第3話


それから何度か女を乗せて都内を走った。

皇居をぐるりと大回りして走ったこともあれば、オフィス街の同じ道をひたすら走り続けたこともあった。

首都高に乗ったこともあったが、あたしが入口と出口に手間取ったこともあってか、女はそれから高速に乗ることをやんわりと拒否するようになった。


1回、2万円。

距離や高速の有無によって増減したが、あたしは女が基準を超えて渡してくれるそのお金を、拒否しないことに決めた。


女があたしの労働を評価したものだと考えると、断ることが逆に申し訳なくなったのだ。


それに、お金を貰って嬉しくないわけがない。

あたしはお金に見合うように頑張って、居心地のいいドライブを提供する。

女はあたしに、ドライブに見合ったお金をくれる。


あたしはいつしか女を乗せて走ることを楽しみにするようになっていた。


客がなかなか捕まらなくて売り上げが危うい時も、日曜日のドライブのことを考えれば気が紛れたし、逆に頑張ろうと思えるようになっていた。


休日に出かければきれいな建物を探し、ネットを開けば何時間でもグーグルマップを凝視していた。

そんな風に生活が女に侵食されていくと、比例するように客がよく捕まるようになった。

売り上げはまだまだだったが、このままいけば来月には最低賃金を脱することができるだろう。


そうやって日々を過ごしていたある日のこと。

あたしはいつも通り品川駅近くのオフィスビルで女を待っていた。


時刻は深夜2時を回ろうとしている。


女は大抵1時頃には現れるし、遅れる場合は電話が掛かってくるのだが、この日はなぜか何の音沙汰もなかった。


あたしは手のひらで連絡用のスマホを弄びながら、深く倒した背もたれに背中を預けた。


今日は行きたい場所があったのに。

あたしは低い天井を見上げながらため息をつくと、窓の外に目をやる。


「あ……」


何とはなしに目についた樹木の陰。

ジャングルのように葉が生い茂り始めた木々の中、花壇の隅に腰かけた小さな背中が見えた。


女だということはすぐにわかった。

だが、いつもとは違ってその背中はすべてを拒絶するように丸まっている。


あたしは少しだけ迷った。

あたしたちの関係は、運転手と客だ。

客の許可を得ず踏み込んでいいところなど1つもない。

だが、このまま女を1人残して去ることもまた気が引けた。


あたしはしばしの逡巡の末、手のひらをハンドルに軽くぶつけてクラクションを鳴らした。


ぷっ!


静まり返ったオフィス街に響く警告音に、あたしは少しだけ罪悪感に駆られる。


これで気が付いてくれればいいが。

あたしが女の背中に念を送っていると、女の体がかすかに揺れた。

ゆっくりと頭が上がり、背中が伸び、手が天を衝くように空に伸びた。

それは丁度背伸びをしているみたいで、その動作にあたしは首を傾げる。


「寝ていた……?」


女は体を左右に捻って、腰の具合を確かめている。

ひとしきりストレッチをして満足したのか、女が横に置いていたバッグを手に立ち上がり、おもむろにこちらを振り返った。


吸い寄せられるようにして目が合った。


赤く腫れたまぶた。

化粧が落ちて黒く汚れた目元。


あたしは居ても立ってもいられず、ドアを開けて車外に飛び出した。


女のところに続く道は一旦右か左に逸れてくるりと回り込まなければならなかったが、あたしにはその時、それを考える頭が全くなかった。


女に向かって、ただ一直線に突き進む。

低く整えられた植え込みを跨ぎ、作られた溝を飛び越え、乱立した木々の間をすり抜ける。

女が驚いたようにあたしを見たが、あたしはそんな反応を気にすることができないほど、ひどい焦燥感に駆られていた。


早く女の傍に行かなければ。

行ってどうするのかとか、女がそれを望んでいるのかとか、そんなことは考えもしなかった。

ただよくわからない感情に振り回されて、枝に足を叩かれ木の葉に巻かれ、虫に絡まれながら闇雲に進んだ。


女はしばらくの間、あたしの必死の行動を目を丸くしながら見ていたが、ある時、耐え切れないとばかりに口を開けて笑い出した。


「あっはっは! クヌギさん、そんなに急いでどうしたの?」


女は肩を震わせながら、ぼろぼろになったあたしを見た。


「えっと……」


あたしはその時、やっとの思いで女のところにたどり着いていたのだが、もはや慰めようと思っていた相手はおらず、そこにはただひたすらに腹を抱えて笑う女がいた。


とりあえず乗りかかっていた花壇から降りて、未だに痙攣が収まらない様子の女の背中をさすってみる。


女があたしの腕を掴んでやめさせようとしていたが、力が入らないのかあたしになされるがままだった。

しばらくそうやって女の背中を温めながらぼんやりとしていると、女がはっきりとした意思を持ってあたしの腕を掴んだ。


「ありがとう。もう大丈夫」


女は目の端に浮かんだ涙を指先で拭いながら、あたしの腕をそっと背中から外した。

あたしはそれを見て、とほっと息を吐いた。


「乗りますか?」

「ええ。お願い」


あたしたちは横着せず、ちゃんと迂回して整備された道を並んで歩く。

女の髪が揺れ、なにかよくわからないいい匂いが鼻をくすぐる。


「背が高いんですね」


盗み見た横顔の中、女の目線がわずかに高いことに気付き、あたしは何の気なしにそう言った。


「あなたの方が高いよ。私はヒールで盛ってるから」


あたしは女の足元に注目し、軽く頷く。

あたしは身長が高い。

短い髪と相まって運動ができそうだとよく言われたが、なんのことはない、ただのでくの坊だ。

唯一得意なのは、ただ突っ立って相手を睨みつけ、威嚇することぐらいか。

そんなあたしよりも背が高い女性など、滅多にお目にかかれるものではない。


あたしは車の前につくと、右手で後部座席のドアを開けた。


「どうぞ」


左腕はルーフの端にくっつけて、女が頭をぶつけないように気を配る。

女は軽く微笑んでお礼を言うと、ゆっくりと車に乗り込んだ。

あたしは女が完全に車内にいることを確認してからドアを閉めると、急ぎ気味に運転席に戻ってエンジンをかける。


「今日はどうされますか?」

「家までお願い。寄りたいところがあれば、あなたの勤務時間内で好きにしていいよ」

「ありがとうございます。では1ヶ所だけ。遠いところではありませんが、余分に10分ほどいただきます。よろしいでしょうか?」

「わかった。あなたに任せるよ」


あたしはもはやナビの必要もなくなった、慣れた道を走る。

視線を巡らせれば道路脇に植えられた植物が花を付け、街路樹が青い新芽を覗かせている。


今週からもう4月だった。

女はこの変化に気が付いているだろうか。

自然が湧き立ち、新たな命を祝うかのような爽やかな空気を、その肌で感じただろうか。


あたしは月島を経由して小さく迂回すると、東側から墨田川にかかる大きな橋に侵入し、橋の上で停車した。

運転席を下りてくるりと車体を巡り、後部座席のドアを手で開ける。


「降りてください」


女は訝し気にあたしを見上げたが、素直にアスファルトの上に降り立つ。


「あちらです」


あたしは橋の上から見える景色を指さした。


大きな月が出ていた。

白い花弁が月明りに照らされて、粉吹雪のように宙を舞う。

水面には無数の白が浮き、まるで夜空に浮かぶ銀河のようだった。


「……きれいね」


女は手すりにもたれながら、ふっと小さく息をついたようだった。


川の左右に植えられた桜並木。

満開に咲き誇った花弁が、木から1枚1枚剥がれ落ち、その生を終えていく。


乾いた風が頬を撫で、髪を揺らす。


あたしたちの間に言葉はなかった。

いつだって、言葉は不要だった。


この時までは。


「……私は、研究をしていたの」


女がぽつりと呟いた。


「大学に行って、博士号を取って、企業に研究職として就職した」


それはまるで独白のようだった。


「材料の研究をしていてね。……例えば肌着は吸汗性や速乾性のある生地が欲しいでしょう? そういう生地を新しく生み出したり改良したりするような研究をしていたの」 


あたしが僅かに首を傾げたのを見逃さず、女が説明を付けたした。


「でも最近は会社の業績が悪くて、研究の一部を縮小することになったの。その時にいろいろと悶着があったんだけど、結局は私が他部署に飛ばされることになった」


女は目を細めて川面を見つめている。

表情は変わらなかったが、言葉尻からは不本意な移動だったのだろうことが窺い知れた。


「移動先は、技術的な知識が必要とされる部署ではなかった。むしろ人とのコミュニケーションを重視される気風でね。私はすぐに職場で浮いた。まあ、当然よね。博士持ちの小難しい女を使いたいという物好きはあまりいない。移動願はずっと出していたけれど、誰かが止めているのか話すら全然進まなかった」


女が自身の身を守るかのように、固く腕を組んだ。


「だから気晴らしに、私が研究していた材料のことで論文を書こうと思ったの。実験データは揃っていたから、あとは先行研究をまとめて体裁を整えるだけだった。けれど、論文はいつの間にか発表されていた。私の名前ではなく、共同研究していた同僚の名前で。それを見つけたのが、昨日の話」


女は自嘲するかのように薄く笑った。

よく見ると、肩が細かく震えている。


「当然文句を言いに行った。だけど、将来のある奴に手柄を譲ってやれ、と逆に説得された。……こんなバカみたいな話ってある? 私が研究したのに、すべて取られて納得しろだなんて。私の将来を奪ったのはそっちだっていうのに」


女は両手で顔を覆うと、崩れるように欄干に突っ伏した。

あたしはどうしていいかわからなかったが、迷った末に震える背中に手を当ててゆっくりとさすった。


女の独白が終わり、あたしたちの間には再び沈黙が降りた。

風が吹き抜け、波の音が静かに響く。


女の話はところどころ想像しにくい部分があったが、要は職場で嫌がらせをされたということだろうと解釈した。


だが、わかったところで、あたしには適切なアドバイスもできないし、気の利いた言葉も思い浮かばなかった。

だからできることと言えば、あたしも身を削って自分の体験を話すことぐらいだった。


「あたし、中卒なんですよ」

「え……」


女が驚いたように顔を上げた。


「あたしが3歳の時、親があたしを施設に入れたんです。経済的な理由って聞いてますけど、今になっても連絡ひとつよこさないので、それだけじゃないんだろうなとは思ってます。一応高校は行かせてもらってたんですけど、友達とたばこ吸ってるのがばれて、あたしだけ退学になりました」


あたしは当時を思い出しながら、少しだけ懐かしむように言葉を紡ぐ。


「自業自得なんですけどね。ただ本当はたばこ1回で退学っていうのはあまりないらしくて。一緒に吸っていた友達の親がめんどくさい人で、あたしに全ての責任を押し付けてしまえってことになってたって後から聞きました。当時はかなり当たり散らしてましたが、今となってはバカなことをしたなって思ってます」


女はあたしの状況をうまく想像できないのか、難しい顔をしていた。


当然だろうな。

あたしの通っていた底辺の高校と、女が通っていたような進学校では恐らく環境が違い過ぎる。


あたしのいた高校では、普通の生徒でさえたばこ程度になら簡単に手が届く。

悪いグループの中で麻薬が流行っている、という話も聞いたことがあった。


「退学になったら施設を出なきゃいけなくて。頼み込んで少しだけ延長してもらって、その間に運よく田舎の旅館のバイトを見つけて転がり込みました。でもこのままじゃだめだと思って、そこで一生懸命働きました。高齢のご夫婦でやってるところだったんですけど、軽トラで荷物を運ぶのがきついからと言って、あたしに車の免許を取らせてくれました。とてもよくして貰い、ました」


あたしは一旦言葉を切って、震えそうになる声を抑えた。


「でもある時、ご主人がくも膜下出血で倒れたんです。一命は取り留めたんですけど、麻痺が残ってしまって。それでもう無理だって旅館を閉めることになりました。その後、あたしはバイトで食いつなぎながら、二種が取れる年まで待って、地元のタクシー会社に就職しました。そこで3、4年順調に働いて。でもある時、同じ会社の中年のおじさんに言い寄られて。……あたしが婚期を逃しそうだから俺が貰ってやるとかなんとか言われて。会社に言っても何も対応してくれないので、そこを辞めて、東京に出てきました」


あたしは女を見て、女はあたしを見た。

2人とも、奇妙な顔をしていた。


「あー、だから、環境を変えれば何とかなるんじゃないか、と言いますか。転々としていれば、悪いこともあればいいことも巡ってくるんじゃないか、と、思い、ます……」


あたしには他人に贈れる言葉などないし、語って聞かせるような人生でもない、という思いが湧き上がってきて、言葉が尻切れた。


女の顔を見るのが怖くて、顔を俯かせる。

引かれただろうか。

こんな、まっとうでない生き方をしてきたあたしを軽蔑するだろうか。


女の沈黙が怖かった。

余計なことをしゃべらなければよかったと後悔し始めた時、女が沈黙を破って声を発した。


「ごめん、あまりに想像を超えていて反応できなかった。あなたの話を聞いていると、私はなんて小さな悩みをぐちぐちと引きずっているんだろうと思えたよ」

「人生をかけて積み上げてきた成果を奪われたら、誰だってつらいと思います」

「そうかな。積み上げられるものはまた積み上げればいい。私にはギリギリのところから這い上がってきたあなたこそ、とても強く思える」

「あたしは、いろいろな人に助けられました。あたし自身は褒められた人間じゃありません」

「そういうところだよ」


女が笑った。

つられてあたしも笑う。


「ずいぶんと話し込んじゃったね。空が明るくなってる」

「お送りします」

「ありがとう」


あたしがドアを開けて突っ立っていると、女が車に乗り込む間際にすっと身を寄せてきた。


「今度、私の家に来る? この前、私の部屋を見上げていたでしょう?」


にやり、と意地悪そうに笑い、あたしは顔に熱が集まるのを止められなかった。


見られていた。

恥ずかしさに身じろぎする。


「可愛い」


俯きそうになった顔が、顎先にかかった女の指先によって引き留められる。

息のかかる距離で見つめられて、あたしは目を伏せてその視線から逃れようとする。


「今日はありがとう。とても、元気が出たよ」


女の優しい声が耳を打ち、次いで額に暖かいものが触れた。


「あ……」


あたしの頬をさらりと撫でて、女は何事もなかったかのように車に乗り込む。


「クヌギさん。朝が来るよ」


呆けた表情で固まったあたしに、女が車を出せと催促する。

あたしは慌てて運転席に座ると、いつも以上に慎重に安全を確認して発進させた。


喉が渇く。

胸の鼓動が早かった。

くらくらとしそうなほどに茹だった頭を叱咤して、あたしは朝日を浴びながらひどくゆっくりと車を走らせた。

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