シャーク・バイト

 ハイエスト・チェア社謹製のドローンが見下ろす公園は、巨大な水槽に沈んだような有様だった。おおよそ縦25メートル、横30メートルほどの敷地とその上空5メートル程度が目に見えない障壁で囲い込まれ、内部はとある『異質物』を利用した装置によって出現した液体の水によって満たされている。傍目には町中に直方体の水塊が突如出現したようにしか見えないだろう。

 この即席のアクアリウムは、ドローンを操る研究員にとっての最高の実験場かつ彼のプロジェクトのプレゼンテーションの場であった。人間を水棲生物の特性を持ったクリーチャーに変貌させる技術は、必ずやハイエスト・チェアが誇る生物兵器ビジネスに加えることが出来るだろう。

 だからこそ、ここで社に敵対する異分子の中でもあの「夏樫小雪なつかし こゆき」に次いで危険度の高い「冬壁希未ふゆかべ のぞみ」をなんとしてでも排除せねばならなかった。

 全環境対応型のドローンが水中に潜り込み、カメラモードを切り替えて見回す。

水没した公園。昼間の日光が差し込み、水底のブランコやジャングルジムを淡く照らす。被験体は、捕食対象を求めて落ち着きなく触手を動かして泳いでいる。まだ人間らしさを残した口を開き、飢えを主張するように伸ばした舌が揺れていた。

 『餌』である少女の姿はない。冬壁が遊具として設置された土管に避難させ、内部の空気を公園の海から『裁断さいだん能力』によって遮断したのだ。否応なく冬壁から始末する必要がある。

その冬壁が、おもむろに土管から飛び出してきた。剣のように構えた鋏を持って水を蹴り、被験体に向かう。

愚かしいことだ、と研究員はほくそ笑んだ。昨夜の交戦データを経てさらなる強化を施してある上、最新型戦闘特化AI搭載ドロイド『ゴリアテC3500』をも引き連れている。どこまでも直線的な戦闘しかしない冬壁を、水中というこちらにアドバンテージのある戦場で仕留めるには十分過ぎる。最高峰の画像認識技術の前では全く意味をなさない、アナログ極まる眼鏡とマスクの変装を施したままの顔面がモニターに大写しになり、研究員はその滑稽さと冬壁を片付けたことで得られるだろう評価に胸を躍らせた。

冬壁の姿を認めた被験体が滑るように忍び寄り、八本の触手で取り囲む。彼女は即座にその巨大な鋏――過去の交戦記録にある、夏樫の支援者と目される危険分子の発言によれば『絶対断裁ぜったいだんさい太刀鋏たちばさみ』――を振るうが、昨夜と違って水中の抵抗力が動きを鈍らせた。その隙に、被験体の吸盤の生えた足が鋏の二枚の刃を捉える。刃一枚につき四本の足が、万力のように固定する。

 何度も冬壁と交戦し、目的達成を阻まれてきたハイエスト・チェア社警備部の記録から、研究員は彼女の『無条件に全ての物体を切断する』“異質物いしつぶつ”の能力についてある対策を講じていた。

 冬壁が操る鋏がその絶対的な性能を発揮するのは、二枚の内側の刃で対象を挟んだ場合に限られる。外側に致命の刃はない。となれば、鋏に捉えられる前に開閉を止めてしまえばそれだけで無効化出来るのだ。

 モニター内では、鋏を掴まれた冬壁が振り払おうともがくもがくが、踏ん張ることの出来ないアクアリウムの水中では虚しい抵抗だ。強く吸い付いた足は逆に武器ごと彼女を引き寄せ始める。後は待機させておいたゴリアテC3500を使えば決着が付く。

 冬壁の白いマスクの隙間から空気の泡が漏れていく。締め上げて圧死させるか、溺死させるか、切り刻むか、胴体と脳天を撃ち抜くか……より効率的かつ冬壁を討ち取った事実を劇的に演出できる方法は何か。彼は戦闘ドロイドを忍び寄らせながら思案した。

と、冬壁が鋏を手放し、そのハンドルを思いきり蹴って上昇した。ドロイドの展開したヒート・ブレードが空振りしする。綱引きの反動で被験体がよろめき、冬壁が手を離した途端元の文房具の姿に戻った鋏が足からすり抜けて落ちる。

逃がすものか。あらかじめ施しておいた、更なる強化の信号を被験体に流し込みながらゴリアテC3500に後を追わせる。

 公園の上部、水面に顔を出した冬壁が、ジャングルジムの頂上に這い上がる。だが水を吸った着衣ではその動きは鈍い。体勢など整えさせない。力を増した被験体が水面からその頭を飛び出させる。

 その顔面――先ほどまで人間の特徴を残していた――は大きく変形していた。口部は蛸そのものとなり、突き出した先端が枝の上の彼女を向く。

 立ち上がりかけた冬壁に向かって、被験体は勢いよく墨を噴射した。冬壁の白いシルエットが、直撃を受けて黒く塗り潰され動かなくなった。

視界を封じたと見て、研究員は即座にドロイドに砲撃を命じた。

 ゴリアテC3500の腕の砲口から小型電磁誘導弾が撃ち出され、黒く染まった冬壁を射抜く――

『なんだと』

 彼は驚愕した。弾丸の貫通した黒い人型が、音を立てて水面に叩きつけられる。

 しかしその水しぶきは予想より小さく、墨に塗れたセーラー服の上下、眼鏡、マスク、そして冬壁の身長程度の大きさの黒い鋏がゆっくりと沈んでいく。

『変わり身、だと――!?』

 抱く感情を激怒に変えながら、水面を素早く走査する。複数のセンサーが結果を返してくる直前、彼はモニター越しに水底に滲む白い影に注意を引かれた。

 反射的にドロイドに攻撃指示を飛ばしてから、はたと水中の屈折率に思い至り、計測値の表示に目を移したのが致命的な隙だった。

 モニターを覆いつくすように、黒い刃が広がった。

狙いすまして放たれた鋏の一撃が、獲物を捕らえる鮫のあぎとのように研究員のドローンを噛み砕いていた。小気味良い破砕音が、高性能な集音装置の最後の仕事として届けられる。

 ハイエスト・チェア社研究開発部でも優秀と評される彼の頭脳は何が起きたか僅かに遅れて理解した。冬壁が顔を隠す変装と水中では枷となる着衣のまま臨んでいたのは全てこのため。衣装を鋏に着せ、囮にしたて、自身はジャングルジムの隙間を利用して水中の死角に滑り込み、先ほど投棄した鋏を回収して――水底から、この場における司令塔であったドローンを撃墜したのだ。

「おのれ……」

 ブラックアウトしたモニターを叩き割りながら、研究員は食いしばった歯の間からうなり声を漏らした。

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