第4話


冷蔵庫を開けて中を覗き、お茶の入ったボトルを取り出す。

茶葉を入れっぱなしにしていたせいか、真っ黒に濁ってしまった液体をコップに全て移し、空になったボトルを流しに置く。

あたしはコップを傾けてそれを一口飲みこむと、時計を確認した。


午後1時。

窓から差し込む光が、心持ち強かった。


あたしはあくびをかみ殺して、背伸びをする。

昨日、女から家に来ないかとSMSで連絡が来た。

それを見た瞬間にドクンと心臓が大きく鳴って、それ以来ずっとそわそわと落ち着かないでいる。

今眠たいのも、昨晩なかなか寝付けなかったせいだった。


あたしは指先で、女に触れられた額をなぞる。

女の少しだけ色づいた頬が、かっと開いた瞳孔が、やたらときれいだった。


あれは、友達に向ける類のものではない。


あたしにはまともな恋愛経験などなかったが、そうしたことに巻き込まれるのが嫌で必死に予防線を張ってきたおかげか、そうした空気には人一倍敏感になっていた。

撫でられた頬の感触を思い出し、あたしはふるりと身を震わせる。


どうしてしまったんだろう。

あたしは流しの淵に手をついて、自問する。

家族など、欲しくはなかった。

正確に言えば、崩壊する予感しかない家族など、欲しくはなかった。

だからいろんな誘いを断ったし、向けられる好意もすべて躱し続けてきた。

それでよかったし、周囲から人がいなくなった今でも、それに後悔はない。


1人で生き、1人で死んでいく。

断固とした決意があるわけではなかったが、生きていくうちに自然とそう考えるようになっていた。


けれど、女と出会ってから、あたしは少しおかしくなっていた。

他人に興味などなかったのに、ミラー越しに女の顔を盗み見たり、部屋の位置を確認したり、誰にも話したくないと思っていた生い立ちを、聞かれもしないのにぺらぺらと喋ったり。


今日、女の部屋に行ってしまえば、たぶんあたしたちの関係は変わってしまうのだろう。

それは予感ではなく、確信に近いものだった。

それがいいのことなのか悪いことなのか、あたしにはわからない。


あたしは女の連絡から10分経った後に、手短にメッセージを送っていた。


『お邪魔します』


それがあたしの答えだった。


あたしは落ち着かない気持ちのまま、部屋の壁に立てかけてあった電子キーボードを引っ張り起こすと、ローテーブルの上に置いて電源を入れた。


ぽん。


小さな音が部屋の中に溶けて消える。

このマンションは古いせいか壁が薄い。

あたしが午前中に眠っていた時、隣の部屋から聞こえてくるワイドショーの笑い声で起こされたこともあった。


あたしは中古で買ったオープン型のヘッドホンを頭に乗せて、電子キーボードに繋いだ。


ぽろん。


耳に直接ピアノの音が響く。

ピアノがうまいわけではないし、流行りのポップスがかっこよく弾けるわけでもない。

小さな頃、暴力的な子どもから逃げるように飛び込んだ部屋の片隅。ほこりを被っていたピアノを引っ張り出して暇を潰していたら、いつの間にか趣味になっていた、というだけの話だ。

施設を出てからは、中古屋で買った色あせた楽譜と、ドの音が出ない使い古されたキーボードで、どこかの国の国歌や、練習用に編纂されたクラシックを気の向くままに弾いている。


指の体操をしてから、すっかりと暗記してしまった曲を弾き始める。


確か、ドイツの民謡だったっけ。

楽し気なフレーズを繰り返し、一心に音を奏でていると、あたしの心は徐々に落ち着きを取り戻していった。



「お邪魔します」


あたしは送ったメッセージと同じ言葉を口にしながら、玄関をくぐった。


深夜1時半。

いつも通り女を乗せて、まっすぐにここまで来た。

会社には今日は早く上がると既に伝えてある。


「適当に座ってて。今お茶出すから。あ、着替えを持ってきてるんだったら、洗面所で着替えてきてもいいよ」

「はい。じゃあ、着替えさせてもらいます」


あたしは女が指し示したドアを開けて中に入ると、会社の制服を脱いでいつものラフな服に着替えた。

Tシャツにジーンズ、薄手のパーカー。

大人としては少しだらしのない格好だったが、新しく服を買いに行く暇も、お金もなかった。


あたしは制服をきれいに畳んでしわが寄らないようにバッグにしまうと、ドアを開けてリビングに戻る。

リビングでは女がぱたぱたとキッチンとダイニングテーブルの間を忙しそうに行き来していたが、手伝っても邪魔になりそうだったので、あたしはおとなしく隅の椅子に腰かけた。


時計の針の音がする。

女の足音と、冷蔵庫や棚を開閉する音がそれに重なり、あたしは意識して、強張ってしまっている体から力を抜いた。


緊張している。


当然か。

少し、互いの生い立ちを話し合ったただけの人だ。

例えば食べ物1つとっても、好きなものや嫌いなものなど、何も知らない。

アレルギーだけは事前に聞かれたので、今日食べ物が出てくることは把握していたが、ただそれだけだった。


あたしの意識は警戒を緩めず、体を無理に弛緩させた後も室内を観察してはよくわからない情報を拾ってきて、脳を疲弊させ続けている。

例えば難しそうな本が多いだとか、壁に飾られた油絵は誰が描いたのかとか。

ガラスの嵌った棚の中には小さなトロフィーも見える。


この部屋は謎ばかりだ。

大体、名前すらまだ聞いていない。

あたしの常識的な部分が、もうずっと前から早く聞けと急かしてきていたが、あたしの根本的な部分が頑なに首を縦に振らないので、おそらく今日もまた、女の名前を知ることはないのだろう。


「お待たせ」


あたしが視線を宙に彷徨わせていると、女があたしの目の前に腰かけた。

いつの間にか机の上にはバラエティに富んだ料理が並べられている。


「夜も遅いから、軽めのものにしたよ」

「これ、作ったんですか?」


あたしは料理名さえよくわからない食べ物を指さした。


「まさか。知り合いに頼んで、日中に持ってきてもらったの。好きなものがわからなかったから、量は抑えて種類を揃えてみた」


女が笑って、空のグラスを持った。


「何飲む? アルコールはだめだよね」

「そうですね。お茶をください」

「紅茶、緑茶、抹茶、麦茶、プーアル茶、黒豆茶、ハーブティー、あといろいろあるけど、何がいい?」

「……あなたが普段飲んでいるもので」

「わかった。お土産で貰ったロータスティーを淹れるね。甘くてすっきりしてて、最近よく飲んでるの」


女はティーパックを入れたコップにポットからお湯を注ぐと、あたしの前に置いた。

女の手にはおしゃれなパッケージが施された、ビールと思しき缶が握られている。


「1缶だけ。ごめんね」


あたしは特に思うところもなかったので軽く頷くと、女の缶に自分のコップを軽く合わせる。

こつん、と間抜けな音がして、女が勢いよくビールを煽った。

目の前でごくごくと喉が鳴る。

あたしはその飲みっぷりのよさにしばし目を奪われていたが、我に返ると自分のコップを手に持ってちびりと口に含んだ。


おいしい。

知らない味だったが、女が常飲するのも頷ける味だった。

缶が机に当たる音がして、女がふうと大きな息を吐いた。

手の中の缶はくしゃりとへしゃげ、力が入っているのか、軽く振動している。

あたしは唖然として女を見たが、女の方は素知らぬ顔で食べ物にぱくつこうと箸を伸ばしていた。


「好きに食べて。直箸でいいから」

「……いただきます」


手を合わせた後、あたしはよくわからない食べ物をいくつか掬い上げて、自分の取り皿に入れた。

女の方はひょいひょいと軽快に箸を滑らせて、次々と口に運んでいる。


お腹が空いていたのだろうか。

あたしは内心で首を傾げながら、女を観察した。

深夜に食事をするとどうしても太りがちになってしまうが、女は全く太ってはいなかった。

むしろやせている方にも見えたが、よく見ると腕も腰も引き締まっていて、普段から運動でもしているのだろうと思わせる。


「お腹、減ってない?」


女が箸を止めたあたしを見て、不思議そうに問いかける。


「あまり普段から食べないので。お茶、すごくおいしいです」

「そう、よかった」


女は軽く笑うと、箸の動きを再開させる。


「私は食べ物があると、あるだけ食べちゃう方なの。体質的にはあまり太らない方な

んだけど、最近は太りやすくなってきて、少し気を付けてる」


これで気を付けている方なのかと少し驚いたが、あたしは顔にも口にも出さなかった。


「アメリカの大学院に行ってた時は、友達がみんな日本では信じられないくらいによく食べてたから、あんまり気にならなかったんだけどね。逆にあんたはもっと食べろってビザを押し付けられたり」


女はからりと笑うと、水出しの麦茶をコップに注いで口をつけた。


「アメリカは、いいところですか?」

「うん? まあまあかな。研究するにはいいところだけど、治安と差別が足を引っ張ってる」

「差別って、黒人の?」

「それもあるけど、アジア人に対しても結構ひどいよ。学校に行くなら、絶対に1回は遭遇すると思う」


テレビでしか見ない、遠い世界の話だと思っていた異国の話が、女の口から次々と語られていく。

あたしはその話を聞くにつれて、いつの間にか理想化していた異国のイメージを、ひどく現実的なものに修正せざるを得なくなった。


「あなたは?」

「え?」


女があたしを見て、頬杖をついた。


「何か話したいこと、ある?」

「あたしは……」


語って聞かせるようなことなど、何もない。

だが、ここで何もないと答えるのも癪だった。


「田舎の旅館で働いていたとき、よく山菜を取りに行っていました。秋にはキノコも一緒に取るんですが、間違えて毒キノコを持ち帰ってしまって。危うくお客さんを殺しかけました」

「おっちょこちょいだね」


女がふふっと笑う。

だが、当時は本当に笑いごとではなかったのだ。

毒キノコをお客さんの前に出す寸前に、ご主人が味見をしてやっと発覚したのだから、当時は本当に冷や汗が止まらなかった。

あたしが視線を宙に向けて過去を思い出していると、女がことりとコップを傾けた。

いつの間には目の前の料理は片付いている。


「休日は、何してるの?」

「大体寝てますが……、散歩がてらにいい景色が見える場所を探したり、地図を見たりしてます」

「そうなんだ」


誰のために、とは言わなかったが、女の暖かみのある返事に、あたしの行動の真意が伝わってしまったことを悟る。

それで終わってもよかったが、あたしは少しだけ逡巡した後、再び口を開いた。


「あとは……、ピアノを弾いています。電子キーボードで」

「すごいじゃない」


女が大げさなほど驚いた顔をする。

あたしはそんな反応がこそばゆくて、肩を竦めた。


「全然、すごくないですよ。ちゃんと習ったこともなくて、簡単な曲しか弾けません」

「いやいや、両手で弾けるんだよね? それだけですごいよ。私も1回やろうとして、両手で弾けなくて投げ出したから」


女の目は真剣で、あたしをからかって遊ぼうとしているわけではないようだった。


「ね、今度聴かせて」

「ですから、大したものは弾けなくて……」


女の目が期待に輝く様を見ていられなくなって、あたしを目を伏せた。

俯いたあたしの顔に、向かい側から女の手が伸びてくる。

繊細な指先があたしの耳をくすぐった後、頬を撫でて優しく顔を引き上げられる。


「あなたの感じている世界を、一緒に感じたいの」


女の強い視線が、楔のようにあたしに撃ち込まれた。

あたしはぐっと唇をかみ締めて内心の動揺を隠そうとしたが、女は既にあたしの状態を把握してしまっているようだった。

女が身を乗り出して、顔をぐっと近づけてくる。


「あなたと、セックスがしたい」


面と向かって言われて、あたしの頭は真っ白になった。

女の手はあたしの顔を捉えて離さず、頬の感触を確かめるように僅かに動いている。


「……いい?」


女の一段低い声が聞こえ、何かを我慢するように目が細められる。

あたしはカラカラに乾いた喉に潤いを与えようと唾を呑み込んだが、何かが引っかかってうまくいかなかった。

それでも何かを言わなければと口を開き、そして勇気が出なくて閉じる、ということを何度か繰り返す。

女は中腰のまま、あたしの返事をじっと待っているようだった。


1分ぐらいだろうか。

格闘の末、あたしはようやく自分の声を取り戻した。


「……はい」


ひどく掠れた、不格好な声だった。

女はその返事を聞いた瞬間、あたしの後頭部をぐっと掴んできた。


唇が合わせられる。


全身が熱かった。

膝の上で拳を震わせながら、あたしは必死に女の動きを追った。

角度を変えて何度も唇を触れ合わせられた後、あたしの唇の上をぬるりとした何かが這う。

あたしはその初めての感触にびくりと肩を震わせたが、女はあたしの肩を少し撫でただけで、動きを止めることはしなかった。


唇を割り開こうと蠢く舌にあたしが必死に抵抗していると、女がすっと身を引いた。

少しだけ息を乱した女の鋭い視線が、あたしの真ん中を貫いていく。

あたしはその視線に耐え切れなくなってまた顔を伏せようとして、今度も女に腕を掴まれて阻止される。


「こっち」


女がなんとなく焦ったような声で言って、あたしを奥の部屋に引っ張り込んだ。

ドアを閉じると、壁に押し付けられるようにしてまた唇を合わせられる。

薄暗い部屋の中は一瞬しか見えなかったが、大きめのベッドと本棚が勝手に目の奥に焼き付いていた。


口の中に女が侵入してくる。

あたしは体の力が抜けそうになるのを必死で耐えながら、女の服を握り締める。

パーカーはいつの間にか脱がされていた。

薄いTシャツの上を、女の手のひらが這いまわる。


「あ……」


裾から侵入してきた手があたしの腰を直に撫でて、思わず声が漏れた。

手はそのまま背中に回り、下着のホックをぷつりと外す。

あたしはそれに精神的な衝撃を受けて、体をぐっと縮める。

女の背中に回していた腕も引き寄せられて、必然的に女の体があたしに引き付けられる。


「ふふっ」


女が嬉しそうに笑い、額同士を擦り付け合う。


「顔が真っ赤」

「……あなたの、方こそ」


あたしは女の手に導かれるまま、ふわりとベッドに押し倒される。

直前に追剥にでも遭うかのように服をすべて剥ぎ取られたので、背中に直にシーツの冷たい感触がして、ひどく落ち着かなかった。


「緊張してる?」


あたしの震えを感じ取ったのか、女があたしの顔を覗き込みながら聞いてくる。


「初めてなので」


嘘をついても仕方がなかったので、あたしは素直にそう告げる。


「意外。じゃあ、優しくしないとね」


女はあたしの上に被さると、ゆっくりとあたしの肌を辿り始めた。


遮光カーテンの隙間から漏れ出た光が、あたしたちを明るく照らしている。

光に晒されたあたしの強張った顔を見て、女がその顔を優し気なものに変化させる。


あたしはそれを確認すると、強く目を瞑って、おとなしく女に体を明け渡した。

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