まれた。

「まさか、同性を……?」

「異性ですが……」

「ならばなぜ……?」

「さあ……」

 自分でもよくわからない。そういうことを言われることは多々あったが、どうでもよかった。自分だけで手一杯だったからだ。

「彼女は君を」

「おじさま?」

 春の声がした。

 彼女はこちらにやってきて、にこりと叔父に微笑んだ。












 高校入学の十日前。花山は自殺した。

 遺書には疲れたということと遺産に関して姪の春と、和人に与えるという旨が記してあったらしい。

 詳しいことは知らない。春が処理した。

 同時期に春と一緒の家で暮らし始めた。

 朝起きて二人分の朝食と弁当を作る。学校帰りにはすーぱーによって夕食の素材を買う。

 家に帰ると夕食を作る。二人で食べる。

 何も不自由はない。何も不満はない。

 幸福に溺れる。

 これから先、春と暮らして、そのうち結婚して子供が出来て育てて、大人になったのを見届けて、二人で老いて、死んでいくのだろう。

 主夫として生きる。仕事はしなくていい。

 幸せだろう。傍にいるべき人はいるし、金に困ることはない。外敵を恐れることはない。

 なにも不安はない。











「和人」

 手が触れる。

 肩に触れる。

 頬、首、胸。

 背中、腰、足。

 くすぐったくて身をよじると追ってこない。

 体を触られるのは嫌いだと思い込んでいる。

 体温が伝わる。誰かがいると思うと吐き気がする。

 抱きしめられる。胸の感触よりも匂いよりも、白い髪よりも、背中に這うような手の感触が何よりも抗いがたく、おぞましい。

 手が残っている気がした。触れているのだから当然だ。

 暖かい。ここちがいい。

 何を思ってから手が動く。腰から、背中をなぞって、少し硬いものに当たるのを無視して、滑る白い髪を撫でた。絹のように柔らかく、するするとすり抜ける。あまりさわるのも髪を傷めそうでやめた。

 何をしても許されるからそんな気遣いはいらない。そうだろうか。それとは違う気がすると思考を消した。

 柔らかい、細い。体が違う。種が違う。

 ベッドが軋む。ふと息を吐いて、離れた。

 挑発的に春がほほ笑む。

 見えない背中に感触が張り付いている。

 呪いのように。

 祝福のように。

「春」

 呼ぶ。

「どうしたの?」

 距離は近付かない。

「春」

「何?」

 愛おしそうに目を細めて、春は返事をする。




「春」




「どうして俺なんだ」




「どうして俺のことを」





 ここまでされる理由がわからない。

 理解できない。




 俺は、君が、恐ろしい。





「私は、あなたのことが好き」




「愛してる」





「…………」



「納得できない? したくない?」



 とっくに、わかって、わかりたくないことだった。

 今もすぐに、記憶から消そうともがいている。

 どうしてだって?

 そんな、ことは。

 わかっているだろう。


「俺に価値はないよ」

「価値がなければいけないの?」

「そりゃ、そうだろ……」

 だって、ぜんぶ、みんな、そうじゃないか。

 価値がなければ、何かなければみんな、忘れる。

「じゃあそんな常識壊してあげる」

「無理だろ」

「壊すわ。ルールは私が決める、私が作る、あなたが生きていける世界を」

 ねえ、

「私はあなたを忘れない。絶対によ。私がどれだけすごいか知ってるでしょう。私が絶対というの、だから安心して」

 春が近づく。

 抱きしめられた。

 暖かい体が、やけに心地よく感じられる。

「あなたの傍にいる」

 心臓の音。

 匂い。

 もっと、近付きたいと。ゼロ距離で思うほどに。

「絶望しているとき、どうしたらいいかわからなくなった時に必ず」

 あなたの手の届く範囲にいる。

 あなたと一緒にいる。

「私がしたいだけだから、あなたが嫌だとか思うのなら、私は視界から消え失せる。あなたがしたいことなんでも叶える。誰といたい、誰と結婚したいかなんてでもいいの」

 あなたを生かす。

「あなたがいない世界なんて意味がないもの」

 春。

「ただ、本当に、その、お願いなんだけれど……」

 春はそこで、初めて照れたように顔を赤くして、視線を泳がせる。

「最期にはあなたと一緒にいたい。嫌なら、断って。嫌じゃなければ……いいのだけれど……」

 神様みたいに言葉を吐いた女は人並みに照れる。その内容はやはり少し違っていたけれど。

 でも、同じ姓にして、死ねば同じ墓に入るわけで。

 そうならば、一般的な範疇だろうか。

「春」

 ぴくりと、恐る恐る春はこちらを見た。

 視線がからむ。

 触れ合うような距離はもう慣れていた。

「俺は、君といるよ」

「骨を拾って、食べて、埋まろう」

 一緒に。

 より良き半分。



















 どうせすぐに俺を忘れる。

 みんなだ。みんな、何をしても、何をかいても、俺のことを忘れるだろう。

 いや、そもそもいることにすら気付かない。見て見ないふりをする。そういうものだ。

 春という特別だけが覚えられる。

 春だけが俺を覚えて、抱える。

 称賛と承認を浴びせかけられる女だけ、誰も覚えていない男を覚えている。


















 誰も見てないさ。読んでいないさ。










 俺が分けられた時。

 既に決まっている。

 橋場和人が橋場和人でなくなったとき、放棄された時。

 分けられた魂は、既に俺ではない。

 なら、そうだろ。

 新しい俺はもう、新しいだけで。

 誰にも覚えられない。

 誰もが忘れる。

 誰も俺を一番にしない。

 誰が見る。

 誰が読む。

 こんな惨状。みんな見向きもしない。

 知り合いも、見ず知らずの人間も。

 意味がないことだ。






 だから、なあ。






 そもそも橋場春なんているのか?





 お前が生み出したただの幻想なんじゃないか?




 あさましくも死にたくないと思ったからこそ、生み出したそれこそ誰も知られない架空の存在じゃないのか?





 お前が考えた、全部ないんだよ。



 お前のせいなんだ。




 みんな忘れる、みんな見放してる、みんな嫌いさお前のことは。




 お前は誰かの一番になんてなれない。




 この先ずっとみじめだ。




 意味も価値も無い。



 答えなんかでない。


 答えなんかない。



 お前に意味はない。



 お前に価値はない。



 お前に答えはない。




 誰もお前の名前を呼ばない。



 お前もお前の名前を忘れる。



 お前のしていること思っていること全部笑われているのさ。



 褒められるからと調子に乗って、疎ましいと思われているのに世辞だけ言われて、それで続けて、みじめじゃないか




 手を握る誰かなんかいない



 寄り添う人間はいない



 温かい体温はもう、二度と、ありえない。



 お前はもう終わってる




 何も楽しくないんだろ




 苦しいのが嫌なだけだろ





 どちらもないだろ。もうない。全部ない




 ベッドの中で丸まってなくのはやめろ



 死にたいと思いながら生きようと何かを食べるのをやめろ






 お前は死ね































 なあ、どうしてまだ死んでない?




















 死にたくないなんて言うなよ意気地なし
















 お前が決めたんだ、今度こそ、死ぬって













































































 死ね









































「おはよう」

「…………」

「君が寝るなんて珍しいじゃないか。夢でも見てたか?」

「……準備は」

「整った」

「そうか。では始めよう」

 森羅転変を。

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