第32話 取引

 戦いを終えたラッコはシルを背負ったまま夜通し歩き続け、ラズたちが寝床にしようとしていた洞窟まで戻って来た。

 解毒薬らしきものはを飲ませたが、シルは高熱にうなされている。

 背負って歩いているうちに発熱したようで、今では玉のような汗も流れていた。

「うう……ん……」

「もう少しの辛抱だからね」

 この言葉がシルに向けたものなのか、自分に言い聞かせているのか、ラッコ自身にもわからない。

 シルを硬い地面に寝かせるわけにはいかないので、壁とリュックに寄りかからせた状態で座らせる。

 ラッコは寝床を作るために布や替えの衣類を重ねて敷く。

 その後はシルの衣服を脱がせて汗を拭いた。彼女の着ていた服は水桶に投げ込んだように濡れていて、とても着させたままにはできない。

 清潔な厚手の布で全身を拭いてから替えの肌着を着せる。脱力した彼女に重ね着をさせるのは困難なため、とりあえずはこの格好で寝かせることにした。

 背中を支えてゆっくりと寝かせようとすると、シルはうわごとのように何かを言う。

「どうしたの?」

「……み…………ず…………」

「わかった」

 水袋の水をそのまま飲ませるわけにはいかないので、カップに移してから少量をゆっくり飲ませる。ラッコは彼女を抱きかかえたまま唇にカップを触れさせた。

「いくよ」

 シルの反応は薄いが、飲ませないわけにもいかない。そっとカップを傾けて、水を静かに流す。唇に水が触れると、シルは唇の隙間から水を飲み始める。

 よほど水が欲しかったのだろう。彼女は止まることなく水を吸う。その勢いに引きずられてラッコはカップをさらに傾けた。しかし、それが良くなかった。

「が、ごほッ……ふ、うう……」

「ああっ、ごめん」

 水が少し多く口に入っただけで、シルは咽てしまう。吐き出された飛沫が顔についてもラッコは気にせず水を入れ直すだけだ。再度シルに水を飲ませる。今度は慎重に。

 カップの水を飲みほした彼女を寝かせ、薄手の毛布を掛けた。

 相変わらず熱は下がっていなさそうだが、水分を補給したことで多少は良くなるかもしれない。そう思わなければ、ラッコも気がやられてしまいそうだった。

 シルが横になっている間にラッコは周辺を探索。枯れ枝と蔓、長めの草などを集めた。

 シルが回復するまでは洞窟をシェルターとして使わなければならない。人間などは別として、野生の動物などを避けるには最低限の壁などを構築する必要があった。

 夜が明けて日も差している。日中に活動を始める動物もいるだろうから、早めに作業を終えたい。

「はあ、はあ……」

 戦いから一睡もせずにここまで歩き、今は枯れ枝を運ぶ。ラッコの体力も限界だった。

 意識が曖昧になっていく。どうにか洞窟まで戻って壁を作ろうと作業を始めるが、頭も手も働かない。

 枝に蔓を巻きつけようとしても、指で蔓を掴めなかった。

 最後の手段として、リュックを出入口側に移動させてそこに枝を重ねる。壁というほど出来の良い物ではないが、小動物くらいなら退けられるかもしれない。

 作業を終えたのとほとんど同時に、ラッコの意識は泥濘へと沈んだ。

 疲労に負けて、何もかもを投げ出すかのような睡眠はただ甘美で心地よい。

 彼が微睡みの世界から復帰したのは森を夕焼けが染め上げる頃だった。

「ん? 寝すぎた……シルは?」

 硬い地面に背を預けていたので身体が痛む。それでも体調は良好そうだ。

 シルの様子を窺おうと顔を向ける。

「おや? 起きたのかな?」

 シルの隣には見知らぬ女がいた。黒い長髪と薄汚れた赤黒い外套の女は、ラッコを見て笑う。ラッコは一瞬にして目が覚めた。

「誰だ」

 寝ている自分たちを殺さなかったのなら、目的は命以外だろう。薄暗い洞窟内で、女の目的を探る。

「アタシはピナラ。見ての通り人間さ。そういうキミは?」

 学生のレクリエーションくらいの気軽さであっさり名乗るピナラ。

「ラッコ」

「ラッコ? じゃあこの子は?」

「シル」

「キミたちが? なるほど、それは良かった。僥倖ってやつだね」

 なにやら勝手にうんうんと頷きだしたピナラだが、ラッコは何一つ状況が飲み込めない。

「目的はなんだ?」

「人探し」

 ピナラは口角を上げて白い歯を見せる。

「人?」

「そう、ラズって女の子なんだけど、知らない?」

 この質問が「殺したお前なら死体がどこにあるのかわかるだろ?」という意味であることはラッコにもわかった。軽薄な口調とは裏腹に、ピナラから滲み出る異様な感覚はどちらが捕食者なのかをはっきりと示している。むしろ、あえてわかりやすく教えてくれているのかもしれない。

 ピナラは目星をつけてここにいるのだろうから、白を切ることなどできない。

「僕が殺した。襲われて、それを迎え撃った。男もそうだ。死体は、男の死体の近くに放置して、それ以外はわからない」

 歯切れの悪い回答になってしまったが、嘘は言っていない。

「ホントに? どっかの川に死体を捨てたりしてない?」

「してない」

 怖いが、目は逸らさない。流れ星のような輝きを閉じ込めたピナラの瞳はラッコの僅かな震えさえも写している。

「あ、そう。ならいいや」

 期待していた答えとは違ったのか、ピナラはつまらなさそうに頭の後ろで腕を組む。

「いい?」

「あの二人、アタシの部下じゃないし。なによりキミ、ホントに何も知らなさそうなんだもん。この子はどうかわからないけどね?」

 ピナラは不穏な笑みと共に寝ているシルの頬をつつく。ラッコは慌ててシルを庇おうとした。

「シルはっ」

「あはははっ、そんなにこの子が大事なんだ?」

 ひとしきり笑ったあと、ピナラはラッコに本題をぶつける。

「ねえ、取引しよう? ラズたちがやるはずだった仕事をキミたちが代わりにやるの。そうしたら、ここを捜索してる他の人間たちに、キミたちは協力者だって口利きしてあげる」

「仕事って?」

 ラッコの背に悪寒が走る。これはかなり危険な取引だと。

「ミケンに潜入するの。方法は任せるよ」

「そんなのできるわけない。僕は人間で、彼女は亜人だ。まともに入れないどころか、近づくだけでも殺されるかもしれないんだぞ」

 反抗するラッコ。ピナラは軽く握った状態の裏拳を壁にあてる。

「そんなの誰だって知ってる。アタシが聞いてるのはできるかじゃなくて、やるのかどうか」

 ピナラは露骨なまでに苛立ちを見せつける。

「キミが取れる選択肢は二つ。この後ラズたちの代わりになるか。今ここでラズたちの後を追うか。都合の良いことにキミたちは男女ペアだし、どっちでも問題ないよ」

 選択肢なんてない。ミケンに近いこの森に潜伏しており、ラズたちよりも上の立場にいながら単独で活動しているということは、ピナラは相当な手練れ。シルを護りながら戦って勝てるなんてラッコも思ってはいない。

「引き受ける。けれども」

「わかってるよ。シルの体調が戻るまでは待ってあげる。ま、三日もしないうちに起き上がれるようになるでしょ」

「ミケンに入るだけで、何もしなくていいんだな?」

「そう。入り方も自由。入った後も自由。なんなら入ってすぐに出て来てもいいし、獣人側についても良い」

「わかった」

「交渉成立。じゃあアタシはもう行くね。あ、そうそう、この子のことなんだけど、もう少ししたら酷い嘔吐をするかもしれないから気をつけてね。全部吐いたら熱も退くから」

 ピナラはそう言って手をひらひらさせたまま背を向けるとそのまま歩いてどこかへと消えていった。

 ラッコは追いかけずにシルの様子を窺う。朝方よりは多少良くなっているようだが、熱はまだある。

 彼は急いで洞窟の外に穴を掘った。

「シル、大丈夫?」

 一応声をかけるが返事はない。

 両手で彼女を抱き抱えて、穴の近くまで移動する。

 外の様子を探りつつ、シルに新鮮な空気を吸わせていると、不意に彼女の身体が震えた。

「ううっ」

 シルは一度だけ呻ったあと、すぐに嘔吐した。ラッコは彼女の頭を穴の方に向けさせる。吐瀉物が穴に流れ落ちる間、ラッコはシルの背中をさすり続けた。

 しばらく吐いたあと、呼吸の整ったシルはラッコに目を向ける。

「ラッコ? さっきの女は?」

「もう行ったよ。さ、口を漱いで」

 シルは口に水を含んでから穴に吐き出す。

「ありがとう」

「お礼は……いや、どういたしまして」

 ラッコは吐瀉物の入った穴に土をかけ始める。

「僕はここを埋めちゃうから、シルはもう少し眠ってて」

 吐瀉物の匂いで野生の動物などが寄って来ては困るので、これはしなければならない。

「うん」

 シルはまだ身体が怠いのか、のっそりとした動きで洞窟内へと戻る。

 ピナラを覚えているということは、ラッコが目覚めるよりも前にシルは彼女となにかやり取りをしていたのだろうか。聞きたいことは聞きたいのだが、今はまだ聞けそうにない。とりあえず、シルが回復し始めたことを喜ぶことにする。そのくらいの希望にさえ縋らないといけないほどにピナラとの取引は尾を引いていた。

 一方、ラッコの頭から離れない当のピナラは近くの木の陰からラッコを見ていた。

「ちゃんと吐いたね。飲ませた薬が効いたようでなにより」

 ラズの毒は解毒薬が効いたのだが、過労と毒による免疫の低下によって高熱が出ていた。ピナラの薬は解熱剤の一種であり、免疫を高める効果もある。反面、緊急時に使用する薬の試作品であるために身体への負荷が一時的に重くなる副作用もあった。嘔吐はその副作用の一種だ。

 ゆっくりとはいえ歩けるのなら、もう大丈夫だろう。もともと亜人は身体能力が高い。人間ならしばらく寝たきりになるかもしれないが、そこは種族的な地力の差であろう。

「あれがスハトラの言ってた二人か、こんなところで会うとは思わなかったね。正直に名乗ってくれて良かったよ。あやうく、戦友の恩人を捨て駒にするところだった」

 独り言を続けるピナラの元に、部下の兵士がやって来る。

「ピナラ様、あの二人は本当によろしいのですか?」

「いいよ、スハトラの恩人だし。なによりラズたちが死んだのは自業自得でしょ?」

 場所の移動や、争った形跡、ラズたちの普段の態度、言動など調査によってラッコの言葉が嘘ではないとすでに判明している。なにより自分たちから襲い掛かって負けた以上、ラズが化けて出てきたとしても文句は言わせない。

「いえ、そうではなくて、あの二人をミケンに送るのは危険だと……」

「ラズがいないんだから仕方ないの。それに、いよいよとなったら芝居をうつなり救出するなりの手筈はするよ」

「そうですか。あと……」

「まだあるの?」

「槍をお忘れです」

「あらま」

 部下は赤黒い槍を差し出す。ピナラのジャケット同様の色合いは武器として見ても禍々しい。彼女は槍を受け取ると部下と共にその場を離れる。

 去り際、ピナラは心の中で呟く。

 シル、ラッコ。ミケンを攻略したらそのときはスハトラに会わせる。だからそのときまでは、絶対に死ぬんじゃないよ。

 命令とも祈りともつかない言葉を念じ終えると、ピナラは光を失った森の中へと消えていった。

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