第31話 夜の勝者

 夜の森を駆け抜けるシルたち。

 木々を搔い潜って逃走しているために今のところは追いつかれていないが、徐々に距離を縮められていることは明白だった。

 やはり時間をかけると地力の差が表れてくる。

 シルはここで考える。

 コンディションの良さという武器があるうちに勝負に出るべきだろうか。このまま森を抜けても平原では身を隠せない。

 しかし、森の中を駆け回るだけでは捕まるのも時間の問題だ。

「はあ、はあ……」

 シルの斜め前を走っていたラッコは時間と共にスピードが落ちて、今ではほとんど併走状態だ。

 元の脚力で言えばシルの方が上であるのでシルがラッコに追いついたという見方もできるが、この場合は彼の持久力がピークを過ぎ始めたということになるだろう。

 悩んでいる時間はない。

「ラッコっ」

「わかった」

 ラッコも同様の考えをしていたようで、シルが声をかけるとすぐに短剣を抜く。

 シルは振り向いて奇襲をかけるタイミングを計る。

 こちらの一撃が届き、尚且つ相手が避けきれない状況。

 リーチの問題は相手から接近してくれるのだから問題ない。ならば、相手にとって不利な状況とは何か。

 シルの眼前に背の低い木が迫る。決して大きくない木だが、今はそれが有用に思えた。自分たちがタイミング良く枝を潜り抜けられれば、斜め下を向いた枝は後方にいる追っての視界を遮ってくれるかもしれない。

 彼女は小声で話しかける。

「あの木を過ぎたら仕掛けるよ」

「……うん」

 ラッコは荒い呼吸の合間にどうにか返事をする。この返答がシルに不安を抱かせた。

 彼はまともに戦えないかもしれないという不安だ。その不安は彼の足に力が弱々しくなってきているのを目の当たりにしたとき、確信へと変わる。

「…………」

 シルは無言のまま深く呼吸をした。

 これからどうなろうと、自分が決めたことは変わらない。ラッコは自分が守るのだという決意は嘘ではないのだから。

 そして、目印のに辿り着き、ラッコとシルは左右に分かれた。

 それと同時に背負っていた荷物を瞬時に捨てて攻撃の体勢になる。

 シルは低い枝を潜ると持ち歩いていた斧を構えて斜め下から力一杯振るった。

「でえぇぇいっ!」

 ラズと呼ばれていた追っての少女は一瞬だけ枝に視界を遮られてしまうものの、シルの放つ殺気と月明かりで反射した斧の光りが斜め下から見えたことで躱すことに成功する。

 奇襲が失敗したことで、シルは完全に不利な状況となってしまった。

 力一杯振られた斧は遠心力であらぬ方向へと向かい、その動きにシルも引きずられてしまう。

 攻撃をしくじって隙を晒しただけでなく、奇襲の失敗によって相手は反撃の機会を得てしまったのだ。

 だが、シルにはそんなことよりも遥かに重要なことを知ってしまう。

「ラッコ……」

 斧を振ったときに視界に入ってきたのは、木の根に足を引っかけてしまったラッコの姿だった。振り返って短剣を刺そうとしたときに足を上手く運べなかったのだろう。やはり彼は逃走で体力を使いすぎてしまったのだ。

 追手の男は転倒しそうになったラッコの腕を掴む。

「タイミングは良かったが、肝心の攻撃がダメだったな」

 男はラズが攻撃を躱したことを視界の隅で見たようで、シルを気に掛けることなく剣を抜く。

 ラッコを助けなければならない。シルがそう思った瞬間、彼女の視界の端に光が見えた。反射的に身を捩ると、彼女の顔のすぐ横をナイフで突かれる。

 体勢を崩しかけたシルに再びラズのナイフが襲い掛かった。

「あっ」

 これは躱せない。そう思って片手を振って防御しようとしたとき、シルは足元の小石を踏んでしまう。完全に体勢を崩したことと振った腕にラズの腕が接触したことによって、ナイフはシルの心臓ではなく左の肩に刺さった。

「ぐうっ!」

 シルは声を抑えるものの、痛みに一時身を強張らせながら転倒してしまう。

 追撃を阻止するためにシルが斧を振ると、ラズは回避のために距離をとった。

 このチャンスを逃すわけにはいかない。

「うっ、う……」

 シルは力の限りを出して立ち上がると、その勢いのままにラッコの方へと駆ける。

 ラズはシルとの距離を詰めながら、男に叫ぶ。

「そっち行ったぞ!」

 これは不幸中の幸いだった。ラッコを殺そうとしていた男はラズの言葉で意識をシルへと向ける。これにより僅かな時間ができてラッコの命が繋がる。

 一方、ラズはシルの斜め後方から彼女を刺すべくナイフを握った腕を伸ばした。

「邪魔をするなぁっ!」

 シルは一瞥すると左腕をわざとナイフに向けて動かす。金属が肉を裂く感触にシルは歯を食いしばった。左腕は重症だが、ナイフが腕に食い込んだことで致命傷を免れた。

 ラズはシルの捨て身の行動と気迫に身体の力が空回りするのを感じる。

 男もシルに視線を向けたまま、このまま攻撃すればラッコが逃げ出す時間を稼げるだろう。カウンターで間違いなく自分は死ぬだろうが、シルにとってはそんなことはどうでもいい。

 だが、あと一歩のところで新たな障害が現れる。

「っ!?」

 シルの視界が突然揺れる。それだけでなく、身体の一部が痺れているのにも気がついた。

 不測の事態。思い当たるのはラズのナイフだ。おそらく彼女のナイフには毒が塗ってあったのだろう。どんな毒なのかは知らないが、ラズたちのこれまでの言動から察するに、おそらくは致死性の毒だろう。

「っ!」

 シルは身体に上手く力が入らない。シルの動きが鈍くなる様子を見て、男は完全に油断していた。ラッコが男の腰にさしていたナイフを奪うのを許してしまうほどに。

「このガキっ!?」

 男は気がついてラッコを斬り殺そうとするが、彼は男の首にナイフを突き刺そうとする。腕に刺されても耐えられる男だが、首に刺されば致命傷。男は咄嗟にラッコを地面に叩きつけた。

「オエッ」

 また一時だけ生き永らえたラッコは声を漏らしながらもナイフをシルの背後に投げる。

 シルの背後から止めを差そうとしていたラズは条件反射でラッコのナイフを躱してしまう。

「ごげぇっ」

 その一瞬の間が生死を分けた。シルは、ラッコを始末しようと剣を振りかぶった男よりも早く、斧を振り下ろし男の頭部を叩き割る。

 シルは麻痺のせいで斧を振り下ろした勢いのままに地面へと倒れ込んだ。

 一難去ったがまだ窮地には変わりない。命を救ってくれたシルに代わってこの危機を脱すべく、ラッコは死んだ男の剣を取る。

 ラズは相方の死を目にしたもののそこまで動じた様子もなく倒れたシルに飛びついた。

「させない」

 ラッコはシルへと飛び掛かったラズに向けて剣を突く。

 しかし、ラズはラッコの動きを読んでいた。

 シルに飛びつく際、微かに身を捩ることで切っ先が当たらないようにしていたのだ。

 立ち上がってもいないラッコは剣を思うようには振れない。

 ラズのナイフがシルの首を斬りつけたらすぐにラッコが襲われるだろう。

 ラズとラッコは同時に同じ未来をイメージする。

「そんな攻撃……なにっ!?」

 ラズが倒れ込んだシルの背中に張りつく。ラズがシルの首を斬りつけるのに

 一秒もかからないだろうが、想定外の出来事は彼女がシルの背中に張り付いたのとほぼ同時に起こった。

 シルはラズが背中に飛び掛かったまさにそのとき、寝返りを打つように身を動かす。

 ラズはシルが逃れようとしているのだと思って彼女の身体を掴んだ。それがいけなかった。ラズはシルに振られた勢いでそのままラッコの剣の切っ先に飛び込んでしまう。

 躱したはずの刃は今度こそラズの胸に鎖骨近くから突き刺さった。

「こんなことがっ!?」

 肺に傷がついたのかラズの口からは声だけでなく血も溢れ出る。

 ラッコは手にした剣が肉の先、細い骨に当たる感触が伝わると、近くに落ちていた自分の短剣を拾う。

 ラズに止めを差そうと這いつくばったまま彼女を短剣で突こうとすると、ラズがカウンターの一撃を繰り出してきた。

 しかし、剣が胸に刺さっているせいかラズのナイフは明後日の方角を切り裂く。そればかりか、ラッコの短剣にラズの指が接触してしまい、彼女の右手の薬指と小指が薄手の手袋ごと切り落とされてしまった。

 ラズは血の泡を吹きだすと、目から日からを失ってそのまま力尽きる。

「とどめ……いや、シルが先……」

 ラッコは慌ててシルを抱き起す。

 彼女の呼吸は荒い。それも疲労などとは違う荒さだ。

「ナイフ、毒……」

 かろうじて呟いたシルは脂汗をかいている。傷口から毒の混じった血を抜くのはもう手遅れだ。ずっと興奮状態だったシルは全身に毒の混じった血がめぐっているだろう。

「なにか手は……」

 焦燥感に駆られるラッコの目に、ラズの死体が映る。

 毒を扱うラズは、解毒薬を持っているのではないか。ラッコはシルを再び寝かせると一抹の希望に縋ってラズの死体を探る。

 暗殺や奇襲のためであろうラズの黒い衣服は闇夜で見えにくかったが、剣で切り裂かれた彼女の胸元に小瓶のついたアクセサリーを見つける。

 それとは別に、ポーチの中にナイフの手入れをするためのキットと別の小瓶を見つけた。

 これらは解毒薬なのか、それとも毒なのか。ラッコには判別できない。

 それでも他にそれらしきものもない。

 ラッコは胸元の方の小瓶を開ける。

「毒の小瓶を二つにわける必要はない。飲食物に混入させる目的でないのなら、胸元に毒を入れる意味もないはず」

 ラッコは自分に言い聞かせる。これは間違った選択ではないのだと。

 彼はシルを抱き起して小瓶の液体を飲ませた。

 荒い呼吸を繰り返すシルのために、三、四回に分けて口へと流す。

 全て飲み終えてから十秒程度の間を置いて、シルは突如咳き込んだ。

「シルっ」

 毒だったのだろうか。ラッコから血の気が引く。

 シルは何度か咳き込んだあと嘔吐した。

 血の混じった吐瀉物を出し切ると、彼女は次第に落ち着いて最後は気を失った。

「あとは手当」

 最悪の事態は免れたが安心はできない。ラッコは傷薬と布でシルの肩と左腕を止血し、傷口を抑える。どこかでシルを休ませねばならない。

 ラッコはリュックの一つを腹側に向けてかけてからシルを背負う。もう一つの荷物は若干引きずるようにして少しずつ歩き出した。

 とにかくこの場を離れなければならない。その思いが彼を駆り立てる。

 ラッコはラズの死体から背を向けていたので気がつかなかった。

 彼の持っていたヨヨの種の袋が開いていたことと、少量の種がラズの死体の回りに零れていたことに。

 そして、ヨヨから渡された種は地面に流れ出たラズの血を吸って異常な早さで成長していたことにも気がつかなった。

 ラッコとシルが完全に闇夜へと姿を消した頃、血を吸ったヨヨの種からは芽のみならず細い蔦が伸びてラズの死体を覆う。

 夜が明ける頃、ラズの死体はどこかへと消えていた。

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