第三章その5

 それでシンガポール経由で日本に帰る間、今まで物心が付いた頃までを振り返った時に自分の器には何もない、ただ母親に手を引かれて言われるがまま仕事して自分が操り人形だったって気付いたの。

 それで沢山のものを失ったこと、このまま生きていればあたしはこれからも沢山失うことに気付いて吐き気がした。そして初めて、だけど激しく自分の生まれや運命を呪った。

 日本に帰り着いてあたしは母親に言ったの、もう仕事を辞めたい! 普通の女の子になりたい! ってね。

 でも母親は聞かなかったし、周りも許さなかった。

 今度はお父さんに相談した。お父さんは銀行で仕事して普通の家庭で育ったからかあたしを子役にすることは消極的だったの、だから味方になってくれた。

 そうしてる間にもあたしはどんどん追い詰められて行き、精神的にも不安定になって追い詰められたある日、一泡吹かせてやろうと思ったの。

 チャンスはすぐにやって来た。その日はある雑誌のグラビア撮影で、水着に着替えるように言われたの、あたしは更衣室で鞄に隠してたナイフで……自分自身の体を切り裂いたの!


 葵は白い人差し指で乳房の間から下腹部にかけてS字状に蛇を描くようになぞる。

 涼はぞっと寒気がして、彩はショッキングだったのか口元を両手で覆う、翔は真正面から受け止めるよう微かに目元が険しくなり、遥翔は幼いながら訳がわからないという青褪めた表情を見せる。

 そうか! だから葵は女子トイレで着替えていたのか、胸の傷痕を見せないために。

 

 戻って来ないあたしを呼びに、マネージャーの母親が様子を見に来た時にはあたしは血塗れで倒れて更衣室は真っ赤になってた。これであたしの商品価値が無くなる、死ぬとしても構わなかった。

 寧ろいい気味だと思った。娘を自殺に追い込んだ母親は一族の恥だと後ろ指を差される。病院に運ばれてしばらく入院になったけど、世間はあたしのことを報じなかった。

 入院中にスマホであたしのことを検索したけど、撮影中の事故による怪我で入院とだけ報道されてた。

 大方、平田家の一族が多方面に口添えしたり圧力をかけたのかもしれない。

 母親はあたしが退院して家に帰った途端に引っ叩いて笑えるほど癇癪起こしたわ! どうしてあんなことしたの? 事務所や出版社、テレビ局の多くの人達に沢山迷惑かけたのって。

 だから試しに鎌をかけてやったのよ、あたしは普通の女の子になっちゃいけないの? って訊いたら見事に引っ掛かったわ! そうよあなたが叶えないなら、私の夢を誰が叶えるの? あなたはアフリカで自分がいかに恵まれてるか学んだはずよってね。 

 それであたしの中の何かが切れて、手近にあった物を母親に投げつけたわ。

 それを合図にタガが外れたかのように暴れて、気がついた時には床は割れたお皿やコップ、ガラスが散乱してテレビやソファーとかの家具はひっくり返り、ボロボロに壊れ、あたしも両手両足は破片で切って血だらけにしてたわ。

 母親は震えながら泣きじゃくってたわ、後でお父さんから聞いたんだけどあたしは「子供の頃を返して」って、泣き叫びながら暴れてたって。

 片付けたが一段落した後、お父さんは家族会議を開いてあたしはもう芸能界と縁を切るからお父さんはそいつと離婚して、あたしはお父さんと行くって、あたしには弟がいて、その子とLINEで家の状況を聞いてたから、あたしのことで大喧嘩したことは知ってた。

 母親にとってもうあたしは母親の知ってるあたしじゃなくなったから、ただ力無く頷いたわ。

 それで表舞台に出ることがないまま、ようやく芸能界を引退して鎌倉の高校に進学して自由を得たんだけど、あたしのことはもう知られ過ぎたの。

 高校でも芸能人だったあたししか見てないから次第に――いいえ、最初から居場所なんてなかったから、それで偶然だったけどお父さんと翔さん、それに彩さんの母校がある熊本に行くことになった。

 それで丁度このマンションの部屋が空いてたからこの近くの部屋に引っ越した。

 翔さんがエーデルワイス団のことを教えてくれた時、決断したの。

 賭けてみようってそれでまた睦美と遊べるようになって、美紀や土谷君と友達になれて涼君と付き合うことができた。


「偶然の奇跡だったよ、僕と君のお父さんが細高出身だったことがね」

 翔はそう言ってすっかり冷めた紅茶を口に運ぶ、話し終えた葵は微笑んで胸を張る。

「あたし、あの時ケープタウンに行ってよかったです! そうでなかったら、あたしは今も自分を誤魔化して操り人形のままでした! あたしはこのチャンスを絶対に無駄にしたくありません!」

 無駄にしたくない、涼は兄が死んで今までどれほど時間を無駄に過ごしてきたのだろう?

 葵は以前、普通の女の子になりたいと口にしていた。僕はこの女の子に一体何が出来るんだろう? 涼は自然と思い詰めた表情になると翔が諭して精悍な笑みを見せる。

「涼君、一人で抱え込む必要はない。そうだろ? 葵ちゃん」

「はい! 涼君、今まで通りでいいよ。あたしはもう普通の女の子だから」

「うん、わかってる……わかってるさ」

 涼は頷くと、夜の八時でもう紅茶もすっかり冷めていた。


 家に帰ると、涼は早速ニヤけた母親から問い詰められた。

「遅かったじゃない涼、葵ちゃんのご両親にご挨拶してきたの?」

「ううん、草原さんの……恩人に会ってきた」

 涼はそれだけ言って部屋に戻って制服から部屋着に着替えると、上着のポケットから兄のロケットペンダントを取り出して開けると、兄の遺影を見つめる。

 しばし考え事をした後、閉じて何をするべきかを決めて兄さんがよく話していた人のことを思い出した。

 ロケットペンダントを閉じる。大丈夫きっと変われる、自分自身を変える方法はとても簡単でまずは小さなことから始めればいい、それができれば世界を変えることだってできる。

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