マーシーの願いごと

増田朋美

マーシーの願いごと

マーシーの願いごと

学校や会社が盆休みに入ったせいか、夏に音楽コンクールに挑戦してみようという人は多い。もちろん、音楽学校を目指す若い人のための登竜門でもあるのだが、アマチュアのひとで、自分の腕試しをするために参加するという人も増えてきた。そして中には本当に少しだけど、コンクールが自分の居場所という人も少しいる。そしてコンクールは、本人だけではなく、ピアノ教師たちにとっても、戦いの場所ということにもなるのだ。何人のひとを入賞させたかで、ピアノ教室の価値にも甲乙がつくからである、さて、今年はどんなガチンコバトルが繰り広げられるのだろうか。

今年も、日本クラシックコンクールは、開幕した。今年も、いろんな人が、ショパンのバラードとか、ベートーベンのソナタといったコンクール向けの曲を演奏したのであるが、その中にただ一人、日本人の作曲家の作品を弾いたものがいた。それは誰の門下生なのだろうかと、見に来ていたピアノ教師たちは目を丸くした。コンクールだから、前述したショパンのバラードなら話が分かるが、なぜ湯山昭のお菓子の行進曲を演奏するのだろうか?

それを弾いた男性に続いて、あと二人ほど演奏して、とりあえず日本クラシックコンクール、本選会は終了した。その数時間後、結果発表が掲示され、表彰式が挙行された。一位から三位までに入賞した人は、入賞者演奏家への出場が与えられる。演奏会へ出演できなくても、良い演奏をした人には好演賞が与えられる。好演賞は三人のものが選ばれたが、その中にあの、お菓子の行進曲を弾いた男性も選ばれていた。彼は表彰式で賞状を受け取り、自分のようなものがとってもいいのかという顔をしていたが、審査員長も誰も文句を言わなかったようだ。彼は、マーシーのもとへレッスンに通っていた。

さて表彰式が終わって、マーシーがロビーで帰り支度をしていたところ、

「高野先生でいらっしゃいますよね、高野正志先生。あの、お菓子の行進曲を演奏させた方ですよね。」

と、ある女性が、マーシーに声をかけてきた。

「なんですか?」

マーシーが聞き返すと、

「よく平気な顔していられますね。そんな顔していられるのが信じられませんわ。よくもあんなにくだらない曲を演奏させて、しかも好演賞まで取らせるなんて。あれはもしかしたら、八百長ではないのですか?あなたに、そんな対象を取らせるほどの力はないでしょう!」

と、彼女はいやそうな顔をしてそういうことを言った。

「そんなこと、していません。賞を取ったのは彼で会って、僕は何もしてません。もし、八百長が気になるんだったら、ご自身で確かめてみてはいかがですか。」

と、マーシーはそういい返した。しかしこの女性、勝手にマーシーのことを八百長だと決め込んでしまったようで、

「いいえ、あなたのことですもの。音楽学校も出ていないのに、生徒をコンクールへ出場させて、賞まで取らせるなんて、絶対にありえませんよ。きっと何かずるがしこい手を使ったのでしょう。それ以外考えられませんよ。」

とまくしたてる。

「そうはいってもですね。賞をもらったのはあくまでも彼で、僕ではありません。それに評価されたのは、彼の演奏で、僕の演奏ではありませんから、そんなことわざわざ追求しないでください。」

と、マーシーはちょっと語勢を強くして言ったが、その女性は、何を言っても、納得しない様子だった。だって取ったのは好演賞であって、入賞者記念演奏会には出場しないのにとマーシーが言うと、音楽家でもないものが、コンクールで賞を取らせるのがおかしいんだと、彼女は主張する。近くのドアから黄土色の着物に、黒の羽織を着たジョチさんが出てきて、

「三好先生どうしたんですか、こんなところで何かあったんですか?」

と、彼女に聞いた。

「ああ、どうもです。いや、実はですね、こんな音大を出たわけでもないような人が、ピアノのコンクールに生徒を出場させて、好演賞まで取らせるなんて、あり得ない話だと言っているんです。ですから、私、八百長が起きたのではないかと思いましたの。」

三好さんと呼ばれた女性は、そういうことを言った。

「はあ、えーとそうですか。」

と、ジョチさんは言った。

「僕は審査員として、参加させてもらいましたけど、八百長があったと言うようなことはありませんでした。それは心配ありません。」

「まあ、先生は、そうやって悪人まで援護するんですか。」

と、嫌な顔をする女性。

「いいえ、三好先生が勝手に思い込んでいるだけですよ。僕は、良い演奏をした方には、良い評価をさせてもらいましたし、間違いの多かったりすれば、其れなりに指摘しただけのことですよ。その審査に八百長も何もありません。」

ジョチさんは、そういって、三好さんを黙らせた。マーシーは本当によかったと思った。もし、ジョチさんがここに来てくれなかったら、三好さんに言い負かされてしまう気がした。

「そういうわけですからね、三好先生も、変なひがみをするのは、おやめになったほうがいいと思いますよ。それをしているのなら、もっと実力のある人を探してくるのが、目下の急務なのでは?」

ジョチさんは三好先生に言った。

「そうですか、審査員さんまでそういうことを言うのは、ふさわしくありません。どうせなら、ものすごくうまい演奏をする人を連れてきて頂戴。絶対できないでしょうけど。まあ、せいぜい、音楽をお楽しみになるといいわ。」

と、嫌味を言い続ける三好先生に、ジョチさんは、あきれた顔をしているのだった。今年は、三好先生の門下から、一人も、賞を取ったものは出なかった。そんなに入賞者を出せないことは、悔しいことだろうか。

「どうせなら、大きな舞台に出演するといいわ。」

と、三好先生はバカにするような顔をしてホールを出ていくのだった。マーシーもジョチさんも、小さくなっているその背中を見つめながら、変な人がいるもんだと、いう顔をしていた。

「ええ?八百長だって、言いがかりをつけられたの?」

製鉄所の縁側で、杉ちゃんは、驚いた顔をして、ジョチさんとマーシーに言った。その隣には、何人かの利用者もいる。

「そうなんですよ。全く、何を考えているんでしょうね。コンクールの結果は、ちゃんと公平に審査されるものです。それに八百長何て文句をつけられるなんて、失礼にもほどがありますよね。」

と、ジョチさんは、お茶を飲みながら大きなため息をついた。

「まったくだ。その三好っていうひとは、富士市ではかなりの有名な人なの?クレーマーとして。」

と、杉ちゃんが言うと

「まあそうですね。毎年、賞を取らせるほどの指導者として知られていましたよ。何人か彼女の門下生が、出場していましたが、あまりうまいとは言えませんでした。ですから僕たちは、良い点数を出さなかったんです。」

とジョチさんが言った。

「それよりも、マーシーさんの門下生の、お菓子の行進曲のほうがよほどうまかったです。だから、そんなこと気にしないでやってくれればいいんですけど。そういうことは、できないんですかね。」

「まったくだ。なんか規律みたいなものがあるよなあ。えらくもないのにさ、たくさん刺客を送り込んで賞を取らせるんだな。」

ジョチさんと杉ちゃんは、お互い顔を見合わせた。

同時に、四畳半からせき込んでいる声がする。一寸行ってきますと言ってジョチさんは、すぐに立ち上がる。ふすまを開けると、水穂さんが、やっぱりせき込んでいる。マーシーも急いで部屋に入ってきて、水穂さんの背中をたたいたりさすってやったりして、介抱してやっていた。薬を飲んで、やっと、咳の治まった水穂さんは、

「コンクールに出ることは、先生のためじゃありません。自分で生活していくためです。」

と、意味の深いことを言って、眠り込んでしまった。

「まあ確かにそうだ。そういうひともいる。そういう例は今の時代には本当に、少ないけど。」

杉ちゃんが、腕組みをしてそういうことを言った。

「確かに、そういうこともありますね。水穂さんのような例もあるんですから、僕たちは、まだ恵まれていると思わなきゃ、それはしっかり考えないとな。」

マーシーは、杉ちゃんや水穂さんの話に感慨深い顔をして、考え直した。水穂さんの場合は、生活が懸かっているのだから、先生がどうのとか、八百長がどうのとか、そういうことはあり得ない話しである。

「でも、いずれにしても、お菓子の行進曲は良い演奏だったと思いましたから、それはほめてやってくださいね。そして、公表してもいいことですからね。それは、自信持ってくださいよ。ちゃんと、ファイナルまで出して、好演賞を取らせたのは、あなたの力でもあるわけですよ。生徒と言いますのは、あなたが作った作品でもあるわけですから。それはちゃんと愛着を持って接してあげてください。」

と、ジョチさんが、そういうことを言った。マーシーは、そうですねととりあえず言ったのであるが、その通りにできないなと思ってしまった。また何かあれば、三好先生のようなひとに笑われてしまうのだろう。

その次の日。マーシーがピアノの鍵盤をワックスで手入れしていると、スマートフォンがなった。

「はいはい、高野ですが、どちら様でしょうか。」

と、電話アプリを起動させてそういうと、

「あの、私、鈴木都というものですが。」

と、若い女性の声でそういうことを言っている声がした。

「鈴木都さん。初めまして。」

と、マーシーが言うと、

「あの、入門をさせていただけないでしょうか?」

と、都さんという女性は、そういうことを言った。

「どこか開いている時間帯でもありませんでしょうか?」

「ああ、そうですね、今週なら、木曜日の一時などはいかがですか?」

と言っても、普通の勤め人であれば、この時間帯であれば、会社に出ている時間帯である。

「分かりました。じゃあ、木曜日の一時に伺いますから、お願いしたいです。それでですね、先生、一寸お願いなんですけど。」

と、彼女は、一寸不安そうに言った。

「私、ヘルプマークを持っているんです。あの、赤い白十字が書いてあるマークです。」

ヘルプマークが何なのか、マーシーも知っていた。其れなら何か事情がある人であることは間違いない。

「それで、私、精神障害で感情のコントロールができないと書いてあるんです。それでもレッスンを引き受けてくださいますか?」

という彼女に、マーシーは、ああわかりました、大丈夫ですと答えた。マーシーの生徒には、ヘルプマークを持っている生徒も何人かいた。なので、ある程度障害のある人には、慣れている。

「ええ、わかりました。引き受けましたよ。じゃあ、木曜日に、来てくださいませ。」

と、マーシーが言うと、

「あの、私、一寸発達障害というものもあるんです。だから、あまりコミュニケーションをとるのが得意ではないのでして。それに、HSPともいわれています。それでもピアノを習いたいんですが。」

という彼女。この頃は、いろんな疾患の名前があり、それを、表明するのが、ブームになっていると思われる節がある。有名な芸能人などが、よくやっているからだろう。でも、それを公表しても、何か得をするかというとそうではないような気がする。マーシーは、あえて公表しないでもいいのではないかと思っているが、多くの若い人はSNSやブログなどで、障害があるということを大っぴらにアピールしている。本当は、障碍者ではなくて、一寸変わった人くらいの認識でいる方がちょうどいいのだが、なぜか、隠し通して苦しい思いをする人と、大っぴらに公表してしまう人の二極に分かれている。

「わかりました。それは、僕は気にしません。其れよりも、ピアノにしっかり向き合えるかという方が大事です。ですから、其れよりも、しっかりと練習して、ピアノを通して成長していくことを考えてください。」

「わかりました。こんな人間でも受け入れてくれるのですから、一生懸命練習します。よろしくお願いします。」

という、鈴木都さんは、一寸落ち着いていないように見えた。確かに、電話をかけるということは、緊張することでもあるのだが、こんな事でそんなに緊張していたら、レッスンを始めた時は、もっと緊張してしまうに違いない。ものも言えない可能性だってある。

「で、それで音楽のことについて質問なんですが、ピアノを習った経験がおありですか?」

と、マーシーは都さんに聞く。

「ええ、子供のころ、一寸習っていました。小学生までです。中学校では、勉強と両立ができないでやめてしまいましたけど。楽譜は何とか読めます。両手で、弾くことはできないかもしれないですけど。それくらいのレベルですが、受け入れていただけますでしょうか。」

と、彼女は、そういった。まあ、確かに、小学生まで習っていて、大人になってから再開したいというひとは多い。それはよくある話だけど、ヘルプマークを付けた人がやってくるのは、珍しいというか、なかなか例がないことでもある。

「そうですか。わかりました。いいですよ。誰でも習い事をする権利はありますし。こちらも、どんな人にでも、ピアノを教える義務はあると思います。音大の先生なんかは生徒を選んだりすると言いますけど、僕はそのような権利はありません。だから、木曜日に来てください。」

と、マーシーは言った。

「ありがとうございます!ありがとうございます!先生は、すごく優しいですね。私、三好先生のところに行ったんですけど、そうしたら障碍者はダメって言われて、追い出されてしまって。」

と、鈴木都さんはそういっている。三好先生の名前を聞いて、マーシーは、もしかしたら、彼女、三好先生が送り付けた刺客なのではないかと思った。もしかしたら、精神障害のある彼女を使って、こっそり自分のレッスンを、観察しているのではないかと思った。そうか、そういうことなのか。それなら、それなりにやってやろう。と、マーシーは思う。

「わかりました。そんなに、感動しなくてもいいですよ。僕はただ、ピアノを教えるだけのひとです。教える人は、誰でも偏見なく教えるというのが、義務なんです。それは守らなきゃいけないですよ。それだけをするだけですから、ほんとに、気にしないでうちへ来てください。」

と、マーシーは、彼女に言った。彼女は再び丁寧に礼を言った。こんなに丁寧に礼を言われるのは、初めてのことかもしれない。それを聞くと、本当に彼女は、ピアノを習いたいと思っているのだろう。

「わかりました。よろしくお願いします。木曜日に、必ず参りますから。」

マーシーはそういうことを言う彼女に、最寄り駅から自分の自宅へ行く経路を説明して、改めてよろしくと言って、電話を切った。

夏は暑いものだ。夏の時間のたつのは、きわめて遅く感じられる。夏の午後何て、本当にじりじりとして、ドロドロと流れる溶岩みたいに遅い流れのように感じられる。それでも、日付はたち、とうとう木曜日がやってきた。マーシーは、ピアノの鍵盤にワックスをかけて、綺麗にした。鍵盤だけではなく、ピアノ本体の汚れもきれいにした。ピアノはつや消しではなかったが、新しい生徒を迎えるために、きれいに光った。

午後一時、インターフォンがなった。

「こんにちは。」

とマーシーが玄関先に出迎えると、がちゃんとドアが開いて、一人の女性が現れた。ちょっと、彼女は、普通の女性には見えなかった。明らかに、一寸精神がおかしいという顔をしている。でも、マーシーは、彼女に教えなければならないと思った。

「それでは、こちらにいらしてください。」

と、彼女を、レッスン室へ連れて行った。彼女はお邪魔しますと言って、丁寧に靴をそろえて、部屋に入った。

「初めまして、鈴木都です。」

と、そういう彼女を冷静に観察する。ジャージ上下を着ている彼女は、精神はおかしくても、ほかのところはちゃんとしているんだろうなと思われる女性だった。それなら、そこだけ注意すればいいとマーシーは思った。

「それでは、鈴木都さん。ピアノの前に座ってみてください。」

彼女は、はいと言ってピアノの前に座った。それではとマーシーは、譜面を譜面台に置いた。マーシーはバイエルなどの教則本は苦手だ。其れよりもソナタとか、ソナチネなどでテクニックは身につくと思っていた。なので、置いた譜面は、バッハのメヌエットである。

「これをちょっと見ていただけますか?」

というと、彼女は、その通りにメヌエットを弾き始めた。弾けないと言っていたはずなのに、ちゃんと両手で弾けるし、リズムもしっかりとれているし、まったく問題はない。

「なんだ、問題なくできちゃうじゃないですか。それなら、バッハのインベンションとかそういう曲をやってみることもできそうですね。」

と、マーシーは、バッハインベンションの譜面を出して、譜面台に置いた。彼女は恐る恐るであるが、一番ハ長調を弾き始める。これも問題はなくすんなりと弾けているじゃないか。何だ、外見とヘルプマークに騙されているだけだ。彼女は、十分、楽譜を読む能力がある。

「いいですね。後は、音楽性の問題ですね。それではもうちょっと強弱入れて弾きましょう。それでは、こういう風に、弾いてみてください。」

マーシーが手本を示すと、彼女はそのとおりにやった。その通りに再現する能力もあるらしい。上手だなとマーシーは、ふうとため息をついた。

「いいですね。なかなかうまくできてます。後は、16分音符をもうちょっと静かにやってくれると、音楽的になります。」

と、マーシーが指示を出すと、彼女は、静かに泣き出した。何だろうと思ったら、マーシーの顔を見て、涙を流している。

「どうしたんですか。」

と、マーシーが聞くと、

「すみません。私、三好先生の、、、。」

「三好先生の何ですか?」

そういう彼女に、マーシーは、聞き返した。彼女も、話をすることを、決めてくれたらしい。涙をタオルで拭き、こう語り始めた。

「私、三好先生から、あの高野正志という人を観察してくるようにと言われて、それで来たんです。まさか、こんなに丁寧に指導してもらえるとは思えませんでした。あたしのことを、そうやって、教えてくれるなんて。三好先生は、音が間違っているくらいしか言ってくれませんでした。」

「そうですか。」

と、マーシーはやっぱりなと思って、彼女に言った。

「そうなると思っていました。だから、それでかまわないです。それよりも、本当にピアノを楽しんでいただきたいです。三好先生の言ったことなどどうでもいいんですよ。ピアノが本当に好きなら、そんなこと気にしないと思います。それでいいじゃありませんか。」

「先生はやっぱりすごい。」

と、鈴木都さんは言った。

「三好先生より、すごいじゃないですか。あたしのような人を受け入れてくれたんですから。」

「いいえ、当たり前のことをしただけです。」

とマーシーは、にこやかに笑った。

「誰でも、音楽を楽しんでくれるのが一番の願いですから。」



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マーシーの願いごと 増田朋美 @masubuchi4996

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