第三章その3
数年ぶりに大粒の涙を流し尽くし、泣き止んでようやく落ち着いた涼の顔は真っ赤だが、気持ちは不思議と晴れやかだった。
「森下先輩……兄さんの恋人でいてくれて本当にありがとうございました。兄さんもきっと幸せだったと思います」
「ええ、私も隼人君の彼女でいられてよかった」
「そうだ、先輩……これを」
涼はブレザーのポケットからロケットペンダントを取り出して開け、森下先輩に見せる。自分より森下先輩が持っていた方が良さそうな気がしたからだ。
「これ……隼人君?」
森下先輩は兄の写真を一瞥すると、微笑んで首を横に振った。
「ありがとう、でも私より君が持っていた方がいいと思う。私には……」
森下先輩は瞼を閉じて自分の胸を手を当てる、思い出してるのだろうか? 兄さんの思い出を?
「隼人君との思い出が沢山あるから、私にはそれで十分よ」
次の瞬間には消えてしまいそうな笑顔だった。
この人はこれから数十年の間、兄との思い出を胸に生きていくのだろう、涼はこの心優しい先輩が不憫だったけど本人はそのことを全く思ってないに違いない。
みんなで学校を出ると、夕方五時過ぎですっかり暗くなっていたが涼の表情は晴れやかで、土谷大地はようやく涼が前を向いて歩こうとしてる姿に確かな希望を感じた。
涼の隣にいる葵がスマホをポケットに入れると突然誘った。
「ねぇ涼君、今日一緒に会って欲しい人がいるの」
「もしかして親御さん?」
涼は身構えた様子で訊くと、葵は微笑みながら首を横に振る。
「ううん、親戚でもないけどあたしの恩人。あの人に出会えたから今のあたしがいるし、涼君に話さなきゃいけないこともあるの」
真剣な眼差しを涼に向けて言うと、みんなにはいつもの朗らかな笑みになる。
「という訳でみんな、あたしと涼君はちょっと寄り道するから」
「ああ、気をつけてな」
大地は睦美が有無を言う前に手を振って送り出す、睦美は葵に覚悟を問うような眼差しで見つめると、葵も何かを前向きに決意したかのような表情で頷く。
「それじゃあみんな、じゃあね!」
「うん、また明日ね!」
美紀も手を振って解散すると、大地は睦美に訊いた。
「花崎、草原に何かあるんだな」
「勘がいいわね土谷君」
睦美は顰っ面で言うと大地は美紀と顔を合わせ、睦美に向き直る。
「無理に話さなくていい、過去は詮索しない主義だ」
「そうよ、話したくなったらでいいわ」
美紀もにこやかに言うと、睦美は安堵したのか胸を撫で下ろす。
「わかったわ、葵にはいずれ話すように言っておくわ」
草原は何を話すつもりなんだろう? 大地はそう思ったがいずれわかることだ。今は忘れよう、せっかく涼が以前より前を向いて歩き始めようとしてるのだから。
米島涼は葵に連れられ、市電に乗って呉服町電停で降りるとそこから歩いて葵の自宅マンションに入り、エレベーターで七階に上がると標札に「真島」と書かれたインターホンを押した。
『はーい』
「こんばんは翔さんいますか?」
『いらっしゃい葵ちゃん、今開けるわ』
朗らかな女性の声がインターホンから聞こえると、扉が開いて涼は思わずギョッとしてのけ反りそうだった。葵は信頼してるのか無邪気な笑みで挨拶する。
「こんばんわ翔さん、お久しぶりです!」
翔という男は身長は一七五センチ程と涼より少し高いくらいだが、数えきれない程の修羅場や死線をくぐり抜けてきたような鋭く、精悍な顔立ちと眼差しは本能的に死の危険を感じさせる雰囲気を漂わせていた。
鷲の翼を思わせるような眉毛に長袖の服を着ていてもわかるほどの無駄なく鍛えられた強靭な肉体、ハリウッド映画に出てくる未来から来た殺人ロボットを国産化したような男だが、その瞳はとても優しげだ。
「やぁ葵ちゃん、新しい学校はどうだい?」
「もうすっかり馴染んで今日は彼氏も連れて来ました」
葵は涼に視線を向けると翔という男は涼を一瞥する、涼は緊張した面持ちで自己紹介する。
「は……初めまして米島涼です、草原さんとお付き合いさせていただいてます」
「よろしく涼君、葵ちゃんからは聞いてるよ。お腹空いただろ? もうすぐ夕食もできるから食べていくといい」
えっ? 初対面なのにいいのかな? 涼はちょっと気まずい気分になるが翔に促されて上がると、リビングには三歳くらいの男の子と妊娠中のなのか、マタニティウェアを着たお腹の大きい美人の奥さんがいた。
「こんばんは彩さん、
「こんばんは……」
息子の遥翔は内気な性格なのか、二人に挨拶すると少し距離を置いた。
「いらっしゃい葵ちゃん、あら! 君がもしかして彼氏君?」
無愛想な感じの翔とは対照的に奥さんの彩は和やかな笑みで長い黒髪を左ワンサイドにし、おっとりした感じの女性で涼は緊張気味に自己紹介する。
「はい、米島涼です」
「彩、君一人の体じゃないんだ。帰ってる時くらいは僕が夕食を用意する。遥翔、晩御飯を作るからお母さんの傍で待っててくれるかい?」
翔は慈しむ眼差しで遥翔と視線の高さを合わせて言うと、遥翔は「うん」と素直に頷いて母親の傍に座る。今夜は夕食はいらないと伝えた方がいいかも?
「さぁさぁ座って、すぐにできるからね」
彩に促されて涼はテーブル席に座ると、葵はほっこりした笑みで彩のお腹を見つめる。
「彩さん、またお腹大きくなりましたね」
「うん、もうすぐよ。早く会いたいわ」
彩は幸せに満ちた笑みでお腹を優しく摩る。
葵と彩が話してる間、涼はスマホのLINEで今夜の夕食は食べて帰ってくると伝えた。ふと窓辺に置かれてる写真立てを見ると戦闘機をバックに、彩の隣で遥翔を肩車した翔はフライトスーツ姿で穏やかな微笑みを見せてる。
それに翔と彩、どこかで見たことがある。
そう思いながら翔が作った料理――妊婦さんにも最大限に配慮したメニューだがとても美味しい、食べてる間、息子の遥翔は父親の翔に付きっ切りだ。
葵はまるで親戚の人のように食事と会話を楽しんでいた。
「ごちそうさまでした」
結局遠慮せず食べてしまい、片付けと食後のお茶の用意も翔がやっている。最初の怖い印象は変わって、無口だがとてもいい人だと肌で感じた。
「あの子ったらパパが帰ってくるといつも付きっ切りなのよ」
彩はテーブル席からリビングのソファーに座ると、微笑みながら息子に視線を注ぐ。涼はさっき見た写真が気になって彩に訊いた。
「翔さんって飛行機のお仕事をされてるんですか?」
「そうよ。海外で空の何でも屋をしてるの、それこそセスナ機や戦闘機、ジャンボジェットの操縦まで出来るの! だから昨日ケープタウンから帰ってきて明日のお昼にはアラスカに飛んで、一週間で帰ってくることもあれば半年も帰らないことだってあるわ」
だから遥翔君は少しでもお父さんと長く居ようと付きっ切りで離れないのか、その気持ちわかる気がする。自分も兄さんを亡くした時にもっと一緒にいればよかったと思うこともあった。
「そう、あたしと翔さんが出会ったのはケープタウンだったの」
葵の口調が重い、彩も何かを察したのかおっとりした口調から芯の通った声に変わり、覚悟を問う眼差しになる。
「葵ちゃん、彼に話すつもりなの? あなた自身のこと」
「はい、最初からそのつもりでしたから」
葵は正面から受け止めてる。何を話すつもりだろう? 涼も身構えてると、そこへ折りよく翔が紅茶のティーポットと人数分のカップ、茶菓子を載せたトレイを持ってきた。
「ねぇ涼君、翔さんと彩さんどこかで見たことあるはずよ、覚えてる?」
涼は微かに気付き、訊いてみる。
「あの彩さんって結婚する前の名字ってもしかして、神代ですか?」
「そうよ! 葵ちゃん、もしかして涼君と見つけたの?」
彩は懐かしく、そして嬉しそうな表情を見せると葵は真島夫妻に誇らしげな笑みを向けた。
「はい! 見つけました。ちゃんと受け継がれてましたよ!」
「そうか、よかった。僕たちのあの三年間は……無駄ではなかったな」
翔は安堵した表情でソファーに座ると涼は間違いない、この夫婦は初代エーデルワイス団の真島翔と神代彩だと、今の二人とあの写真の時の姿を重ね合わせる。
「涼君、今から話すこと……睦美は知ってるけど、クラスのみんなは勿論、まだ美紀や土谷君には話さないでくれる? いずれあたしの方から話すつもりだから」
葵の言葉に重みを感じて涼は目を閉じると微かに兄を感じた。後戻りはできないぞ、覚悟を決めろ、そして必ず葵ちゃんを守り抜け!
涼は頷く。
「……わかった」
重苦しい空気がリビングを充満させ、葵は静かに重い口を開いた。
「あたしはね、かつて……平田葵と呼ばれていた女の子だったの」
葵の形のいい唇の動き一つ一つが鮮明に目に焼き付き、涼は知ってはいけないことを知ってしまったと重く実感する。一年前に突然芸能界を引退し、表舞台から姿を消した天才子役アイドルの平田葵が目の前にいて、あるがままを話し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます