キリトリトラベル オリジン・デパーチャー

オリジン・デパーチャー#1-1

「んで、ウチと冬壁ちゃんがなんでいっしょにおるかって? そらウチらが運命の相手やから、や」

「あはは、えっぐい目ぇで見るやんか。ほんまのことを言え? 分かった分かった、ここのお代奢ってくれる分はしゃぺるわ」

「ウチが冬壁ちゃんと初めて会ったんは、んーとどんくらい前やったかなあ。あん頃からもういとーしゅうて敵わん子ぉやったわ」

「めっちゃ髪長くてキレイやったなあ、ふだん全然髪切ってへんからとにかく長いんよ」

「ん、なんで髪切ってへんのかって? それはなあ……」


 冬壁ふゆかべ希未のぞみという少女の悩みの種は、その腰まで届く長い髪だった。重いし洗うにも朝支度するにも手間取るし、いいことはなにもない。

 にもかかわらず彼女が滅多に髪を切らないのは理由があった。切りに行かないのではなく、切れなかったのだ。

 後ろから髪を手に取って髪に鋏を入れられると――あのおぞましい夜を思い出して、嘔吐してしまうから。

 鋏という刃物を見ると浮かぶのは、アンモニアと血の臭い、据えた吐瀉物の臭い。


 

 その部屋で目を覚ました冬壁が真っ先に見たものは、シミとカビだらけの畳に落ちる細くて黒い束。切り取られた髪の毛。

 小学二年生の夏、夏休みに入る前だった。直前に何をしていたかは記憶にない。ただ、一緒に下校するグループの子どもたちも一緒に誘拐され、重く湿った薄暗い部屋の中に転がされていた。困惑して声を出そうとして、口にガムテープが張られていて、手足にローブがかけられていることに気が付いた。

声も出せずに凍り付く幼い冬壁。じゃきり、と金属の擦れあう音がして、首を巡らしてその方向を見た。

 締め切られたカーテンの前、自分と同じように縛られた男の子の一人が座らされ、塞がれた悲鳴を漏らしていた。子どもらしいつややかな頬に後から後から涙の筋が伝う。その背後から枯れ枝のような腕の先が伸び、汚れて鈍く光る鋏が握られている。

 じゃき、とその鋏が開閉し、子どもの髪の毛が一束畳に落ちる。

 腕の持ち主は、毎日髭を剃ってスーツを着て仕事に行く冬壁の父親のような整った身なりをしていた。

 その男は、「知らない人について行ってはいけない」と学校で言われて想像していたような怪しい顔ではなく、一度だけ授業参観で見たことのあるクラスメイトのお父さんと同じ顔をしていた。

 顔が同じだけの別人なんだ、と冬壁は思った。なぜなら、参観日のときにクラスメイトの頭を撫でていた笑顔とは似ても似つかない表情をしていたから。

 頬はゆるんでいるが笑ってはおらず、ぽかんと開いた唇の端からねばねばした涎が垂れていた。目は血走って、子どもの頭、髪の毛を凝視している。

 じゃきり。また髪が落ちた。男の子がびくりと小さな体を震わせる。その頭は無造作、好き勝手に切り取られてむちゃくちゃになっていた。じくざくに線を描いたり、ところどころ不自然な位置から地肌が覗いたりしている。子ども心にも、目の前で行われている行為がまともな散髪などではないことは分かった。

 鋏を動かしながら、男は震えていた。自分が髪を切り取っている子どもが怯えて震えているのとは違って、楽しそうに――後から思い出してぞっとしたが――興奮して気持ちよさそうに、鋏を動かしていた。よだれと一緒に荒い息を吐き出す。

 じゃきり。髪の毛がまた落ち、畳の上に散らばる。

 くぐもった嗚咽を漏らす男の子の視線は一点に釘付けになっていた。

 体をよじってそちらを見て、冬壁は全身の血の気が引いた。そこには極端に髪を短く切り取られた子ども達が何人も壊れた人形のように横たわっていた。見開かれた目、叫んでいるような開いた口。一様に恐怖が張り付いた顔で固まっていて、不自然に曲がった首や手足からは黒ずんだ血の跡が伸びている。


「ずいぶん、いい頭になってきたじゃないか……」


 規則正しく鋏を動かしていた手が突然止まった。湿って熱を持った言葉。男は爛々と目を光らせながら、立ち上がって男の子の前に周り、彼の首を片手で押さえつけた。

 そして、髪の切れ端が残る鋏をその細く白い首に突き刺す。

口を塞ぐテープを貫いた悲鳴が耳をつんざいて、冬壁はしばらくの間意識を失った。

 次に意識が戻ると子どもだったものの数が増えていて、男が目の前に立ち、自分を見下ろしていた。僅かな灯りを背にして顔は見えないはずなのに、粘っこく絡みつく視線が自分を見ていることが確かに分かって冬壁の体を強張らせた。

 男は荒い呼吸を続けながら、冬壁を起こして座らせた。ねっとりした息が首筋にかかり冬壁は背中が粟立つのを感じた。男の体温から逃れようと俯いて下を見ると、おびただしい量の髪と、十数本の血まみれの鋏が散らばっている。


「さあ、君の番だよ、ノゾミちゃん……ずっと、ずうっと君のことぉ切りたかったんだあ……」


 優しく声を掛けて――少なくとも男の中ではそう思っていたに違いない――冬壁に、鋏を見せた。まだ使っていないらしくぴかぴかだ。


「とびっきり切れ味のいい鋏だよ。綺麗に、丁寧に切ってあげるからね……」


 恍惚とした調子で言うと、誘拐犯は恭しくその鋏の刃を冬壁の髪にくぐらせた。髪とこめかみの肌の間に走る冷たい硬さがざくり、と音を立てて嚙み合わさり、黒い筋が目の端で落下する。ねちっこい鼻息が首筋にかかる。

 切られた。きられた。

 髪を切られた、それだけのはずなのに気持ち悪さが抑えられなくて冬壁はその日食べた給食を吐き出した。貼られたガムテープがそれを押しとどめ、口のなかいっぱいにすっぱいどろどろが溢れ息が詰まる。


「だめだよ……我慢しないと、気持ちよくなれないよ……」


 男は冬壁の顔を覗き込む。黒い髪の切れ端のくっついた手を伸ばし、滲んだ涙を指に取り、口に含む。その表情に浮かぶ愉悦が、突然驚愕に変わった。

 変質者の正面、背後。ガラスが派手に割れる音がして、何かが飛び込んでくる。


「ようやく見つけた。貴方がこの世界でおぞましい行為を繰り返している犯人ね!

大人しく“異質物”を放棄しなさい!」


 甲高い声は正義感に溢れていて――まるでテレビやマンガに出てくる女児向けキャラクターのヒーローのようだった。残念ながら、冬壁はそう言ってのけた彼女の顔を知らない。窓とカーテンがなくなって急に眩しくなっていたし、なによりその後見た表情しか覚えていないから。


「なんだ貴様は!? なんでだ! 何の権利があってわたしの最高の時間を邪魔する」


 始終猫撫で声だった男が突然激昂し、大声で罵詈雑言を並べたてた。その口から飛んだ唾が冬壁にかかる。嫌悪感で身を引くと、体を縛っていた縄が落ちた。一瞬で切断されていた。


「そう言う貴方には、こんな小さな子たちの命と魂を弄ぶ権利があるのかしら!?」


 男から遮るように冬壁の前に立った声の主は背が高くて、ケープがついた明るい赤色の衣装に身を包んで、すらりと伸びる長剣を携えていた。そう、まるでヒーローのように。

 変質者は立ち上がると手にしていた鋏を振り回して飛び掛かった。剣を構えた少女がそれを受け止める。

 二人が刃物をぶつけ合う様は目まぐるしく、冬壁は後になっても具体的には思いだせなかった。

 だが、赤い服の少女の手元で剣が稲妻のように閃くと、痩せこけた男は壁に叩きつけられ気を失った。その手から転がった鋏を長剣の先が救いあげ、彼女が左手で受け止めた。


「これが、鋏の“異質物”、“裁断”……よりにもよってこんな小さな子たちを」


 無残な死体を見渡した彼女は、自由になってなおも硬直している冬壁に目を止めると剣を鞘に納めてにっこりとほほ笑んだ。


「さあ、もう大丈夫。あなたはおうちに帰れるわ」

「……ほんと?」


 幼い自分の声はかすれていたが、とても純粋だった。


「ええ、本当よ」


 頭を撫でられ、ようやく自分がまだ生きていることが分かって、喉の奥がきゅうっとなってまた涙が出た。

 本格的に泣き出す前に、赤い服の少女は冬壁をそのアパートの一室から連れ出した。

 地獄のような部屋から一歩そよ風の吹く外に踏み出すと――どこにでもある、古いアパートの二階、その錆びた柵の向こうに沈みかけた夕日。どこからか魚の焼ける匂いがして、少し離れた幹線道路から車の音が聞こえていた。


「あの……おねえちゃんは、どうしてあのおじさんに勝てたの?」


 軋む階段で手を引かれながら、自分がそう尋ねたことを冬壁は覚えている。


「え? うーん、それはね、ちょっと複雑なんだけど……」


 彼女を見上げたが、西日のせいで顔はよく見えなかった。少女のほがらかな声だけは忘れなかった。


「この鋏みたいにね、危険なものってこの世界には実はいっぱいあるの。わたしの剣だって、簡単に人を傷つけられる」


 その話の本当の意味を知るのは、ずっと後になってから。

 階段をもう一段、降りる。


「でも、よおく気をつけて、あの男みたいに悪さをする人から誰かを守ったり、助けたりすることに使えば、この剣はわたしに応えてくれるの」


 さらに一段、階段を下りる。


「だれかを、たすける……」

「うん、大切な人を守れるようにね」


 階段をさらに降りる。もう少しで下に着く。


「じゃあ、おねえちゃんはどうしてあたしをたすけてくれたの?」

「え?」

「おねえちゃんにとってあたしはしらないこでしょ?」


 後一段で地面だ。


「うーん、それはね……」


 彼女がなんと言ったのか――言おうとしたのか、冬壁には分からない。

 足を最後の階段から離して、

 途端――ぐるりと世界が回転した。

 夕日に照らされたアパートの出口が掻き消えて、冬壁はぐにゃりと柔らかいものを踏みつけたせいで倒れた。

 髪を無残に切り裂かれ、首から血を流して横たわる小さな亡骸の中に自分がいることに気づいて叫んだ口の中に濃厚な血の味が流れ込む。

 シミとカビと黒ずんだ血。散らばった髪の毛。壊れた窓を背に、男が立っていた。「前ならえ」をするように腕を突き出して、歯をむき出しにして嗤っている。


「ざまあみろ……芸術の邪魔をするからこうなるんだ、ヒーロー気取りめっ……!」


 どうして一瞬で自分が鋏の男の部屋に連れ戻されたのか、まったく分からず混乱する。

――そうだ、おねえちゃん。

 彼女なら、また助けてくれる――だが、顔を上げると真っ赤な血が飛んできて顔に浴びせ掛けられた。

 そう、重要なのは剣の少女の腕の断面から噴き出した血が冬壁にかかったこと。

 男の両腕が、おぞましく変形していた――むき出しになり、鋭く伸びた骨が刃になり、交差して鋏のような形を作り、

 その刃が少女の左腕を肩口から切り落としていた。


「おねえちゃん!?」

「どうして……!? 異質物は確かに回収したのに……」


 くずれ落ち、痛みに震えながら、少女は残った腕で左腰の剣を抜こうとしていたが力が入っていない。


「アッハ! きっと神のおぼしめしだ! これは返してもらおう」


 男は血だまりの中から、切断した手が握った鋏を拾い上げる――その腕はもう人間のものに戻っていた。


「きみは無粋だ、髪を切る価値もない!」


 取り戻した鋏を一閃する――少女の喉が深く切り裂かれた。

 衝撃を受けたように固まったが、ようやく抜いた剣を彼女は振りかぶって投げつけた。男は鋏を取り落とした。


「おねえ、ちゃ……」


 ぬるぬるする畳の上を這って近づき、冬壁はヒーローの残骸ざんがいを見下ろした。

 仰々しいセリフを並べて、正義の味方のような顔をして飛び込んできたクセに、冬壁の頭を撫でて安心させるように笑ったクセに、やさしく冬壁に語りかけてきたくせに。

彼女は冬壁の足元に無様に転がっていて、すでに汚れきった畳の上に真っ赤な水たまりを広げていた。


「ッ、かひゅ、ごぼっ」


 彼女は口を開いたが、かすれた空気と新鮮な血液の塊が出てくるだけだった。

 残った一本の腕が伸び、冬壁の足を掴む。その恐ろしいほどの力に、冬壁はぞっとして振り払おうとしたが、微動だにしなかった。逃がさない、とでも言うように。


「おねえちゃん……!?」


 見下ろした少女の顔は何かを言おうとしていたが、唇の端から血のあぶくが出るだけだった。

 そして激痛と絶望に彩られた顔で、そのままこと切れた。なんて勝手なのだろう。

冬壁の幼い心のどこかが、熱を亡くしてそう呟いた。

 少女が投げた剣が、鋏と咬み合って転がっていた。その向こうでは、片手を抑えた男が肩で息をしている。ぎらぎらと光る目玉が、少女の亡骸から冬壁に向けられた。

 逃げないと。だが、掴まれた足首が痺れてうごけない。


「はあ、っはああ……もう、我慢できない……」


 全身に浴びた血の匂いに興奮しているのか、男はじりじりと距離を詰めてくる。

絡み合った二つの刃物が目に入り、冬壁は倒れ込むように飛びついた。少女が持っていた剣を持ち上げようとして重さで手を放してしまい、とっさに鋏を掴んだ。

男は訝し気に冬壁を見る。震える両手で鋏を握り、切っ先を男に向けていた。先ほどの勇ましかった少女の真似事。それをせせら笑うと、熊のように雄たけびを上げて冬壁を抑え込んだ。血でぬめる畳の上で、節くれだった手が首を掴んで絞め上げる。苦しいのに息が吸えない。息が吸えなくてくるしい。もがきながら、手に持った鋏を振り回す。何度か空を切り、首はさらに絞められて。

無様に死んだ少女みたいに、殺されてしまう。そう思ったとき、押し付けられている背中がずるりと滑った。男が横倒しになり、冬壁の首にかけていた手が緩む。その拍子に、手にした鋏が相手の首を捉えた。

今しかない、と思った。その刃は頸動脈を刃先に捉えていた。冬壁はそれが殺すこと――自分の手で相手の命を奪うことだ、なんて考えもせずに、力を思いきり込めて鋏を閉じた。

あっけないほどに入り込んだ刃。噴水のように男の血が飛び出し、冬壁の全身を濡らしていく。見開かれたままの男の目玉に映り込んだ自分はぽかんと口を開けてへたれこんでいる。急に静かになった。野太い断末魔が止んでいた。

ぴくりとも動かない変質者の体をぼんやり見つめて、どのぐらい経ったのだろう。気が付くと、いつの間にか部屋に入ってきた制服の警官たちが、冬壁の手を開かせて鋏を取り外していた。乾いた血液が剥がれていくのを、不思議な気持ちで眺めていた。

 

 

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