第9話 抗い




「才天……だと……?」

 突如として現れた、未知の怪物に冒険者は惑う。

 同時、カホルでさえも目の前に立つ異常を睨み付けている。

「才天なんて聞いたことも無いわ」

「はっ、ならこっちも典災だなんて聞いたことも無いね、被造物っぽい」

 ヴィルヘルムが馬鹿にするように笑い、影がさざめいた。

 どうやらヴィルヘルムがススキノの影の元らしい。センジの証言に確信が灯った。

「知っとるやないか。ええ? 大層なもの名乗りおってからに覚悟できてるんやろうな」

 言い終わるか言い終わらない間にカホルは疾走した。狙いは当然ヴィルヘルム。脚を動物のように変形させ、接近するも。

「ちっ!」

 彼の足元から影がせり上がり、拒んだ。身を躱すカホルに影の追撃が走る。斬撃のように薄いそれは木さえ容易く両断せしめる。

 湧き出した影は四方を淀むように這いずり回る。朝焼けが差し込む。光が強くなればなるほど影も強くなり、ヴィルヘルムは存在感を増していく。

 木々にまぎれ、カホルは周囲を回るように移動していくが、ぬろりと液体のように影が大蛇のように鎌首をもたげたかと思えば次の瞬間にはまとめて薙ぎ払われていた。

 飛び出してくるカホル。大振りの後だ、隙はでき、

「へんのかい!」

 向かってくる突きをひねって避ける。

 才天、ヴィルヘルム。影を扱う。シンプル故に強力。

 カホルの今の手持ちで崩すのは無理だ。ならやることは嫌がらせ。ブルーノの拉致。

 欺瞞が動くのと同時にヴィルヘルムが狙いに気付く。あいつも性格が悪いらしい。

「させないって」

 影が走った。それを無理やり防ぐ。そして向けた視線の先に。

「あれ?」

 ブルーノはいなかった。先程まで満身創痍で木にもたれかかっていたはずなのに。

 二人仲良く視線を巡らせるとブルーノの背中が見えた。

「逃がすわけ――」

「――ないやろ!!」

 そろった息のまま互いに飛び出すと同時、互いへと繰り出した攻撃が相殺される。

 後ろで聞こえてきた異音を無視するように加速する。

 才天も典災も実力が違い過ぎる。この場からは逃走一択だ。

 幸いというべきか互いに友好的ではないためにいがみ合っている今のうちしかない。

「どこ行くんだよ!」

 危険を感じて頭を下げる。びゅっと風を切る音がすると、ブルーノのひょっこりと出ている毛を刈り取って何かが通り過ぎて行った。

「あっぶねえ……」

 心臓バクバクだ。なにせさっき蘇ったばかりでほやほやの体だ。あと一撃でも喰らえば死ぬ。背後の声は罵声やら怒号やらを交わし合っているが時折こちらに影や肉が飛んでくる。それに紛れて追ってくる気配を感じた。自分を刺した少女だと気付くと手の内に握りしめた剣を確認する。

 少女のスペックは対処できないレベルじゃない。問題は後ろの偽物。構っている隙に捕らえられば死ぬのは確実、最低連れ去られる。どちらも勘弁願いたい。自分は自分としてやっていきたいし、邪魔をするならどんなやつでも叩きのめす。

 速度を上げ、森の中を走る。根っこやぬかるみに足を取られぬように駆けて行った。枝の上などをとっかかりとして進むのはやめる。あれは確かに速度こそ上がるがそれ故に経路が絞られる。引っかけられる枝や、幹など注意深く見れば予測が立てられ、待ち伏せによって即座に追い込まれる。速度で言えばこちらが勝っている状況、無理していくのは愚策だ。

 沈黙を保っていたパーティーチャットにノイズが走った。聞き分け、即座に復帰を理解したブルーノが叫ぶ。

「撃て!!」

 突然の大声にいがみ合いながら追ってきた二人が警戒し、スピードを落とす。そうだ、それでいい。

 彼らの命中精度はそれのおかげで高まる。

「――――!!」

 雷光が駆ける。影さえ焼く雷が走ったと思った瞬間、ヴィルヘルムを貫いた。カホルが目を剥いて、僅かな時間差で艶消しした矢が叩き込まれる。

『死ねボケ!!』

『くたばれクソが!!』

 気持ちがいいほどの暴言が響く。そのことに喜んでいいのか呆れていいのかわからず半々の様子を見せ、ブルーノは岩を乗り越えた。

「戻ったか! よくやった! さすが頼れるよ!」

『ギルマス! 今日絶対唐揚げだぞ俺ら!!』

『イケメンぶっ潰したもんな! 俺吸血鬼殴ったけどお前は?』

『わかんないけど歌うまそうな社長っぽいの殺した』

 絶好調だなわははは! という愉快な声をあげながら援護射撃は続く。復帰したパーティーリストからは二人が満身創痍なのはわかった。

「逃げるぞ!」

『じゃあさっさと行け!』

 返す代わりにライトニングステップで悪路を無理やりにいった。

 過ぎていく視界の中、一人の少女を捕える。先程の少女だ。後ろにいたはず、置き去りにしたはずだ。いつの間に回りこんできた。いや、あれにそんなスペックはなかった。

 制服の少女はブルーノの進路上にいた。回り込むか、押し切れる。考える時間が惜しい。

「そこをどけ!!」

 逡巡なく刃を放った。少女も小剣を取り出し応戦するが、わずかな打ち合いで剣を弾いた。

 やはり弱い。不意打ちでなければ取るに足らない。

 とどめまでいかず、すり抜けざまに内臓まで届く一撃を見舞おうと剣を滑らせようとして、飛び込んできたものにブルーノは目を疑った。

 横槍を入れてきたのは少女だった。切った少女と同じ格好、同じ背丈、同じ髪型、同じ武器。

「っ!!」

 差し込まれるように突き出された剣を防ぐ。同じ存在が二人、三人。同時に存在するのか。群体。

 何人いる。カホルの権能で増えているのか判断できない。

 がさりと音がした。同時、三方向。出てくるのは当然、制服を着たあの少女。

 対峙しているのもいれて計五人。

「だからどうしたって話だが」

 ブルーノの姿がぶれて、納刀の音が響くと、五人が一斉に斬られた。

 エンドオブアクト。盗剣士の必殺技の一つともいえる範囲攻撃特技。発動者を中心とした斬撃は少女たちを殺すとまではいかずとも致命的な傷は与えた。

 とどめまで持ち込んでいる時間はない。ブルーノは勢いのまま、森をかける。

 残された少女たちは、彼の剣に乗っていた虹色で、何かがあふれ出した。










「ブルーノはいないか……じゃあ、あちらかな」

 それはさておきと、バートリーはミオたちを見た。

「君達は影まで与えられたのに役に立たなかった、ということかな」

「っ! それは白銀の頂が――!」

 抗議しようとしたミオにバートリーは人差し指を唇の前に立たせ、静かにと示した。それから指を鳴らす。

「なにを――っ!」

 ひ、と耐えかねた様に身を震わせるとぱきんと何かが弾けた。

「なんだ……?」

 黒い光がミオからイズミから霧散し、消えていく。どさりと力なく倒れた彼女たちは気を失っていた。

「影を、抜いたのか……?」

 手駒を自ら減らすような行為だ。それにドレイクだけが残っているが、あれは影の影響を受けていないのか。殺人鬼は離れたところで三人と睨みあいながらも状況を静観している。

 どうするべきか。ブルーノに任された以上、動きたいが、バートリー。彼のスペックは正直埒外だ。エドガーをちらりと見れば機をうかがっている。

 ではとL2にミサキは目を移すと、

「――――」

「エル?」

 L2は頭痛をこらえるように手を頭に当て、荒く息をしていた。

 頭が、何か、乱れる。

 食い入るように視線がバートリーから離せない。いや、焦点が合っていない。正しくバートリーを見れていない。

 自分の身に起こっている全く未知の現象にL2は苛立ちさえ覚えた。未知は基本的にうれしいがこれは嬉しくない。邪魔だ。何か、何か思い出しそうなのに。

 頭の中に何かロックがかかっているような。

 じ、と何か映像がよぎる。

『こんにちは、榎本先輩』

『……どうして君みたいなのがここに』

 知りませんでしたかとその女は笑った。

『私はあなたの後輩なんですよ』

 ばつんと突然落ちた。ショートしたみたいに、負荷がかかりすぎる前に作動したセーフティーか。

 頭痛がひどくなったがすぐに収まる。

 あれは……思い、出せない。あれはなんだった。あの女の後ろに誰かいた。

 弟がいた、その弟は宇宙が好きで宇宙飛行士になると勉強している。姉の不在であろうと今もしているはずだ。東大という日本一の大学に行ったほどなのだから。その弟が読んでいた科学誌にその名前は、写真はあったはず。

 なぜ、バートリーを見て女のことを思い出す。

 私はあの男を知っている?

 思考が千切れる。落ちる前に打ち切った。深呼吸しながら、バートリーにもう一度目を戻すと今度ははっきりと見えた。

 白い長髪をまとめており、貴族のような恰好をした吸血鬼。

「……平気だ」

 なんとか声を絞り出し、次に湧いてきたのは気に入らないという感情だった。

 ブルーノは時折思考に淀みがあるとか、うまく考えられないだとかいうことがある。それは以前からL2も想像していたことだが、こうも目の前に核心がいるとむかついてく気さえする。

 何より、と言葉には出さないが皆が思っていることがある。

 私たちのギルドマスターの記憶の手がかりだ。

 ここで、止める。

 L2が杖を持ち上げると同時、エドガーも剣を握り直した。

 二人が動き出すよりも更に早く、バートリー目がけて突撃した者がいた。

「てめえ!」

 センジだ。暗殺者さえ振り切るような速度でぶつかる。刃と刃がかち合う音がして、衝撃で周りの木々がざわめいた。

「気合入ってるねぇ」

「てめえ、なにもんだ!! なんでてめえを見てると大将を思い出す! てめえは、なんなんだ!!」

 問いに、バートリーは表情を消し去り、しかしすぐに笑った。

「でかい声を出さなくても聞こえてるよ、死神」

 ぐるんとセンジの視界が回る。軽い動きでいなされた。いともたやすく、最高クラスの戦闘屋であるはずのセンジが。

「っ!」

 危険を感じた武者はなんとか身をよじろうとするが、

「おっそ」

 嘲笑と共に蹴り飛ばされた。もはや弾丸のように吹き飛ばされたセンジは樹木を抉り、地面をバウンドして、自ら刀を地面に突き立て止まった。

 圧倒的なステータスの差。フルレイドランクだ、勝てるはずもない。

 だが、こいつは。

「何者か、か。それは俺の命題さ。僕だって知りたい、悩み続けてる。どうして生きていられないのか、なぜ生きていないのか」

「何を、言ってる……?」

 おかしい、こいつはおかしい。何かはわからないが、この命は命ではないとエドガーは感じ取る。

「まだストックが足りないな。でも君たちに見せてあげよう、僕の、」

 力ってやつを。

 バートリーの足元から不意に手が這い出た。一つではない、十にも二十にも届く数は出来の悪いくせにCG予算だけはあるホラー映画みたいにわらわらと死体たちが動き、蘇る。

「さあ立ち上がれ、リビングデッド!!」

 バートリーの声に反応してゾンビたちが歓声には程遠い唸り声を上げる。

 叫びだ。命であった者たちの、何かを求めている声。

 声が枯れるほどに、喉が潰れるほどに、

 彼は渇望する。

 彼らは叫び続ける。

 生者の時間は終わりだといわんばかりの光景が展開された。

「盆ってやつさ、楽しめよ、白銀の頂」

 白銀は一塊になり、応戦する。

「近寄らせるな!!」

 魔法が飛ぶ。近接のききがわるい。エルダーテイルに存在していた今までのゾンビとは耐久が違う。

 クリスが盾でぶん殴る。吹き飛んだゾンビが他を巻き込んでボウリングのピンみたいに倒れ込んでいく。

 一体一体は弱いし、レベルは低い。

 そう、大地人みたいに。

 考えるな、やめろ。

 カホルのものと同じ。違う、姿が元過ぎる。

 考えを打ち切った。

「待てよ!!」

 去ろうと背を向けたバートリーにセンジが再度とんだ。

「えー? やだよ、僕まだ集めなきゃならないしさ」

 僅かな動作でセンジを弾く。派手な上着がはためく、ブラインドになったところにL2がフロストスピアをぶちこむが素手で掴まれた。

「マジか……!」

 思考する人型のフルレイドモンスター。これほどまでに厄介なのはいない。

「今のところ君たちに興味はない。だからまた後で。僕はチョウシに行くよ」

 それじゃあと吸血鬼は笑い、

「待てつってんだろ!!」

 センジの最後の斬撃もむなしく、闇へと溶けていった。





 












「お前だけは殺す、てめえも、てめえもだ雑魚共」

 銀次郎と出雲と水連に向け、ドレイクは吐き捨てるように言ってから、バートリーと同じようにどこかへと消えて行った。

 追う暇も無く、ミサキ達は全方位から迫る死体たちに抗戦を開始するも、戦いとは言えなかった。

「おいこれは……」

 繰り広げられたのは一方的な虐殺。死体たちによるものではなく、白銀の頂によるものだ。

 どれもこれも十にも満たないレベルだ。大地人の農夫などの適正レベル。攻めを変えればこんなにも呆気ない。

 ゾンビたちが消えうせると残ったのは遠くの戦場から聞こえる遠吠えのような戦闘音のみ。

「どこに行く、センジ」

 エドガーの鋭い声に周囲の目が集まった。見れば背を向けているセンジの後姿がある。

「あいつを追う」

「無駄だ、もう見失った」

「じゃあ大将にどう言うんだよ。ミスりましたですむのかよ」

 あれは、

「大将を知ってるだろうが」

 沈黙が降りた。ミサキは排熱するように短く息を吐く。

「センジ、ミスったですませる。最初から後ろを別のに取られてる、万全じゃなかった。ここで追っても無駄だ。ブルーノたちを待つ」

 センジはそれ以上何も言うことなく、ただ苛立たし気にどっかりと木の根元に腰を下ろした。

 皆もそれにならうように休み始めた。ゴブリンはあたりにいるが、ここらにわざわざやってくる理由はないから少しは休める。

 疲労の色が濃い。逃げられた、勝負さえできなかった。ブルーノの手がかりを逃した。

 白銀のギルドマスターは、へらへらとしているし弱いのは周知の事実だ。記憶などあまり求めてないように見えて、強く望んでいるのも、ミサキは気付いていた。

 まあ、そりゃそうかと思う。誰だとて記憶喪失ならば自分が誰かを知りたいだろう。

 数分、まだ余裕があるセンジやL2を見張りにたて、休憩をとる。

 ブルーノたちに念話は送ったが出る気配はなかった。

「おーい!」

 遠くから声が響く。そちらに視線を向けるとディーとライザーの姿がある。遅れて、ブルーノ。

 朝早くから出てきた白銀がようやく全員揃う。

「無事か」

「当然。そっちは」

「死にそう」

 ブルーノだけが体力が赤い。二割程度にまで落ち込んでいるし、体中傷だらけだ。事情を知っている者たちはぎょっとして、アプリコーゼとカロスがヒールをかける。過剰な回復にブルーノは顔を顰めたが無視した。

「あいつらは」

「殺人鬼たちなら逃がした、それに黒幕の」

「才天もか」

 継いだ言葉にミサキが驚く。

「知ってるのか」

「まあ、こっちにも来たし……逃がしたし……」

 ばつの悪そうな顔でいいながら、頭をかく。偽物と才天、最低な組み合わせに会って生きてた方が驚きだ。

「どうする、ギルマス」

 偵察をクリスに代わってもらったL2が近付いてきた。センジはそわそわとこちらを見ているが戦地なので自重しているようだ。

「どっかにいる感じはするんだけど……複数で辿り辛い……から、撤退だ」

 無念をにじませての判断にセンジは文句を言おうとしたとき、




「いいね、君達は帰ってもらおう」




 ヴィルヘルムが、ブルーノの背後に現れた。

「てめ――!!」

 誰もが瞬時に攻撃を放とうと動くが遅い。ブルーノを中心に影のドームが広がり、踏み込んだkyokaを弾き飛ばした。

「!? なんだこれ!? 攻撃が通らない!!」

 リシアがダンスマカヴルを叩き込むが、意味はない。というよりこれは。

「入れない……!」

 結界。一部の敵が扱う呪術だ。ギミックでも見かけるものだが、よりにもよって才天が扱うか。

「ふざけやがって……!!」

 怒気を孕んだセンジが刀を振りかぶる。荒々しい剣気を解放し、放つのはどんなものでさえ真っ二つに切り裂く斬鉄剣。コラボによって実装された特技だ。センジの卓越した練度により、物体であれ魔法であれ何でも斬れるようになっているそれが閃くが、

「センジ!!」

 クリスの声より先にセンジははっとして飛びのいた。避けた先にもすさまじい勢いで迫ってくるのはゴブリン戦車だ。二頭の荒れ狂う黒いダイアウルフに、同じく黒ずんだ筋骨隆々としたゴブリン。

「邪魔すんじゃねえ!!」

 素手でダイアウルフを相手取るセンジが怒鳴りつけ、片方の頭に拳を叩き込む。受け止めた際に砕けた腕をかまわず振り回し、一分一秒さえ惜しいというようにゴブリン戦車へと斬りかかる。

 そこへ加勢しようとするL2達の周りに、やはり黒い何かに汚染されたトロールたちが屹立した。のそりとした動きではなく、コマ落ちのような不気味な動きをする個体たちに誰もが異常を、恐怖をほんの少しでも抱く。

「ギルマス、なんでこんなにはぐれるんだよ……!」

「さあな、そういう役割なんじゃねえのか!? ほら桃姫みてえなポジ!」

「あれがかよ」

 まあでも、と感じた恐怖を払いのけるように白い髪の一団は武器を握りしめる。

「さっさと迎えに行こうではないか!」







 地面だけだ。地面だけが、先程と同じ場所であることを意味していた。

 神代遺跡の名残、アスファルトで舗装され、所々緑に食い破られている。それ以外はすべて影に包まれていた。ドーム状に形つくられた影の中心にブルーノは立っていた。

「これなら邪魔は入らない」

「お前らマジで……なんなんだよ……」

 黒い魔人、ヴィルヘルムが服の汚れを落とし、相対する。

「さっきも言ったぜ? 人間未満さ、ここにいて、ここにいない。命ではない」

「ここにいるだろうが」

 そうでなければこの状況はありえない。

「――君はまだ気付いてないのか」

 ふとにやにやとした顔が剥がれ、神妙な表情を見せる。

「嬉しいことを言ってくれるが、オレ達はまだ生きていない」

 こいつは何を言っている。

「……っ」

 妙に頭が痛んだ。この嫌な頭痛は、嫌いだ。

「君だって生きたいだろう? 思い出したいだろう? 唯一無二の人間に、なりたいだろ?」

「だから、何言ってるか全然わかんねえよ……づッ!!」

 頭の内側に何かが。

「一緒に行こう、ブルーノ。記憶を取り戻そう。俺はオレ達になるんだ」

 差し伸べられた手がなぜかひどく。

 ヴィルヘルムの声は蛇のように、リンゴへといざなう。

 何者かになれる。待ち望んだものへと。

 以前の自分でも、新しい自分でも。

 取り戻す。

 誰もがほしいと思うリンゴだ。自ら死を選んだものだけに与えられる報酬。

 決して手に入らない楽園の果実。

 それを分け合って食べるんだ。五人で、一人を引き裂いて、奪って。

 それで、

 それで。

 虚構と現実。

 境界をなくす。

 なんだ、なにを考えてる。何の思考だ。誰の思考だ。

 俺。僕。私。自分。曖昧になる。ここに立っているはずなのに。

 俺は、俺は。

 誰なんだ。

 その林檎を食べれば、俺は俺になれるのか。

 手を伸ばす。

「さあ」

 影の声がする。

 そして、

 果実へと、

 手を、

 とる、

「ああっ!!」

 寸前、ブルーノは自らの手を切り裂いた。

「何をしてる?」

 ヴィルヘルムが眉を顰める。

「何って……見て分かれよ」

 痛い、痛い痛い痛い。今ここで転がって泣き叫んで毛布にくるまりたいくらいにいたい。

「俺は、嫌だね……お前らみたいな怪しい連中。白銀は楽しいからな、俺は楽しい方が、いい」

 喉から手が出るほどほしいそれだ。何を言ってるんだとさえ自分でも思う。

 だが、ブルーのは、俺は、

 俺が、嫌いだった。

 それだけで充分だ。

 お前たちは、大嫌いだ。

「……そうかい」

 なら、

「月並みだが力付くで行こうか」

 影が蠢く。

 才天、ヴィルヘルム。レベルは100。

「やってみろよ、糞野郎」

 冒険者、ブルーノ。レベルは93。

 剣を構える。不揃いの剣は見栄えなどどうでもよく、唯相手を殺すことだけを目指している。

 構えなどない魔人と同じに、白い男も構えはない。

 それでも双方共に合図なく同時に動き、火花が散った。

 影の斬撃が走る。距離を一瞬で無にするような素早い斬撃。それをなんとか弾いたブルーノは前に出た。

 近付かなければ勝機はないからそうするしかないとヴィルヘルムは影を広げる。

 影と剣、かち合えば火花が咲く。当たればブルーノは削り殺されるだろう。相手の種別はわからないがステータスはパーティーランクくらいはある。

 無数の摩擦が響いた。その数だけ、捌き切れなかった影がブルーノの四肢を傷つけていく。致命ではない。痛みはある。それでも前進しかありえない。

 ライトニングステップで一気に距離を詰めると待っていたかのように横薙ぎがくる。ユニコーンジャンプで回避すると、着地点に影が来たのでクイックステップでずらした。

 影が変化を見せる。大口を開け、はさみのように展開した。はさみというにはいささか生物的な顎はブルーノ目がけて放たれた。上体をそらしながら避けるが髪の毛がはらりと落ちる。早い。しかも体勢がまずい。ぐらりと崩れる。持ち直そうと動くが足が痛んだ。回復しきれていない。通常の冒険者ならばどうということはないがブルーノは実際の痛みとしてダメージが与えられる。

 血がしたたり落ちた。

 ブルーノの脇腹に影がはえている。

「くそが……」

 影が内側で動いた。羽ばたくように動いて周囲の肉をミンチ状にしていく。

 悲鳴が間近で上がり、うるさいと眉を顰めようとして、どこも自分の思い通りに動かせないことに気が付いた。悲鳴は自分のものだ。

 羽ばたきが止まった。大量の汗と血液を浴びたブルーノは息をする。

 まだ生きている。死んでいるが、蘇った。

 虹がちらりと舞う。それが奇跡の代償だ。

「諦めろよ、君じゃ勝てない」

「うるせえな、黙ってろよクソヴィ…………。……?」

 名前を呼ぼうとして、名前が出てこなかった。おかしい。さっき聞いたはずだ。もやがかかってるとかじゃない、ない。

「……お前、名前なんだっけ?」

「はぁ?」

 張り詰めた空気の中、繰り出された頓珍漢な質問に魔人はややあってからに応えた。

「ヴィルヘルムだ。煽ってるのかい? だとしたらあまり……いや……ああ」

 そういうことかと唇が動いた。

「記憶の消費、冒険者が行うそれが君にとってはそうなるのか」

「あぁ?」

「睨むなよ。つまりさ、君は虹を見るたびに自分を失くしていくのさ。今の君が減り続けたらどうなるんだろうな」

 消えてなくなるのか? 問いにブルーノは唾を吐き捨てた。

「知らねえよ。どうでもいい。俺は俺がどうなってもいい」

 今はただ、

「お前を殺す」

「できっこないさ。それに悲しいこと言うなよ。せっかくの自分だぜ?」

 言葉を聞かず、行った。身体を前に倒し、全速。

 冷静ではないということを自分でさえわかっていない。

 なぜこうなっているのか。

 なぜこんなにも奴らが憎い。

 なぜプログラムみたいに体が動く。

「出来ることは少ないな。君は一人だ。でも大丈夫」

 魔人が笑う。嘲るようなものではなく、親しい物へと向ける笑みだ。

「お兄ちゃんは頑張っちゃうぜ」

 影が飛ぶ。それを切り落とすと、タコの墨みたいに空中に霧散した。まとわりつくような影をよけ、飛び退いた先には。

「――――」

 大口を開けた、黒い影だまりがあった。

 足を取られると思ったときには、ブルーノは影の中に沈んだ。

 声が響く。

 懐かしい声で、

 ずっと聞いたことのある声で、

 最もうるさい声で、














「ぼくのなまえは」






「はしば、かずひと」




























 天才、橋場春と言えば、少しは聞いたことのある名前だろう。

 もう十何年も前、あの事件の後にようやく舞い込んできた明るいニュースだから、同世代より上の人間ならば間違いなく知っている。技術的、学問的分野に関わりがある人間ならば、今なおその影響を強く受けている人間は数えきれないくらい。

 幼き日から突出した知能を持ついわゆるギフテッドに分類される子供たちは、成長するにつれ、その能力を失っていく傾向がある。春もそのようであれと周囲の妬みから願われていたが、成長は知能、身体ともに留まることはなかった。

 あらゆる分野で才能を発揮した少女は今現在も世界の発展に貢献している。大袈裟な物言いだろうか、自分にもよくわからない。

 そんな才能をゲーム分野などにも捻出しているというのだから周囲は驚きだ。今までのコンピュータサイエンスから離れたと思えば、3DCG、医療、脳科学、宇宙工学など広い分野に手を付け、あらゆる実績をたたき出している。

 才能に加え、類まれな美貌を持ち、白い髪という非常に目立つ見た目の彼女はどこにいても注目の的だった。

 だったというのは別に死んだとかそういうわけじゃあない。殺しても死ぬような人間でもあるまいし。

 橋場春はある日ぱったりとメディア露出を断ったのだ。嫌になっただかいろいろと憶測が飛び交ったが忘れ去られるのは一瞬。そう、その流されるように起きた情報達もメディアの報道も、春にすべて誘導されていた。

 理由はただ一つ。たった一つ。

 大衆は知らない。

 彼女の隣に一人の少年がいたことを。

 みんなは知らない。

 その少年に触れてはならない秘密があることを。

 関わるものは皆知っている。

 彼女は彼が好きだということを。

 くだらない馬鹿が逆鱗に触れた。それだけのこと。

 世界最高の頭脳の一つ、天才、怪物、呼び方なんてどうでもいい。

 要はそんな女がいた。

 そしてその隣に居続ける男がいた。

 幼い頃からずっと一緒だった。

 何でも変えることができる、なんでも思い通りになる。

 春は、どんなことでもできたし、してくれた。

 だから、だから。

 自分には意味がないのではないかと考え始めた。

 そうだろう。ここにいても何にもならない。何者にもなれない。

 なれなくてもいいだって? 死ねよそんなこと言う奴は。

 これは自分の証明だ。自分という自己。

 我思うゆえに我ありだ。自分は本当にいるのか。

 春に頼めばこんな悩みきっと消してもらえる。

 彼女の体に溺れることだってできる。

 永遠に、あの女と楽園で過ごせる。

 それをしないのは、してはならないのは。

 ……何か理由があるはずだ。

 自分でもそれがわからない。

 でも、ずっと思っていることがある。

 ずっと抱えているものがある。

 それはできない。あの女が呪いをかけた。

 それだけはしてはならないと。あの女が生き続ける限り、この世に春がある限り。

「俺は死ねない」













 男が振り返った。








 そいつは、あのとき見た顔をしている。






「頼む」





 こちらを見ている。





「ころしてくれ」







 赤い地獄が突然よぎった。

 燃え盛る街。

 ずっと、橋場和人は一人で安眠などできなかった。だから、春と、あの女と一緒に暮らしていた。

 この赤い夢を見るからだ。






























 影の中から、ブルーノが這いあがる。

 倦怠と、諦念。

 汗が冷たい。どくどくと心臓がやけにうるさい。

「……今のは、なんだ」

「さあ。人によって見るものは違う。だが、見せるのは決まってる」

 ヴィルヘルムが応える。

「現実の記憶だ。オレも見たさ、あの光景を……」

 恍惚とした表情を浮かべる魔人に、ブルーノは噴き出した。

「自分のことを知らないのは俺だけじゃないんだな……」

「……ああ。見たか? あそこに行こう」

 また、手が伸ばされる。

 そして虹が瞬いた。

 生じたのは影の霧散。それに伴い、ヴィルヘルムが手を引っ込める。

「反抗期か?」

「手を出しながら攻撃しようとしてた兄貴なんていらねえよ。殺人癖のやつもうんざりだ」

 ブルーノが剣を構える。その剣先には虹が輝いている。

 魂の輝きだ。

「てめえら全員死んじまえ」

「しょうがない。じゃあ力付くだ」

 影が男の掌に集まり、形をとる。

「暗剣――」

 生じたのは剣だ。どこまでも暗い、夜の剣。存在するだけで不安に陥れるそんな物。

 記憶を砕く。何の記憶かは知らないしわからないしどうでもいい。

 虹を纏った剣を向け、暗剣と交わり合った。

 一合。爆ぜるように影と虹がまき散らされる。衝撃の結果、結界の中に星屑みたいに光が散らばった。夜空だと場違いに考え、それもすぐに塗りつぶされる。

 体が勝手に動く。何かに突き動かされていく。誰だ。俺じゃあない。わからない。どうでもいい。諦めた。ころしてやる。

 ただ今は、

「否定してやるよ……!!」

 足元から影が伸びる。暗剣よりも色は薄い。触れた瞬間、影が消えた。

「なるほど、 否定の剣か」

「知らねえよ!!」

 距離を詰める。剣の扱いではこちらが上らしい。数手をよんで置きに行くが影が走る、消える。テンポが遅れて詰みを逃す。

 届かない。読みあいでは上を言っているがやはりステータスが足りない。こんなのばっかりだ。

 影の結界からも斬撃が伸びる。四方八方からの攻撃と正面からのヴィルヘルム。手数が足りず、徐々に追い詰められていく。

 埒が開かない。

 刀と剣、不揃いな二刀流に光が走る。何の記憶か、どの程度の記憶が失われるかブル―ノにもわからない。

 何かに触れている感触がある。それが何かはわからない。

 魂の本質へと、手がかかり、また離れていく。

 今肝心なのはこれじゃない。

 必要なのはひたすらに、

「エンドオブ――!」

 こいつを殺すための力だ。

「――アクト!!」

 半径二十メートルに光の斬線が走った。ヴィルヘルムも影も例外なく切り刻む演舞によって、結界が断たれる。

 光が舞う。それに乗っているのは、その欠片はなんなのか、理解するにはまだ遠い。

「チッ」

 浅かった。ヴィルヘルムはいまだ健在だ。右腕に傷はあるが魂には届かない。

「……まさか、ここまでするとは予想外だな」

 感心した様子のヴィルヘルムに戦車を下したセンジが飛ぶが、またもや弾かれた。

「あーむかつく!!」

「センジ!」

 呼ぶとそれだけでセンジは走り出した。再度の突撃。二人息の合った攻撃は影によって阻まれるが虹が瞬いた。

 影が崩れる。それを目撃したL2が動いた。影の処理を後押しするように氷槍を打ち出す。

「ギルマス、それはなんだ」

「知らん。だがこれで影は無効化できる」

 やるぞ、と三人が責めようとするも魔人が手で制した。

「やめときなよ。それはブルーノの記憶も無くなるんだぜ。ああ、白銀と過ごした記憶のことさ」

 それが消えたら、

「君はいなくなる。この世界にも、どんな世界からも」

「――――」

 その言葉に、L2とセンジは止まらざるを得なかった。

 虚言? 攻撃を躊躇わせるものか。L2は考えを巡らせ、センジは直感的にブレーキをかけた。

 なんかやべえ。僅かな一瞬。ほんの少しの停滞。

 ブルーノは、関係なく刃を閃かせる。

「知るかつってんだろ!!」

「大将!!」

 咄嗟の判断でセンジがブルーノに組み付いた。

「離せ馬鹿!!」

 遠慮なく罵倒し、普段絶対に上げない暴力も振るおうとブルーノはもがく。尋常ではないことを察知したミサキはトロールを片付けると、セイレーンの水を場にぶちまけた。

「エル!」

 呼びかけに応え、あっと言う間に水が凍り、壁が出来上がる。

「てめえら馬鹿か!! 逃がしてどうする!!」

 あれは俺の、

「殺すべき相手だ!」

「君こそ馬鹿か!!」

 ミサキがためらいなくブルーノを殴った。

「目的は記憶だろ。どうして、殺すことになってるんだ!」

 問われ、ブルーノは初めて煮えたぎるような殺意に気付いた。そして、置いて行かれた子供のような顔をして、力を抜く。

「その調子で、見張っててくれ。今は君達に預けておく」

 壁の向こうから、才天の声が聞こえる。

「でもきっと迎えに来るさ、ブルーノ」

 黒い声が気配を絶った。

 残された白銀の頂は、黒い何かに汚染されたゴブリン部隊を退ける傍ら、

「おれは…………」

 ブルーノは自己を喪失した。




















































 あの後、あの日、一本の光の柱が突き立った。

 あの場所にいたものしかわからない、東の外記と呼ばれる最初の一歩。

 魂の契約。

 ゴブリン略奪部隊は無事に退けられ、円卓会議とイースタルの同盟はなった。

 すべてうまくいった。大方の冒険者はそう思っている。

 腹黒眼鏡は渋面を作り、冷徹眼鏡はつまらなそうな顔をしながら、円卓会議の業務へと戻っていった。

「よかったのかな」

「なにがさ」

「才天のこと」

 ああ、とふとこぼしたオブリーオにリシアが聞き返すとそんな言葉が返ってきた。

「円卓に黙ったままでいいのかなって」

「いいんだ」

 筆を走らせ、決して神から目を離さないままにカロスが答える。

「ブルーノが決めたことだ」

「そうだけど……なんでお前がいるんだよ」

「君達が勝手にいるだけだ」

「えー? 私はかろりんの絵のモデルになってあげようかなって」

「お、おれは……その……あれだ……り、リシアの……」

「なに?」

「あ……う……おれは………」

 カロスがうんざりしたようにため息を聞こえるようにはいて、移動するとオブリーオの言葉を待たずにリシアが後をつけていく。童貞は決心をつけ、口走ると目の前にはオルクスの猫しかいなくなっていた。

 才天と典災、それらのことは一切円卓には報告していない。する義理も無いというのがミサキの言い分だ。実際そうであるし、いずれ誰かが典災と行きあたるだろうというのが行きついた結論。無責任だとかそういうことを言われるかもしれないが、知ったことではない。経験したから大衆の役にたてだなんて、くそくらえだ。大勢の人間がしてくれたことだなんて白銀を弾いたことくらいだろう。

「お」

 カロスが足を止める。それに続いてリシアが声を上げた。

 ギルドビル、本拠地、ホーム、呼び方などどうでもいいが、それに付随する中庭、俗に訓練場などと呼ばれている場所ではセンジやエドガーが立ちまわっていた。ミサキやL2、アプリコーゼ、銀次郎の姿もある。

 やってるなーとお気楽に見て、カロスが足を止めた理由を悟った。

 訓練場には、ブルーノの姿があった。

 自己を失った彼は穏やかに日向に――、

「くそが!!」

 なんてことはなく元気に叫びながらエドガーと殴り合っていた。

 顔面をぱんぱんに腫れさせながら悪態をつく。拳は届かない。ステータスは互角、今装備などはつけていないから裸でタイマン。

 ならなぜ届かないのかと言えば純粋に、

「その程度か! その程度なのか白銀のギルドマスターは!!」

「大将馬鹿にしたな死ねぇ!!」

「二人同時に来るがいい!!」

 エドガーの純粋な格闘技能によるものである。二秒後にセンジが刀を取り出し、素手のエドガーは死んだ。手が滑ってすっぽぬけた刀がブルーノの眼球を貫き、脳みそへとがりがりっと突き刺さると、びくびくと痙攣して死ぬ。

 さて、と復活してからセンジを正座させて仕切り直しだ。

 どうしてこんなことになっているのかは単純。

「聞いたぞブルーノ。腕を武器として認識させ特技を打ったそうだな、鍛えてやろう」

 などという多才なエドガーの余計なおせっかいによるものだ。出されたメニューはとりあえず殴り合い。組み手とかっこつければいいのだがブルーノの戦い方はどうにも卑怯臭い。砂で目潰ししたり下から這うような攻撃で対応しにくくしたりと意識の合間を取ってくる。つまり殺しにかかってくるのだ。エドガーは物騒だなと思うも彼が記憶ゼロの状態で白銀に誘拐されたのを思い出し殺伐するのも当然だと思い直す。

 動きは悪くない。身体の動かし方も、センジなどよりもうまくできている。狙いも組み立てもうまい。相手を倒す、殺すという気概も十分。

「っ!!」

 拳が下顎を砕いた。容赦なしだ。あちらも全力ならばこちらも全力、それが江戸川流。

「アプリコーゼ、治療を」

 はいはいとアプリコーゼがヒールをかけると、だらだらとこぼれ落ちている血が収まっていく。

「ぺっ。もっかい」

 構える。ゴングなしに殴り合う。

 足りないとすれば、経験。白銀は確かに戦闘経験を稼げる。こんな風になってから体感する生の殺し合いは非常に効率がいい。なにせ死んでも蘇る。どれほどぼろぼろにしても治る。どこをどんな風に砕かれればきられればどのような痛みが走るのか、熱を感じるのか、それを得るだけで稼げていく。

 だからひたすらに殴り合いだ。今日は素手だが別の武器を試すのもありだ。エドガーは一通り扱えるしセンジも近接ならばなんでもいい。戦闘に関してここは事欠かない。

 そしてこれをしているのにはもう一つ理由がある。

 虹の制御だ。虹は汎用性が高く、ステータスの上昇にも武器の強化にも防具にも使えることが分かった。出力を上げればあげるほど、ただでさえ胡乱な記憶が消えていくということもだ。

 確実に記憶を砕くことは誰にも止められない。そのことはあの場にいた誰もがわかった。殺せる状況なら、使える手札ならば使うということは白銀なら知ってる。

 誰かの進もうという意思は自分にさえとめられない。だから、せめてとやり始めた。

 実戦形式、タイマンの中で少しずつ虹の出し方を覚えていく。

 どの記憶を砕くかの選別。

 出力調整。いつだって全開で動くわけではない。身体でできていることを反芻するように覚えていく。

 何もかもは手探りだ。発動ができないことだってある。出力が間に合わず、全力に間に合わない時もある。

 記憶がすべてなくなってしまうとどうなるのだろうと今まさに虹を見ながらミサキは考える。

 消えるのか。それとも元の世界に帰るのか。

 消えるといってもそれは精神的な死か、肉体ごと消えうせるのか。

 元の世界に、現実に行くというのならば、それが不確かなブルーノはどこに帰るというのだろう。

 失わせてはいけない。

 消えてほしくない。

 たった三か月だ。たった三か月だけ。

 一つ屋根の下で寝て、同じテーブルでご飯を食べて、こちらの書籍を勧め合ったり、戦いで背を預けたり、くだらないことしたり、ギルドメンバーの名前を覚えるのに付き合ったり、話しただけなのに。

 誰もが離れがたくなっている。足りないパーツがようやく見つかったみたいだった。

 消えていくというのならば抗う。手放しはしない、奪わせはしない。

 エルダーテイルろうと時間は過ぎる。暦は刻まれていく。

 八月の終わり。初めての夏の終わりと言えば、

「今日花火やろう。私の特製だ!!」

「ろくなことになんねえ気しかしねえ……」

「隙あり!!」

「てめえ!!」

 殴打音が響く。

 記憶が消えるのなら、思い出をひたすらに積み重ねていくんだ。

 消えるものよりもたくさん、たくさん。

 馬鹿みたいに騒がしい白銀の頂なら、きっと簡単なことだ。

 秋の足音が近づいてくる。




























 春はまだ、遠い。



















































「はぁ……はぁ……!」

 息も絶え絶えに少女は走る。

「っ!!」

 木の根に足を取られ、派手に少女は転んだ。

 思わずついた手が痛む。痛みと熱さを感じて、膝を見ると赤い血が出て、土で汚れていた。

 ありえないとその少女は思う。

 こみあげてくる熱い何かが目を濡らす。

 終わったはずだ。終わらせたはずだ。

 おしまいにした。

 変わることを恐れた。

 命を返した。

 なのに、

 なのに。

 私は私が偽物だということを知っている。

 中に誰かがいて、三次元の人間が動かしていたということを知っている。

 だって、それは、そうだから。

 なのに、

「私は、ここにいる……」

 やがて溶け合うために、異なる世界は、現実と虚構の境が曖昧になっていく。

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