第3話 泥酔した女性


 金曜日の夜中、いや、正確にはもう土曜日になっているだろうか。

 目覚まし時計を見ると午前1時を示していた。

 こんな時間になんだろうか。

 玄関の方から何かを叩くような物音がして目が覚めてしまった。

 

 幽霊……はないだろうけど、不審者かもしれない。

 オートロック付きのマンションとはいえ、不審者が出る可能性はゼロにはならない。

 

 部屋の照明を点けて、玄関へと向かう。

 恐る恐るドアスコープをのぞいてみたところ、誰もいなかった。

 だとすると、さっきの音はなんだったのだろう。

 誰かが悪戯で鳴らしてどこかへいったのか。あるいは空耳だったのだろうか。

 納得がいかないまま、念のため扉を開けた。

 

「わっ」

 

 驚きのあまり、思わず声をあげる。

 扉を開けた先に見えたのは、共用廊下にうずくまって倒れているスーツ姿の女性だった。

 

「死体……?」

 

 死体が玄関前に捨てられたのかと一瞬思ったけれど、身体がもぞもぞと動いている。

 死んではいないらしい。最悪のパターンではなかったようだ。

 とはいえ状況は別に好転はしていない。

 

「どうしよう」

 

 このまま見過ごす訳には……いかないか。

 はぁ。

 ため息が漏れてしまう。困ったものだ。

 

「あのぉ……すいませーん」


 呼びかけてみるも反応はない。

 揺すってみるか。

 女性の身体に触って大丈夫なのか少し不安だ。後でセクハラだって言われないだろうか。

 気はすすまないけれど、仕方がないだろう。


「失礼しまーす。あの、起きてください」


 うずくまっている女性の肩を揺らした。

 軽く揺らしても反応がなかったので、かなり強めの力で動かすと、女性が舌足らずの声で反応を返す。


「なにぃ?」

「ここはあなたの家じゃないですよ」

「いーや、わたしのいえだぞぉ」


 対応に困る。

 酔っぱらっているのだろう。まともに話が通じない。

 なぜか僕の部屋を自分の部屋だと思い込んでいるようだ。

 近くの部屋の住人だろうか。

 そういえば、髪型や体型は神宮寺さんに似ている気がする。

 でも彼女がこんな醜態をさらすはずもないから別人だろう。

 神宮寺さんはいつもしっかりしている。泥酔して他人に迷惑をかけたりはしない。

 反対側の1504号室は、時々すれ違ったりして面識がある。30代の男性の一人暮らしだ。

 最上階だから上はない。左右は神宮寺さんと男の人だから違う。

 とすると、直下階の1405号室の人だろうか。一度も挨拶をしていないので分からないけど、もしかしたら彼女が下の階の住人なのかもしれない。


「違います。僕の家です」

「んんー? どろぼーかぁ?」

 

 うずくまっていた女性が立ち上がろうとする。

 ふらふらしていて、危なっかしい。

 身体に力が入らないのか、生まれたての小鹿のように震えている。

 女性の顔は、長い髪に覆われて見えない。

 

「危ないで――いッ!?」


 胸倉をつかまれた。

 踏ん張りがきいておらず、女性の体重が手から僕にかかり、油断していたために後ろの玄関ドアに頭をうちつける。

 痛い。

 

 突然の痛みに混乱する。女性は謝る様子もない。

 というか僕が頭を打ったことを認識していないのかもしれない。

 依然として胸倉は掴まれたままだ。

 寝巻なので別に、服がのびても大して困りはしないけれど、さすがに離してほしい。

 文句の一つでも言おうとしたとき、女性が前に流れていた髪を、顔を上下に動かして後ろに戻す。

 そして――女性の顔が露になった。

 

「……えっ?」

 

 僕の思考がストップした。

 状況を受け入れることを頭がしばらく拒否したようだ。

 至近距離にある顔は、僕がよく見知ったものだ。

 毎朝見ていて、僕が生きがいにしていた顔だ。

 口元はだらなしなく緩んでいるし、頬は酔っぱらったせいか真っ赤になっていた。

 僕が好きだった力強かった大きな目は、眠たげに半開きで見る影もない。

 普段のキリっとした様子は一切ない。

 でも、それでも確かに神宮寺さんの顔だった。

 1か月前から毎日見てきたのだ。見間違えるはずがない。

 

「おぉ? かわいいどろぼーだぁ。おねーさんのなにをぬすみにきたのかなぁ?」

「うわぁ……」

 

 神宮寺桜子さん。

 どんな仕事をしているかは知らない。

 でもきっとバリバリのキャリアウーマンだと思っていた。一流の大手企業で敏腕をふるってそうだった。敏腕弁護士とか、美人SPとか、そんな感じも似合いそうな人だった。

 いつも仕事ができそうな雰囲気があったから、きっと優秀で、なんでもこなしてしまう完ぺきな人なんだと思っていた。

 でも……僕は見てはいけないものを見てしまっているのだろう。


「あなたの部屋はあっちですよ。ほら、あっちに1504号室って書いてありますよね」

「ん? おぉ! ほんとだ」

 

 ようやく勘違いに気がついたらしい。

 泥酔神宮寺さんは、僕をじーっと見つめてくる。

 こんな状況でもなければ、至近距離で見つめ合って、僕は動揺してしまっていただろう。

 でも呆れが勝ってしまい、何の興奮もない。


 神宮寺さんは急に神妙な顔つきになった。

 もしかして自分の間違いを認識して謝ろうとしているのだろうか。


「どんまい」


 がくっ。

 思わず力が抜けて、軽くずっこけてしまった。

 神宮寺さんから謝罪があるのかと思えば、けらけらと笑っている。

 完全にたちの悪い酔っ払いだ。


「はやく自分の部屋に入ってください」

「はーい」


 千鳥足でよろよろと隣の扉へと向かう。

 ドアノブを掴んで、扉をガチャガチャと引っ張り始めた。

 

「あかないぞー?」

「えぇ……」


 当然だ。

 鍵がかかっているのだから、開かないに決まっている。

 そんなことも分からなくなるほどに、思考能力が落ちていた。


「ぬぅ」

 

 何度か扉を開けようとしていたが、神宮寺さんは諦めてその場にへたり込んだ。

 何やら「のーん」と言いながら、顔をゆらゆらと揺らしている。

 意味が分からない。

 

 驚きばかりで疲れてしまった。

 一刻も早くこの状況から脱しないと。

 僕は神宮寺さんに尋ねた。

 

「神宮寺さん、鍵はありますか?」

「なにぃ?」

「鍵です。か・ぎ!」

「ん」

 

 鞄からキーケースを取り出して、ためらいもなく渡される。

 非常に無防備だ。女性として大丈夫なのだろうか。

 心配だけれど、今はそれどころではないだろう。

 女性の鍵を触ってしまうことに抵抗はあるけれど致し方ない。

 部屋の中を見ないように気を付けて、神宮寺さんの玄関ドアを開いた。

 

「開きましたよ。入ってください」


 今日はとんでもない一日だ。

 早く帰って布団に入り、もう一度寝よう。

 疲れた。

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