オリジン・デパーチャー#2-4

 冬壁ふゆかべがひとまず落ち着くと、夏樫なつかしはソファまで連れて行って座らせた。

 何故か成人式にでも出るかのような艶やかな緑の振袖を着た紅葉もみじが、にこにこと微笑みながら膝を折って冬壁と目を合わせてくる。

「ね、お腹空いたでしょ、好きなの言ってみて? こう見えてももみじ、名物シェフのなんだ~」


 言われて、冬壁は今更のように自分が空腹であることに気が付いた。

 しかし、食べたいものと言われても何も思いつかなかった。


「でも、それは別の世界のもみじちゃんのことでしょう? もみじちゃん」


「う、それ言わないでよさくら~、こっちのもみじだって頑張ってるんだから」


 二人の親し気なやり取りは、冬壁の泣き疲れた体と心を少しだけくすぐるようだった。

 顔を上げてそちらを見ようとすると、長い長い髪がすだれのように視界を隠す。

 それに気づいたのか、彼女は髪の隙間から目と目を合わせてきた。


「冬壁ちゃん、かわいいね~こんなに長いのにとっても綺麗な髪、羨ましいな~」


 そう言って、彼女は丁寧に冬壁の長い長い髪を手に手に掬い上げた。

 あの学校で髪を掴み、無造作に鋏を入れたいじめっ子の手つきとはまるで違ったが、それでも冬壁は体が強張るのを感じた。

 髪を触っているだけなのに、その温かさが伝わってくるような手の平を見つめていると、

 

「でも、さっきこけかけてたね。良かったらちょっとだけ切って整えてみる? 美容院で働いてるもみじもいるから、ちょっと時間くれたらもみじにも出来るよ~」


 首をやや傾げながら彼女が発した、温かいものでしかない言葉。冬壁はそれに恐る恐る触れようとして、


「やっぱり黒髪ならポニテでしょ~、それから、ツインテールもいいよねっ」


「き、る……?」


 紅葉の柔らかく温かい指が触れている髪から、凍える冷気が這い上ってきたかのように、背筋が粟立つのを冬壁は抑えられなかった。


「髪を切ってさっぱりすっぱり、心機一転! 新しい恋だって始まるかもしれないよ~」


 冬壁の様子に気づいていない紅葉が、今にも鋏を取り出すのではないかという恐怖で、冬壁は顔を逸らした。同時に、一度鎮まった『鋏』が体の奥で身じろぎしたのが分かった。


「あれ……?」

「ダメだよもみじちゃん、髪を切られることの彼女の心の傷が“絶対裁断”に結び付いてるんだから」


 首を傾げる紅葉に、咲良は瞬きしない目を向け、たしなめるように言った。


「あ~!! そうだった! ホントにごめんね、もみじってばかだから……このとーり!」


 大げさに慌てて青ざめ、強張った冬壁に向かって土下座を始める。桜色の後頭部が白い床に伏せられた。

 滑稽とすら映る彼女の姿だったが、冬壁は肩を震わせて耐えることしかできなかった。 


「ようは、切らんと冬壁ちゃんの髪をいじればええんやろ?」


 黙っていた夏樫が、黒い手袋の指先を伸ばす。

 体に刻みつけられた恐怖より先に、さっき首を守るように添えられたその感触を思い出し、冬壁はその指が髪をくぐるのを受け入れてしまっていた。

 その意味を考えるより先に――指の触れた所から、長い長い黒髪の束が、時間を巻き戻すようにゆるゆると短くなり始めた

 切り離しているのではない。ゆらりと歪まされ、折りたたまれ、極細く束ねられるようになって、いつしか膝の裏に届くほどあった長さが、背中の半ばほどまでのほどよさに変わっていく。頭の重さがあっという間に減っていくのが分かって、冬壁はその軽さに目を瞬かせた。溜まりかけていた涙が散って、目の前で土下座から顔を上げた紅葉と、ソファからこちらをじっと見つめる咲良の顔がはっきり見えた。


「歪めて束ねて、歪曲させてカットせずに髪を調整してあげたんだね。さすが小雪ちゃん」


「ふふ、もっと褒めてもええんやで~?」

「あ~、もっとかわいくなった!! これならツインテもポニテもできるねっ」


 青ざめていた紅葉の顔が明るくなる。ころころ表情の変わる人だな、と冬壁は思った。


「ほらっ、かわいいっ!」


彼女が取り出して向けてきた手鏡――そこに写る自分の顔を見るのを、少し躊躇った。

切れなかった髪の重さを抱えていた頃は鏡を覗くのもイヤだった。

 その恐れも、笑顔を向けてくれるこの人たちがいれば乗り超えられる気がした。

 

「え……?」


 見返してくる鏡の中の冬壁。

髪もそうだが、様変わりしていたのは自分の目だった。

 紅い。泣き腫らして充血しているわけではなく、黒だったはずの瞳が血のような鮮やかな紅に染まっていた。

 瞳に浮かぶ、呆然とした顔の自分。

あの日の血だまりの中から、幼い自分が助けを求めて覗き返している気がして、鏡から顔を逸らした。




 

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