第2話


「クヌギさん、少しいいかな」


あたしは洗車の手を止めて、声をかけてきた人物を見上げた。

白髪の目立ち始めた優男が、眉を八の字にしてあたしを見下ろしている。

この営業所の所長だ。


「売り上げがよくないね。まだ試用期間中だけど、早いうちに貢献してもらわないと会社としても厳しいんだよ」

「すみません」


あたしはとりあえずと頭を下げる。


「まだ若いし、みんなクヌギさんには期待しているんだよ。早く会社を引っ張っていけるような人材になってくれ」

「頑張ります」


所長はあたしの返事に鷹揚に頷くと、あたしの隣で同じように洗車に励んでいる若手に声を掛けに行く。

あたしはしばらく所長の背中をぼんやりと見ていたが、頭を振って所長の言葉を頭の隅に追いやり、濡れた布巾を握りしめた。


試用期間中に売り上げを上げられなければ雇い止め、ということか。

タクシー業界は人手不足だと思っていたが、そんなに経営が厳しいのだろうか。

経済のことはよくわからないが、上京して早々無職になることは避けたい。

あたしはさっさと洗車を終わらせると、今日行われるイベントをチェックし始めた。



いつものように道路の上を滑るように走らせる。

EV車特有のとがった鼻先から光が放たれ、進行方向を明るく照らし出していた。


今日はついていた。

コンサート帰りの客を何人も捕まえられたし、丁度客が途切れそうなときに長距離客も捕まえられた。


先週は散々だったが、今週はどうやら所長にお小言をもらわずに済みそうだった。

あたしは横浜から都心に帰る道すがらでも、客がいないかとどん欲に視線を走らせる。


時刻は深夜0時55分。

日曜日が過ぎ去り、月曜日がつい先ほど始まったばかりだ。

閑散とした品川駅を横目に見やり、駅待ちタクシーがいることを確認してからそっと視線を外す。


そういえば、女を拾ったのはこのあたりだった。

女がいたということは、他にもオフィスで働いている人がいたとしてもおかしくはない。

あたしはハンドルを切って、オフィス街に黒い車体を滑り込ませた。


見覚えのあるツインビルを通り抜け、脇の道に入った。

先週よりも街路樹の葉が、設置されたベンチに迫る勢いで伸びていたが、誰かが定期的に剪定しているのか、無秩序な印象は受けなかった。


整えられた空間。

快適さと遊び心を融合させた配置。


あたしはそんな空間の中を、速度を落としながら目を左右に走らせた。


「……いた」


ベンチに腰掛ける人影。

足を組み、ヒールの踵で見えない何かをつつくような動作をしている。


あたしは女の前に車を停めて、ハザードを点滅させた。

女があたしに気付いて、こちらに向かってくる。


「乗れる?」

「もちろんです」


女が慣れた様子で車に乗り込んでくる。


「日本橋でいいですか?」

「その前にドライブがしたい」

「……どのあたりがいいですか?」

「海が見えるところ」

「それでは遠回りですが、東京ゲートブリッジはいかがでしょうか。あいにくライトアップはされていませんが、東京湾が見えるはずです」

「それどこ?」

「お台場の近くです」


女が軽く頷き、あたしは車を発進させた。


海はきれいだった。

黒く沈んだ海面を不気味だと思う人もいるが、あたしはこの底の知れなさが好きだった。

人を越えた力を持ち、見ることさえもかなわない場所がある。


女はただ頬杖をついて、窓の外を眺めているだけだった。

隙間を開けた窓から入り込んだ風が、女の髪をゆらゆらとなびかせている。

何かを考えているようにも見えたが、聞くことは躊躇われた。


そうやって海を眺めながらぐるりと遠回りをしていたら、いつの間にかメーターの金額の桁が、前回よりも1つ上がってしまっていた。


「申し訳ありません」

「いいのいいの。私が遠回りしてって言ったんだから、あなたは気にしないで」


女は笑って手を振ったが、あたしの気は晴れなかった。


「2万円、渡す口実にもなったし」


女が1万円札を2枚取り出してあたしの手のひらに押し付けた。


「なぜ、2万円もくれるんですか?」

「んー、私の気持ちかな。あなたの車に乗っていると落ち着くから」


あたしは意味を取りかねて、頭を捻る。


「あたしの仕事に、お客様が2万円の値段をつけた、ということですか?」

「そうそう。実際の運賃以上の値段なら、誰も損しないでしょ」

「お客様が損していると思いますが……」

「そうでもないよ。お金を払えて嬉しく感じる時もあるもんだよ」


あたしはにこにこと笑う女から目を逸らし、素直に頭を下げた。


「ありがとうございます」

「うん、またね。来週も来てくれると嬉しい」

「はい。では名刺を……」


あたしは手で自分の服を叩いてみたが、どのポケットにも膨らみはない。

グローブボックスにも入れた記憶はない。


あたしはコンソールボックスを開くと、手を伸ばして中を漁った。

指先がとがった角にあたり、それを無理やり引っ張り出す。


「あたしはクヌギといいます」


少しだけよれてしまった名刺を、狭い車内の中で体を捻りながら手渡した。

大仰なフルネームが書かれたそれを手渡すのは少し躊躇われたが、仕方がない。


女は興味深そうにあたしの名刺を見て「クヌギ」と何度か繰り返し呟くと、さっとバッグにしまい込んだ。


「じゃあまたお願いね、クヌギさん」

「はい。お待ちしています」


あたしは車外に出て女がエントランスの中に消えるまで見送ったあと、目の前のマンションを見上げた。


「どこに住んでるんだろ」


よくない行動だとは思いつつも、視線は暗い窓の上を彷徨っている。

しばらくそうやって佇んでいると、5階の角部屋の窓がぱっと明るくなった。


「あそこ、か……」


あたしは自身の行動に嫌悪を感じながらも、頭の中にその位置をしっかりと記憶する。


なにかをしたいわけじゃない。

ただあそこで、あの人が生活している、という実感が欲しかったのだ。


あまりにも遠い人だ。

地球人と火星人みたいに生活様式が異なり、価値観が異なる。

そんな人でもあたしと同じように家に帰り、ご飯を食べ、ベッドで寝ている、という手触りが欲しかった。


あたしは発光する窓を満足するまで見上げた後、車に乗り込んで暗い街の中を走り出した。

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