オリジン・デパーチャー#1-2
それから、髪が切れなくなった。
清潔な白い床を汚すように散らばる切られた髪の毛は、あの男の部屋の床を。鋏を髪に当てられる感触はあの男の行為を想起させ、それまで通っていた店で嘔吐してしまった。どこの美容院でも発作が止まらなかった。
伸び放題の髪は目立った。
相変わらず店で散髪することは出来ず、病院で特別に処方された睡眠薬で眠っている間に切ってもらうことが多かった。後遺症と言えるものはもう一つあった。ハサミを握れなくなったことだ。図工の時間、お道具箱の先の丸まったハサミを目にしただけでめまいがした。持ち手に指を通そうものなら指先にあの男の血管を切った感触が生々しく蘇り、気が付くと保健室で横になっていた。
幸いにも小学生の間は、ハサミを使わなくても乗り切ることが出来た。
刃物を使わなくても紙を切る方法を教えてくれた子がいたから。
「これ! ものさしで押さえたらハサミなしで切れるよ!」
「えっと、ありがとう、えっと……」
「***だよ、よろしくね」
「うん……***さん」
おそらく微笑みかけてくれただろう彼女の顔と名前を、冬壁はもう忘れてしまった。
ある程度親しくしても、彼女がどこか違う学校へ進学してしまうことを、どこかで予感していたのかも知れない。
あるいはどこかで彼女も冬壁の過去を噂にでも知り、距離を置かれてしまったのかも知れない。いずれにせよ小学校を卒業する年になると、冬壁の傍にはその同級生の笑顔はなかった。
中学生に上がってから、ハサミを使わず手でぎこちなく紙をちぎる冬壁を、周囲は奇異の目で見ていた。また前の繰り返しになるのかも知れない。そう思うと誰とも親しくなれなかった。
それでもなんとか表面上は新しいクラスメイトに向かって無害な大人しいだけの転校生を装い、中学生に上がったころ――
大手動画サイトに一本の動画が投稿された。冬壁はその内容を、ニヤニヤとこちらにスマホを向ける女子生徒から知らされた。取り巻きを引き連れる不良だった。
軽薄な口調が赤裸々な真実を告げていた。転校で離れたはずの過去が、誰でも片手間で知れる形でそこにあった。
猟奇的な変質者による児童誘拐と殺人。それを逆に殺した少女。
あの変質殺人鬼が冬壁の同級生の父親であったこと。家庭を持ち仕事も充実していた彼は、一方で幼い子どもたちを誘拐・監禁しその体を切り刻むことに暗い情熱を捧げていたこと。
動画の声は殺人鬼よりも、少女こそが本当の怪物であると煽情的に語っていた。その声は、一度自分を映そうと上がり込んできた若者のものだった。
「この女の子って、あんたでしょ? 冬壁」
笑う彼女を前に、冬壁は足元が底のない暗闇に沈みこんでいくような錯覚を覚えた。
「……だったら、なに」
捨て鉢な言葉を出していた。どうせもう、ヒーロー気取りのおねえちゃんは助けに来てくれない。
「みんなにこの動画のことバラしたら、どうなるかなー? きっとコワいよねー、だってぇー、おっとなしいゆーとーせーの顔したバケモンがこの学校にいるんだもんねー」
「バラされたくなかったらぁー、わかるよねー?」
手で金を示すジェスチャーを作り、厚いメイクの顔を寄せてくる。
リーダー格の生徒は語った。
あの変質殺人鬼が冬壁の同級生の父親であったこと。家庭を持ち仕事も充実していた彼は、一方で幼い子どもたちを誘拐・監禁しその体を切り刻むことに暗い情熱を捧げていたこと。それから、毎週冬壁に持ってくるべき金額を指定してきた。
その日、母親にいじめのことを、動画のことを打ち明けた冬壁は後悔した。
事件のことを口に出した途端、母親の顔が強張り、二度と冬壁と目を合わせてくれなかったからだ。そして、いじめのリーダーから指定された枚数の紙幣を押し付けてきた。
母は引き結んだ口から耐えかねるように、事件のことを知り、冬壁や両親に強引に近づき動画を撮ろうとする輩が何度も自宅を訪れたこと、それが夫婦にとってどれだけ苦痛だったかを零した。
冬壁は母に何か言おうとした。けれど自分の舌に血の味が蘇り、何も言えなかった。
翌日、冬壁は再び取り囲まれ、母が押し付けてきた札を取り上げられていた。
「なぁに、生意気にこっち睨んでくれちゃってるワケ?」
冬壁を見下ろしながら、リーダーはブレザーのポケットから鋏を――刃先が丸まり、ピンクのプラスチックのハンドルがついたものを――取り出し、見せつけるように開閉させてみせた。
思わず体を強ばらせたのに気づくと、取り巻きが冬壁の腕を左右から押さえ、リーダーが鼻先に鋏を近づける。
「ほーら、冬壁の大好きなハサミだよ~」
じゃき、じゃき、と耳障りな音を耳元で響かせる。
胃の底からわき上がる吐き気と手足の震えを、冬壁は必死にこらえようとした。ここで泣きわめき、吐瀉物をぶちまけてしまえば、こんな奴らを喜ばせるだけだと思ったから。
けれど目に浮かぶ涙だけはどうしようもなく、鋏を突きつけてくる姿が滲んだ。
「もう泣きそうじゃん~ねえ、動画撮って」
指示された取り巻きがスマホを取り出し、冬壁にレンズを向ける。
録画したものを、どう使うのかは想像がついた。
「ねえねえ冬壁、その伸びっぱなしの髪、切ってあげるよ」
突き出してきた鋏が、目元を隠してくれていた前髪を無造作に噛み、わざとジグザグに、切り取られる。
極限の不快と恐怖が背筋を撫でる。あの日、あの男と同じ。
露わになった冬壁の目は瞬きもせずに目の前の鋏を見つめていた。
「もっと面白いリアクションしてよ。ああ、そうだ」
良いアイデア、とばかりにリーダーは冬壁の冷え切った右手を取って自分の鋏を握らせようとした。
「ほらほら、冬壁がハサミ持ってるとこ、見たいなあ」
「……やめてっ……」
弱々しく首を振るが、力が入らず取り巻きの腕から逃れられない。
「じゃあ持たせちゃうよ~」
人差し指にハンドルの輪をかけさせられ、その上から握り潰すように手を閉じさせられる。
こらえきれず吐いてしまう、と思い目を閉じた。
「あはは、ほら吐いちゃえ吐いちゃ……え」
耳障りな笑い声が途切れたと思うと、ぼとりと何かが床に落ちた音がした。
取り巻き二人の悲鳴が聞こえ、目を開けると、リーダーが右腕の手首から先を押さえていた。足下に、五本の指を広げた手が転がっている。
「え、なに、どうして……? 血が……手が……」
「うそ、なに……!?」
パニックを起こしたリーダーの押さえた手から溢れる鮮血を見て、撮影を担当していた一人がスマホを冬壁から血だまりへと反らした。
冬壁は虐められる自分を映したその動画を不快に感じた。途端、そのスマホがまっぷたつになる。
「す、スマホが……」
彼女たちは、さっきまで圧倒的優位から見下していた冬壁を青ざめた顔で見る。
冬壁は冷え切って震える体の奥底から、得体の知れない熱と活力が沸いてくるのを感じた。
その何かは心臓から血管を通って気味悪く脈打ち、割れるような頭痛をもたらした。
「なに……なんなの……」
痛みと熱と寒気に支配された中で、頭を押さえようとして、冬壁は右手にまだピンク色の持ち手の鋏を握っていることに気がついた。
切り取られたばかりの黒い黒い髪の切れ端がその鈍い刃に絡まっている、その黒が増殖し、膨らみ、墨のように流れて持ち手の安いピンクが、鈍い鉄色が、見る見る黒く染めていく。
「冬壁……? あんたが、なにかしたの?」
鋏、すなわち切断する器具=幼い冬壁の使った凶器。
その場にいた人間がそう連想するのは、自然だったかも知れない。
「ちがう……」
だってそんなはずないではないか。あのとき男の首を貫いたのはただの偶然だった。これはただの文房具で、しかも直接触れてもいない、人間の腕なんてものを切り落とせるはずがない。
「あ、ひいっ!」
否定したはずなのに、冬壁の左腕を押さえていた取り巻きの指が関節ごとに切断されて転がった。まるっこい指だった。ぶつ切りにしたソーセージみたい。
トマトジュースのような返り血が冬壁の制服を汚す――
「違う、ちがう!」
返り血なんかじゃない、だってわたしはやってない。わたしのせいじゃない。
いやいやをするように首を振る、リーダーのニーソックスの脚が二本とも、同じ高さですっぱり切れてその上に載っていた体が赤いお池に着地。
脚はそのまま突っ立っている。マネキンの出来損ない。愉快。
「冬壁ぇ……もうやめて、謝るから……」
「ちがうって、いってるでしょ!」
謝る? やめる?何をいっているのだ、この虐めの女王さまは? わたしがなにを許す?何を許さない?
「ちがう……わたしじゃない……」
「あんたの他に、誰がいるのよ!」
そう叫ぶ女の声が、うるさい。そう思ったのは間違いなく冬壁で、リーダー格の少女の舌が切断された。
ごぼっと何かが詰まる音、閉じた口から溢れる赤だけで、彼女の舌が切れたのが何故分かる? 切断した、と?
「違う……」
否定を否定するように、右手に握った鋏は黒く黒く、刃は長く長く変貌していた。
「ちがう……こんなのわたしじゃない……!」
右手に貼り付いた醜悪な鋏を振り回して、自分自身が起こした何かを否定しようとした。
振った勢いでこぼれる黒いつぶて、その一つひとつが黒い鋏を形作り、宙を飛んで三人の獲物に襲いかかる。
三匹はもはや声もなくなすがままだった。黒いくちばしで噛みつく鋏が、その頭髪を千切り、貪欲に食い散らかす。女の命が髪なら、鋏たちのこれは虐殺。
冬壁はただひとり、身長を上回るほどの鋏を片手にぶら下げ、自分の中から解き放たれた「何か」の行いを見渡した。
丸く広がる血、散乱する髪の毛の切れ端、転がる人肉。
「こんなの、」
あの男と同じだ。わたしは、あの男とおんなじことをしている――
いやだ、いやだいやだ。気持ち悪い、きもちわるい、きもちわるいきもちわるいきもちわるい、
わたしはあの男と同じことをしている、わたしとあの男が同じなんていやだ。
あの男とおなじなんていやだ、きもちわるい、きもちわるい、きもちいい、いいやきもちわるい。きもちわるい、きもちいい。きもちいい、きもちいいい。
無力でなすすべもなく、あのおとこのしたことのせいでなにもかも台無しにされたわたしが、いま得体のしれない圧倒的な力で、わたしを踏みにじった奴らにあの男と同じことをしている。
わたしは今、あの男と同じことをしている――!
頭を貫く衝撃は、少なからず背徳の悦楽を帯びていた。そして同時に、凄まじい程の自己嫌悪が体を浸した。
今度こそ冬壁は吐いた。膝を折り、みっともなく嘔吐して、涙も溢れるままにして、自分の中の狂気を、妖しい熱を、不快な相手を切り裂いた力を、それに快楽を感じた自分を、自分の中から追い出そうとした。
いやだ、こんなのはいやだ。わたしはきもちわるい、あの男がきもちわるい。きもちわるいことをきもちいいと感じたわたしが嫌いだ。
やがて吐き出すものがなくなってもなお、冬壁は自分を自分から吐き出そうとした。
でも、もう口からは涎のひとつも出て行かなかった。
こんなわたし、こんな世界、もうイヤだ。いらない。切り捨ててなくなってしまえばいい。
巨大な鋏にそう、叩きつけるように祈る。
ざくり、と切断が起きた。
広がる酸鼻な風景が、上下に切断され、そのクレバスの間に冬壁は滑り落ちる。
転校してきた学校、町、引っ越した家、引っ越す前の家、逃げ出してきた教室、警察の部屋、病院の白い壁、万華鏡みたいに次々と目の前に広がっては黒く切り取られ切り落とされ//切り刻まれ/切り抜かれ=切断されていく。
バラバラになった世界の中を、冬壁は落ちていった。
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