第7話


ついてない。

あたしは後部座席にまき散らされた吐しゃ物を見てため息をついた。


繁華街、夜9時。

これから飲み会帰りのサラリーマンを捕まえて稼ごうとした矢先の出来事だった。

ひとりでは歩けないほどに泥酔したスーツ姿の若者と、上司と思しき中年の男が申し訳なさそうに乗り込んできた時から、嫌な予感はしていた。


数百メートルも転がさないうちに若者が苦悶の声を漏らし、慌てて差し出したエチケット袋もむなしく、車内に悪臭が充満した。

2人はすぐに降車し、中年の男があたしに5千円札を手渡してきたが、営業の補填分としては少し足りない。


あたしは繁華街の隅の目立たない場所に車を停め、トランクに入れていた清掃道具を取り出すと、ゴム手袋をはめて特殊な薬剤を汚物の上に振りかけた。

しばらく待って固まったそれを使い捨ての簡易スコップで掬い、ビニール袋の中に押し込んでいく。

最後に念入りにウェットティッシュで車内を広く拭き清めると、見た目には何があったのかわからなくなった。


だが、においだけはどうしようもなかった。


あたしは清掃道具を片付けると、傍のコンビニで缶コーヒーを買った。

後部座席の窓を全開にしたまま助手席のドアにもたれ掛かり、あたしは冷たい液体を口に含む。


まずいな。

不自然に甘ったるい味。

ブラックにすればよかったと後悔したが、もう遅かった。

あたしは顔をしかめながら、それを喉の奥に押し込んでいく。


人通りはさほど多くなかったが、水商売系のお店が近くにあるのか、髪をこれでもかと盛った細身の男たちが群れて歩いている。

男のうちの1人があたしをちらりと見やって、そして訝しむように眉をしかめた。


そういう反応には慣れている。


髪を短く切ってから、あたしはよく男に間違われた。

高い身長と、豊満とは言い難い体も相まってのことだとは思うが、髪が長かった頃は間違われたことなどなかった。

たったひとつの変化で、こうまで人は惑わされる。


あたしはポケットに手を突っ込むと、できるだけ余裕のありそうな顔を作って、嘲笑うように男を見やった。

男は一瞬ぽかんとしていたが、そこはプロでもあるのか、きれいな笑顔を取り繕ってあたしに会釈を返してきた。


客候補にでも見られたか。

あたしはぞわぞわと這い上がってくる怖気にも似た感情をぐっと抑え込んだ。


「おねーさん、カッコイイね! あたしとあそばなーい?」


きゃははっ、と唐突に甲高い声が聞こえて、あたしは声の方を振り返った。

派手なメイクをした2 人の女たちが、あたしを値踏みするように見ていた。


「あんた何言ってんの。リュウジが泣くよ」


派手な格好をした女が、隣の水色の服を着た女をたしなめるように言った。


「えー、だって、なんかビビッと来たんだもん」


女は遠慮のない足取りであたしに近付くと、缶コーヒーを持っている方の手首をつかむ。


「ね? あそぼ?」


女がわざとらしく舌で唇を舐めて見せる。


「触らないで」


あたしが逆の手で女の手を叩き落とすと、女はつまらなそうに口を尖らせた。


「はいはいそこまで。あんた今日リュウジに会うために仕事頑張ったんでしょ」

「そうなのー! やっぱりあたしにはリュウジしかいないみたい!」


派手な女が、あたしの目の前から水色の女を引き剥がしていく。


「悪いね」

「気にしないで」


女は横目でちらりとあたしを見やると、薄く笑って去っていった。


あたしはいつの間にか詰めていた息をふうと吐き出すと、空になった缶をくしゃりと潰す。


風俗嬢か、キャバクラ嬢か。

定期的にホストに通える人間など、夜の仕事をしているか、逆にあの人のような高給取りかのどちらかだろう。


これまで夜の仕事を考えなかったかと言われれば、嘘になる。

実際、借りていたボロアパートを追い出されそうになって、一度、面接を受けに行ったことがあった。

当時既に髪を切ってしまっていたから、この身長と髪を理由に断られたが、今では断ってもらってよかったと、心底思っている。


もし雇われていたなら、あたしは恐らく身を持ち崩してしまっていただろう。


見たことのない大金が、数時間の肉体労働で手に入る。


嫌なことももちろんあるだろうし、努力しなければならないこともたくさんあるのだろう。

だが、一度外れてしまったタガは、簡単には戻らない。

まだ若く世間を知らない者にとって、それは多くの場合、毒になった。


施設を出てから夜の世界に入り、生活を崩壊させていった友達を何人も知っている。

客の子どもを身ごもり、未婚のまま出産した人もいた。

ホストにはまり、大きな借金を抱えてしまった人もいた。


それがすべてその人個人の責任だとは思えない。

あたしにだってそうなる可能性があったし、あたしがそうならなかったのはただ運がよかっただけだった。


2万円。

あたしにとってそれは貴重な金だった。

毎月それだけの金が給料に足されれば、かなり生活が楽になるし、僅かながら貯金もできるようになる。


ホオズキに抱かれるようになって、受け取っていた金。

使うつもりはなかったが、これがあるだけで精神的に安定していたのもまた事実だった。


本当に嫌だったのなら、何をしてでも突き返せばよかったのだ。

その機会は数多くあった。


だが、あたしはそれを選ばず、ただ流されるままにホオズキと関係を持ち続け、金を受け取り続けた。

金に目がくらんでいた、と取られても、反論のしようもなかった。


「バカみたいだ」


弄ばれたと被害者ぶってみたところで、所詮あたしが選んだ道だった。

自分の感情を持て余し、ホオズキに全ての罪をなすり付け、声を荒げたあの日。


本当に身勝手だったのは、どちらだったのか。


金が欲しいなら、素直についていけばよかったのだ。

もう体に触れられたくないのであれば、丁寧に断ればよかったのだ。


全てが、中途半端だ。

ホオズキにこの関係を丸投げしていたあたしの、この状況がその代償だった。


ピアノを弾いても、思い出すのはあの日のホオズキの強張った顔ばかりだった。

鳴らないドの音に苛立ち、他人の痕跡の残る古びた楽譜を見るのが嫌になった。


仕事に集中してみたところで、こうやって道草を食わされ余計なことを考えさせられる。


金に執着することが、悪いことだとは思わない。

それがなければ生きていけないことは、身をもって感じていることだ。


だが今は、その気持ちがひどく恨めしかった。

金など、欲しがらなければよかった。

家賃が払えなくなっても、食べ物が買えなくなっても、あたしはホオズキのお金だけは断るべきだったのだ。


今更気が付いても、もう遅い。


あたしは車に背を預けながら、ずるずると座り込んだ。


「本当に、どうしようもない」


どうしようもない、くだらない、人間だ。

あたしは道端に蹲ると、すべてを拒絶するように顔を伏せた。

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