あの日のぼくとSL

 僕の生まれた町には、電車がなかった。

 JRの駅から乗れる、1両だけのそれは架線から電気を取ってモーターを動かすものではなく、ディーゼルエンジンで動く車両だった。

「ねえねえ電車に早く乗ろうよ」

ぼくら家族はみんなそれを昔から電車と呼んでいた。だから都会の大学にいってから、鉄道に詳しいという友達に、

「お前の地元のは電車じゃねえよ、機関車」

と言われたときはショックだった。

 駅員のいない駅、本数が少なくまばらな時刻表。

 そんな鉄道の線路が伸びる傍らに、ぼくらのSLがあった。

 C0556。1969年まで50年近く県内を走り続け、その後蒸気機関車から今のディーゼルになったとき、そのSLは公園の一角に展示されることになった。これは大きくなってスマートフォンを買ってもらってから調べたことだ。

 公園の芝生の上に短い線路が敷かれていて、昔の駅舎を再現した建物があって、SLはそこに納まっていた。子どもが少ない田舎ではあったけど、この町の男の子はみんな小さい頃に一度はそこで遊んだことがあるといっても過言ではないだろう。

 ぼくもそこで同じ幼稚園の友達とよく遊んでいた。SLのあちこちからよじ登ったり、乗客役と駅員役に分かれて駅舎の中で落ち葉の切符を改めたりもした。何より楽しかったのは運転台に立ってSLを発車させる遊びだ。石炭車から石炭を掬ってかまどに放り込む役もあったけれど、やっぱりいちばんみんながやりたがったのはSLを動かす運転士だった。

 夏休みが近づくあの頃、ぼくたちはSLの乗るレールを頭の中でどんどん伸ばして、どこへでもSLを走らせた。煙突からは虹色の煙がもくもくと出て、高らかに汽笛を鳴らして、どっしりと重い鉄の車体がゆっくりと、でも力強く動き出して風を切って走っていった。ここじゃない町、沖縄から北海道まで、海を越えてハワイにもブラジルにも、北極から南極まで、どこへでもSLは行けた。

5時の放送が鳴るまで、ぼくたちは魔法の蒸気機関車の運転士で車掌で駅員だった。想像の線路の中で、ぼくたちはきっと同じきらきら光る世界を見ていた。

 明日から夏休みが始まるという日。いつものようにSLの駅の前にいったのに、そこにはまだ誰もいなかった。

 みんなが集まってくるのを待ちながら、いつもなら交代するのが待ち遠しい運転台に一人で立ってみたけれど、SLを独り占めしているわくわくは感じられなくて。

 いつもなら頭の中を通してどこまでも広がる風景がSLの右と左に流れていくのに、そのとき見えるのはぜんぜん動かない公園の、じりじりと暑い景色だけだった。

 肩を落としたぼくは、公園の横の、四角いディーゼルのワンマン列車が本物の駅からのろのろと出ていく音をぼんやりと聞いていた。それが遠ざかると、セミのうるさい声だけがぼくを取り囲んだ。

 運転台の中に眩しいオレンジ色が入ってきた。ずっと立っていて疲れた足でプラットホームに戻り、改札をくぐって、よろよろと駅の出入り口から出た。やっぱり誰もいなくて、

夕焼けの中で杉の木が長く影を伸ばしていた。

 セミの合唱の向こう、近くの小学校のスピーカーから、5時の放送が――ひび割れた「新世界より」のメロディが流れてきた。帰らなきゃ。頭では分かっていたけど、体から力が抜けてしまって、ぼくは尻餅をつくみたいにSLの駅の階段に座り込んだ。俯くと、小さなぼくの頭の影がぽつんとコンクリートの階段に浮かんでいる。

「――坊や、おうちに帰らんでええんか?」

 花瓶を割ってしまっておかあさんに声をかけられたときのように、ぼくはびくんと震えた。

 慌てて立ち上がると、SL駅の屋根の上に女の人が立っていた。綺麗な人だった。

 眩しい夕日に照らされてもはっきり分かる白い髪が揺れて、黒い二つの目がからかうようにぼくを見ている。夏なのに真っ黒な長そでのパーカーと、これも真っ黒な長ズボン。

「おねえさん、だあれ?」

 ぼくは思わずそう聞いていた。白い髪と黒い服のその人は、ぼくの言葉の何がおかしかったのか、くすくすと笑った。

「おねーさん、ふふ、おねーさんかあ。おねーさんはなあ。なつかしさん、や」

 おねーさんの……”なつかしさん”のその笑った顔がとてもキレイで、ぼくはみとれていた。

 

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