第8話
あたしがひどい自己嫌悪に陥っていても、仕事は待ってはくれなかった。
あの後、蹲るあたしの頭を見知らぬ酔っ払いが撫でていって、あたしはやっと立ち上がることができた。
稼がなければならない。
あたしは車内のにおいが普段と変わらないものになっていることを確認すると、営業できなかった時間を取り戻すように車を走らせた。
だが、こうして精神的に参っているときに限って、面倒な客が多く来るのはなぜなのだろう。
酔客に運転席のシートを蹴り飛ばされたのはまだましな方で、運転中ずっと卑猥な言葉を投げかけてくる客や、何かに怒ってあたしに殴りかかろうとしてくる客、ひどい悪臭を漂わせて乗ってくる客、料金を払わずに逃走しようとする客までいた。
一体、あたしが何をしたというのだ。
与しやすそうな雰囲気でも、出していたのだろうか。
あたしはへとへとになりながら仕事を終えて、家に帰り着く。
軽くシャワーを浴びて、お茶を1杯飲んでからのそりとベッドに潜り込む。
そのまま目を閉じて眠ろうとしたが、疲れているにもかかわらず、頭のどこかが覚醒してしまっていて、なかなか寝付けなかった。
あたしは諦めたようにため息をつくと、パジャマにしているジャージの中に手を潜り込ませた。
手を緩く動かしていると、体が徐々に熱を持ち始め、小さな吐息が漏れ出て行く。
これも、ホオズキと出会ってから変わってしまったものの1つだった。
昔はあまりそういうことに興味がなく、自分で体を触ることも稀だった。
だが、今は毎日ではないにしろ、以前とは比較にならないほどの頻度で、そういうことをしている。
あたしは軽く体を突っ張らせて高ぶった感覚を逃がすと、機械的に後処理をした。
だが、体は熱くなったままだった。
物足りない。
そう思わずにはいられなかった。
「あたしにどうしろって言うんだ」
あたしはごつんと拳で額を叩くと、壁際の衣装ダンスに目を向けた。
あの奥にあるものが、あたしの意識をさらっていくのだとしたら。
「返しに行くべき、なのか……?」
あたしにはもはや、この状況をどうしていいのかわからなかった。
◇
いつの間にか、ホオズキと最後に会ってから2週間が経っていた。
深夜0時40分。
日曜日が過ぎ去り、月曜日がつい先ほど始まったばかりだ。
もうすぐ、ホオズキといつも会っていた時間がやって来る。
あたしは例の物が入ったコンソールボックスの蓋を軽く撫でた。
ちょうど、品川方面の客を捕まえたばかりだった。
あと20分もすれば、目的の場所に辿り着ける計算だ。
会った後のことは何も考えていなかった。
お金を返して、手を振って別れる。
本当に、そいうことでいいのだろうか。
あたしは既に目的地に向けて走り出していたが、未だに答えを探し続けていた。
無理な運転で横入りしてきた車に軽くクラクションを鳴らす。
その車は警告に気が付いていないのか、あたしの目の前をふらふらと白線を踏みながら走り、あたしは自然と車間を大きく取った。
流れ行く街並み。
道路の脇に列をなした街灯は、あたしの行く先を明るく照らし出している。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
車外に出て頭を下げながら客を見送ると、あたしは腕の時計を見た。
深夜1時10分。
いつもより少し過ぎてしまっている。
あの前を行く車のせいだった。
のろのろと運転し、あたしが追い越そうとすると進路を塞いで邪魔をした。
客もそれをわかっていたのか、苛立ちながらもあたしに文句を言ってくることはなかった。
あたしは再び車に乗り込むと、オフィス街への道を慣れた手つきで進んだ。
大型のツインビルの間を抜け、脇道に入る。
街路樹が生い茂り、それに埋もれるようにして石のベンチが等間隔で並んでいる。
会いたいか、と聞かれても、何と答えていいのかわからなかった。
ただ義務のように、会わなければ、と思うだけだった。
あたしの日常を返してほしい。
掻き回された価値観を、暖かく包まれた記憶を、作り変えられた体を、元に戻してほしかった。
それでも、それをホオズキに求めるのが、お門違いだということは分かっていた。
あたしが勝手に変わって、勝手に苦しんでいるだけだ。
変えられるのはあたしだけで、ホオズキはただのきっかけに過ぎない。
望むと望まざるとにかかわらず、車は走り、あたしの目は確かに見慣れた人影を捉えてしまう。
車を停めて、アスファルトに足を着ける。
「乗りますか?」
「ええ。お願い」
ホオズキがあたしを見ていた。
あたしはその視線を受け止め切れず、後部座席のドアを手にとってごまかした。
「待って」
ホオズキがあたしの腕を捕え、ドアを開けようとする動きを妨げる。
あたしは口を引き結ぶと、力を込めてホオズキを見た。
「なんでしょうか」
「ずっと考えていたのだけれど、やっぱりわからなくて」
ホオズキは困ったように眉を下げる。
「私、あなたに何かしてしまった?」
「何もしていません。……もういいですか?」
あたしは首を横に振って、話を切り上げようとする。
ホオズキの眉がますます下がり、言い方を少しだけ変える。
「この前のことは、すみませんでした。あたしの虫の居所が悪かっただけで、あなたは何もしていません。だから、気にしないでください」
軽く頭を下げて、再度ドアの取っ手に手を掛ける。
「待って」
今度はしっかりと手を握られ、ホオズキに2度目も止められる。
そのままホオズキがあたしに体を寄せてきて、あたしの体を挟むように車のルーフに両手がかかる。
「……なんですか?」
怯みそうになる体を叱咤し、ぐっと奥歯をかみ締めてホオズキを見上げる。
ホオズキの顔が息のかかりそうな距離にまで迫っていた。
「私、あなたを玩具だと思ったことなんて、一度もない」
ホオズキの目は僅かも揺らがなかった。
その真摯な目に射抜かれたあたしの体は、簡単にホオズキに屈服しようとする。
「……それは、もういいんです」
両手を互い違いに肘に掛け、あたしは身を守るようにして言った。
「いいってなに。よくないでしょ」
どこまでも逃れようとするあたしを、ホオズキは容赦なく追い詰めていく。
まるで猫に狙われた鼠のようだった。
鼠の場合は破れかぶれに猫に食いつくこともあるが、あたしにはそうする度胸すらなかった。
肩を掴まれ、ホオズキの足がさらに1歩迫ってきた時、あたしの急造ハリボテはあっけなく砕け散った。
「ごめんなさい。もう許して、ください……」
あたしの体から力が抜け、車の外装を滑って座り込む。
震えが止まらなかった。
言うことを聞かない自分の体も、言いたくないことを言わせようとするホオズキも、あたしに向けられる真剣な視線も、どれもが怖かった。
膝を抱え込むようにして座り、額をそこに押し付ける。
なにも聞きたくない。
なにも言いたくない。
こんなに自分が弱かったなんて、今初めて知った。
ホオズキがたたらを踏むのが分かった。
こんなめんどくさい女なんて、置いて帰って欲しかった。
ホオズキはわずかに戸惑った空気を出したが、足は遠のいていかず、反対にあたしの傍にしゃがみ込んだ。
さっきよりも心持ち距離をとって、ホオズキがあたしの頭を撫でる。
「ごめん、追い詰めたかったわけじゃないの」
ホオズキの指がさらさらとあたしの髪を梳いて、低く落ち着いた声が耳を打った。
しばらくそうした後、ホオズキがあたしの横に移動してきて、今度は背中をゆっくりと撫でられる。
あやされているみたいだ。
あたしは少しだけ落ち着きを取り戻した頭でそう思って、急に恥ずかしくなった。
顔を上げて、横に座るホオズキを見る。
嫌そうな顔をしていたらすぐに車に乗り込もうと思って見上げた顔は、あたしの顔を見て嬉しそうに綻んだ。
「ごめんね、話がしたかっただけなの。もうちょっと時間をくれる?」
あたしは子どものようにこくんと頷くと、しびれ始めていた足を無理やり伸ばして立ち上がった。
運転席に回ってコンソールボックスから百均で買った袋を取り出し、ホオズキの元に戻る。
ホオズキに促されるまま、石のベンチに腰掛ける。
「こんなものしかないんだけど、飲む?」
ホオズキが差し出してきたのは、野菜を前面に押し出したジュースだった。
あたしはありがたく受け取り、ストローを指してぬるい液体を飲み込む。
胃にものが入り、意識がそちらに引っ張られていく。
そうするとぐちゃぐちゃになっていた頭の中が、少しだけすっきりしたように感じた。
ホオズキも同じようにジュースを飲み、あたしたちの間にあった殺伐とした空気が幾分か和らいだようだった。
「私、アメリカに行っていたの」
ホオズキがさらりと話を切り出した。
「自分が何をしたいのかわからなくなって、友人のつてを辿って3ヶ月ほど向こうで研究させてもらったの。とても楽しかった」
ホオズキが宙を見上げながら、何かを思い出して笑う。
「でもね、何かが足りなかった。研究は刺激的だったけれど、あとひとつ足りなかった。何かわかる?」
あたしはホオズキの問いかけに少しだけ首を傾げ、すぐに横に振った。
「クヌギさん、あなたが私をいろいろなところに連れて行ってくれた時、あなたはとても楽しそうだった。それを見て、私もあなたのように、誰かのために笑える仕事がしてみたくなった」
あたしはホオズキと走っていた時を思い出してみる。
確かに、楽しかったかもしれない。
そういえば、休日を潰して案内する場所を探していた気もする。
楽しくなかったわけがない。
「それで今度は、モノづくり系のベンチャーに転職することにしたの。だからもう、私はこのビルで働いてない」
「え……」
あたしは耳を疑った。
だってそうだ。
ホオズキはいつも通りこの場所にいたのだ。
「先週もあなたを待っていたんだけど、来なかったね」
ホオズキは何かをごまかすように笑った。
「電話してもよかったんだけど、逃げられそうだったから。でも、今日も来なかったら会社に電話してたかも。上司に脅してもらって、逃げられないようにね」
ホオズキは楽しそうにそう言うと、あたしの顔を見た。
「クヌギさん。あなたから見た私がどんな存在なのかはわからないけど、私から見たあなたは、すごく大事な存在なの。だから、あなたを弄んだりなんてしない。信じて」
ホオズキの視線が鋭く突き刺さる。
あたしはどんどん事情がわからなくなっていって、持っていた袋をホオズキに差し出した。
「これは……?」
「お金。あなたがあたしのジーンズにねじ込んだ、2万円。返します」
あたしの言葉に目をぱちぱちと瞬いて、ホオズキは首を傾げる。
「いらなかった? 仕事の邪魔をしてたから、そのお詫びのつもりだったんだけど」
「あの時間はいつも早上がりしていたので、仕事中じゃありません」
「そうなんだ……」
互いの顔を見合い、あたしたちはなんとなく、互いが考えていたことを悟った。
「あー、うん。確かに勘違いするかもね……」
「あたしもちゃんと聞かなかったので……」
行き場をなくした袋が宙を彷徨い、あたしの膝の上に戻ってくる。
「じゃあ、もういいかな?」
ホオズキの手があたしの頬に伸びてくる。
あたしは自然とその暖かな手のひらに頬を擦り付けていた。
「好きだよ、レイナ」
ホオズキの目が愛おしそうに細められ、あたしを見た。
あたしは居心地の悪さに身じろぎし、雰囲気を変えるように言葉をこぼす。
「それ、名前負けしてるので。クヌギでお願いします……」
「なんで? 可愛いよ、レイナ」
「いや、ほんと、やめてください……」
「ふーん?」
あたしは赤くなった顔を隠すように俯いた。
ほとんど呼ばれた記憶のない名前の響きに、違和感が拭えない。
「まあ、慣れてくるでしょ」
ホオズキはそう言って立ち上がると、あたしに手を差し出す。
「帰ろう」
あたしはその手をしっかりと握って立ち上がる。
「はい。日本橋ですか?」
「そう、私の家までお願い。直行で」
「はい」
「今日は仕事、早く上がれないよね?」
「……ちょっとくらいなら、ばれないです」
「なら2万円、あげないとね」
「いらないです。もう、受け取りたくありません」
あたしがはっきりと断ると、ホオズキが嬉しそうに笑った。
握られた手に力が籠る。
あたしはそれに応えつつ、にやけたホオズキの顔を見上げた。
「名前、聞いてもいいですか?」
「え? 言ってなかったっけ?」
ホオズキが驚いたようにあたしを見た。
あたしはホオズキの抜けている一面を垣間見て、少しだけ嬉しくなる。
「言ってませんよ、一度も。聞いてもいませんでしたが」
「そうだったんだ……、道理で」
うんうんと何かに納得するしぐさを見せたホオズキは、あたしにはっきりとその名を告げた。
「アサコ。ホオズキアサコ。私が生まれた時、親が麻の服を着てたからってこれになったらしいの。適当過ぎるでしょ?」
ホオズキが何でもないことのようにからからと笑った。
「ホオズキって名字、あんまりよくない意味もあってね。漢字も『鬼の灯り』で厳つくて。だから下の名前で呼んで欲しい」
「わかりました、ホオズキさん」
「聞いてた? レイナ」
「ホオズキさんが、あたしをクヌギと呼んでくれたら変えます」
「え、意外に意地悪……」
あたしたちは軽口を叩きながら、車に乗り込んだ。
バックミラーを調節し、ホオズキの顔が端っこに写るようにする。
「レイナ、私のこと大好きだよね?」
「そんなことを言った覚えはありません」
「わかるよ。好きじゃない人に抱かれても、女はあんなふうに反応したりしない」
ホオズキが好色な笑みを浮かべてバックミラー越しにあたしを見つめてくる。
あたしの頬は一瞬で赤く染まり、ホオズキにその変化をつぶさに観察される。
「ベッドの中で聞くから。その時にちゃんと答えてね」
「発車します……」
あたしは今度こそ首まで真っ赤に染めて、ゆっくりとハンドルを切った。
景色が流れる。
街灯がきらきらと輝いて見え、暗い建物はどこか神秘的に見えた。
単純だな、と思いつつも、あたしは湧き上がる幸福感を抑えきれないでいた。
体が羽のように軽い。
足元がふわふわする。
「ごめんなさい、停まります」
「え、なに?」
ホオズキが驚いたように声を上げる。
「足元がふわふわして危ないので、落ち着くまで待ってください」
「それは、仕方ないね」
ホオズキが面白そうに笑う。
あたしはそれに構わずシートにもたれ掛かると、心を落ち着かせるように大きく深呼吸を繰り返した。
ついでにバックミラーを操作してホオズキを視界から外す。
「えー、外しちゃうんだ」
ホオズキが不満げな声を上げる。
あたしはそれに返答せず、気合を入れて車を発進させた。
見るものすべてが、輝いて見えた。
世界がこんなにきれいだったなんて、あたしは今まで知らなかった。
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