第8話 掃除開始!
「負けた」
神宮寺さんは床に手と膝をついて、ずーんと落ち込んでいる。きっと漫画だったら、縦に効果線が入っているだろう。
仕事をしているときの神宮寺さんは違うのだろうけど、普段の彼女はなんというか感情表現がオーバーなようだ。見ていて面白い。
ママになることを了承し、お金はいらないと言った瞬間、神宮寺さんがクワッと目を開いて、絶対にお金は払うと主張してきた。
あの手この手で説得してきて、凄い迫力だったと思う。
優秀な社会人としての姿を垣間見た気がする。
でも最終的には僕の言い分が通り、神宮寺さんは分かりやすく落ち込んでいた。
僕と神宮寺さんの交渉力は雲泥の差がある。まともにやれば神宮寺さんの言い分が通るだろう。
でも今回は立場的に僕が圧倒的に優位だったので、なんとか勝てた次第だ。
賃金をもらってしまうと責任が生じてしまう、という意見が決め手だったらしい。
賃金をもらわなくても僕は責任をもってママになるつもりだから、本心の言葉ではないけれど、まぁ嘘も方便というやつだろう。
「改めて、よろしくね。他人行儀もあれだし、桜子って呼んで」
「分かりました。よろしくお願いします、桜子さん」
「私ははじめくん……いや、やっぱりママの方がいいかな」
「何かの拍子に聞かれても不味い気がしますし、はじめでお願いします」
「そう……ね。少し残念だけど仕方ないか。でも時々はママって呼んでもいい? というより、つい呼んじゃうときもあると思う」
「いいですよ」
さすがに誰かが見ているときは嫌だけど、2人のときにママと呼ばれる分には、必要とされている感じがしてむしろ嬉しいかもしれない。
しかし、ママか。
ママになると請け負ったけれど、ママの定義というのはよく分からなかった。
「桜子さんがどういうものをママだと想像しているかは分からないですが、僕なりにやらせてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろん。全部はじめくんにまかせるね。必要なものがあったら何でも言ってね。お金のことは気にしないでいいから」
「分かりました」
目をとじて、集中する。
最初にやるべきことは明確だ。とても困難な作業であることは間違いない。
己に活を入れて、目を見開いて宣言した。
「この部屋を掃除します!」
◆
一応、桜子さんに部屋の掃除を手伝ってもらう予定だった。
でも僕は彼女のダメ人間ぶりを甘くみていたかもしれない。
非常に邪魔だった。
僕は方針を換えて、まずは一人で掃除することにした。
最終的に桜子さんの判断が必要なところは出てくるけれど、それ以外の部分は僕一人でやった方が早い。
「桜子さん」
「……は、はい!」
桜子さんも、自身の不甲斐なさを理解しているのだろう。
妙に僕の言葉に怯えているようだ。
「しばらく寝室にいて、ゆっくりしていてもらえますか」
「いや、でも、それは申し訳ないというか……」
「はっきり言わせてもらいますが邪魔です。桜子さんがいると余計に時間がかかります」
「でも……でもでも! 私じゃないといるかいらないか判断できないものもあると思うし……」
「まずは明らかに不要なゴミを処分する段階なので、しばらく桜子さんの判断は必要ありません」
お酒の空き缶を拾いながら、僕は寝室を指さした。
「とりあえず向こうに行っててください。寝室を掃除するときはまた呼びますから」
やるからには本気でやる。そう決めたとはいえ、少し強く言いすぎただろうか。
桜子さんはしゅんとしながら、寝室へと歩いていった。
悲しそうな後ろ姿を見て、思わず呼び止める。
「あの……少し、キツく言いすぎました。すみません」
「いいのいいの! 悪いのは私だから。それに、なんだか叱られてママぁって感じがして嬉しいの」
えへへと笑っている。
この人、結構子どもっぽいよなぁ。25歳と聞いたけど、普段のふるまいはとてもそうは見えない。
「邪魔しないようにするから、お掃除お願いします」
「はい、分かりました」
しばらく空き缶と瓶を大き目のゴミ袋に集めていたが、いっぱいになってしまった。
僕の部屋に置きに戻ろう。
「空き缶と瓶の回収日はしばらく先なので、僕の部屋で保管しておきますね」
「うぅ、面目ない……あっ! いまさら気にする面目なんてないって思ったでしょ!?」
「ごめんなさい」
「よろしい」
図星だったので素直に謝れば、満足したのかベットの上で威張っている。
楽しい人だ。
◆
リビングで掃除をしていると、神宮寺さんはやはりこちらが気になるようで、しばらくソワソワしていた。
しかし、やがて諦めて、ベッドに座って資格の勉強を始めた。
きっと仕事に活かすのだろう。仕事熱心なことだ。
集中している。掃除で発生する雑音は一切耳に入っていないのだろう。さっきまでとは全然違う。大人の女性の顔だ。
……綺麗だなぁ。
「どうしたの?」
「あ、いえ、勉強熱心だなぁと」
「これくらい当たり前だよ」
なんでもないことのように答えているけど、凄いことだと思う。
可愛らしい子どもっぽい姿。尊敬できる大人の女性の姿。桜子さんの2つの姿は、ギャップがあってすごくドキドキしてしまう。
空き缶の回収があらかた終わったから、次は散らばったものを整頓していこう。
捨てていいものか判断がつかないものは、ひとまとめにして、最後に確認すればいいだろう。
そして床のものを整理しようとしたけれど、一つ大きな問題があった。
桜子さんの下着だ。
「あの、これはさすがに僕が触るのは不味いと思うので……」
「どうして?」
「えっ?」
何が不味いの? と逆に問い返されて戸惑ってしまう。
「いや、だって、僕は男ですよ?」
「はじめくんはママだから良いの」
断言されてしまった。
ママだから当然……なのだろうか。いやまぁ、母親が娘の下着に興奮するはずもないから、桜子さんの言い分は正しいのかもしれないけど。
まぁ僕のことを信頼してくれているのだと思うことにしよう。
信頼には応えなければ!
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