第30話 喧騒の始まり
ペフと別れたシルたちは森林を抜けて獣人の国の都へと続く街道を歩いていた。
しかし、二人は都へ行くわけではない。人間であるラッコと亜人のシルが獣人たちに歓迎されないのは想像に難くないのだから、わざわざリスクを犯す必要もないのである。
二人が目指すのは獣人の国の都の西側にあるキサノビュという地域だ。ラッコたちは先日助けたスハトラの伝手で人間の国に行こうと計画している。
「この街道を真っ直ぐ歩いて行くと、獣人の国の首都、ミケンが見えてくるわ。大きな城壁に囲まれた街だから、見ればすぐにわかると思う」
地図を確認しながらシルは呟いた。
彼女の横から地図を見たラッコは街道に出る前に計画していたルートを再確認する。
「ミケンが見えてきたら、西側に歩いてキサノビュを目指すんだよね?」
「そう。なるべく獣人に会わないようにしないといけないから、しばらく街道を逸れて移動することになると思う」
獣人に差別されている亜人と獣人と戦争状態にある人間。亜人と人間の二人組が獣人に出会えばどんな目に遭うかわからない。
ただでさえミケンに近い獣人たちは特に差別が酷いと聞いているし、ペフの村のときも二人が芝居を打たなければラッコは拘束されていたかもしれないのだ。
「いつ獣人に出会うかわからないから、ラッコはスハトラに会うまでフードを被っててね」
「わかった」
森林を抜けてから街道を歩いている二人だが、今のところ獣人とは遭遇していない。
ミケンは首都なので人や物資の行き来もありそうだが、この街道はあまり使われていないのだろうか。
シルがそんなことを考えているうちに段々と日が傾き始める。
夜になってしまえばミケンを視認するのは困難だ。完全に日が暮れる前に進路の目印であるミケンを見つけたい。
シルの焦燥感は歩行速度に現れ、それはラッコにも伝染する。
二人が無言のまま歩いていると、やがて周辺の景色から木々が減り、シルたちの膝くらいの草花が茂る草原へと変わり出した。
視界を遮るものの無くなった状態で、シルは大掛かりな建造物を見つけることができた。
「ミケンだ」
「あれがそうなのか。確かに大きいね」
遠方からでもわかるほどの壁に囲まれた都。夕焼けに照らされるその姿は、無骨な岩石を思わせる。
ラッコは興味本位で遠眼鏡を使ってミケンを見てみた。
流石に望遠鏡ほどはっきりとは見えないが、黒い石を積み上げた壁以外にも確認できるものがあった。
「あれはなんだろう?」
「どれ?」
ラッコはシルに遠眼鏡を渡して見えたものを説明する。
「何かの列みたいなのがミケンに入ってる」
シルはラッコの指差す方角を確認した。
「…………あれは、獣人の軍隊ね。もしかしたら、高名な将軍とか、特別な来賓とかがミケンに来ているのかもしれないわ」
憶測でものを言ったシルだが、獣人の人物には明るくない。具体的に誰が獣人の都にいるのかなんて知りもしないし、興味もなかった。
シルは「行きましょ」とだけ言って遠眼鏡を鞄に仕舞うと再び歩きだす。
街道を外れて草原を歩き、西側の森を目指すのだ。
こちらが視認できた以上、ミケンに近い位置にいる獣人もシルやラッコを見つけることができるはず。見つかって怪しまれる前に西の森で夜を過ごしたい。
街道を外れると魔物や盗賊などに襲われるリスクが格段に高くなる。それが森や山なら猶更だ。
しかし、この平原は遮蔽物がないため獣人に見つかるというリスクが存在しているし、森は計画したルートでもある。シルは森の平原近くで夜を明かして翌朝すぐに森を抜けるのが得策だと考えていた。
二人はよそ見もせずにひたすら歩く。その甲斐あって陽が完全に暮れる少し前、どうにか森まで辿りつくことができた。
ラッコは息を吐いてシルに話しかける。
「獣人に会わなくてよかったよ」
「油断しちゃだめ。森にも獣人はいるかもしれないし、夜の森は他にも危険が多いの」
「わかった。気をつけるよ」
そう。二人はペフと別れてから獣人に会っていない。ミケンの近くの街道、草原、そして今いる森。ここまで獣人と会わない理由は何なのか。
シルの頭の片隅で、ずっと疑問が渦巻いている。
しかし、彼女の疑問が解消されるより先に別の問題が浮上してきた。
「どこで夜を明かそうか」
ラッコの素朴な疑問は直ぐにシルの思考を切り替えさせる。
夜を過ごすためのシェルターを用意するのは火急の課題だった。
この森にどんな生物がいて、どんな気候で、どんな地形なのか。シルは情報を何一つ知らない。もしも地上に危険な生物の縄張りがあるのなら、少し高い位置に寝床を用意する必要があるし、気温の低下や風雨が頻繁なら屋根を作らなければならないのだ。
だが、悠長に考え、作業する時間などない。もう日没なのだ。
シルは内心の焦りを隠せなかった。
「ラッコ、ごめん……まだ何も決まってない……」
シルは周囲に視線を回しながら詫びる。
普段なら夜を明かすための準備についても考えていただろうが、今回は獣人の動向にばかり気を奪われていた。
シルとラッコは必死に今夜の寝床を探す。
ランタンの灯りを頼りに光の失われた森を歩き続けると、ラッコは何かを見つけた。
「あれ、あそこに洞窟みたいなのない?」
ラッコの指差す方へシルがランタンを向けて近づく。するとぼんやりとしたシルエットが浮かび上がって来た。どうやら小さい洞があるみたいだ。
二人は警戒しながら洞の入り口へと近づく。
シルがランタンで洞窟内部を照らして確認。ラッコも周囲に動物などが接近していないか注意してから内部へと目を向けた。
「動物とかは住んでいないみたい」
糞尿や寝床、仕留めた獲物などの痕跡もないので肉食獣の縄張りというわけでもなさそうだ。
「奥行は小部屋くらいの広さだね」
寝泊りにはいいが、三人以上で住むとなると少し狭い。それが洞窟を見たラッコの感想だった。
「今夜はここで過ごすしかなさそうだな」
シルの言葉にラッコも同意し、二人は洞窟の中へと入り荷物を下ろした。
ようやく腰を落ち着けることのできたシルは、ランタンの灯りを弱くしてラッコに話しかける。
「今日は交代で見張りをして寝よう。私が見張ってるから、先に寝てていいよ」
これはラッコへの気遣いというより、焦燥などで目が冴えてしまったシル自身の都合もあった。
「ありがとう」
実際のところ、ラッコもそんなに眠くはなかったが、何かをするわけでもないので少しでも身体を休めたいという思いはある。
ラッコは硬い床の上、衣類などが入ったリュックを枕替わりにして横たわる。
そうしてラッコが目を閉じてしばらくすると、シルの耳に穏やかな寝息が聞こえ始めた。
シルはその規則的なリズムで心をほぐす。凝り固まった思考や、意識が緩やかに解き放たれるのを感じていると、不意にあることに気がついた。
この洞窟は動物の住処ではない。そもそもこの森に来てから動物の気配どころか鳴き声さえまともに聞いていない。
姿を見せないのは亜人や人間を警戒しているからなのだろうが、獣道は見かけた以上付近にそれなりのサイズの動物が生息しているはずである。
なら、その動物は何処に。そして、なぜこの洞窟には何も住んでいないのか。そもそも、どうしてここまで不自然なほどに内部が綺麗なのか。
理由なんていくらでもあるはずの事柄に思考が及んだとき、シルは不意に何かを感じた。
咄嗟にランタンの灯りを消して、ラッコを起こす。
「起きて」
小声だが、彼を揺する力は強い。すぐにラッコは目を覚まして短剣を手に取った。
「どうしたの?」
「ここを離れた方がいいかもしれない」
ただの杞憂かもしれないが、どうしてだかシルはそう思ってしまう。
ラッコは特に意見せず、素早く荷物を纏めると洞窟を出るために外へと視線を向けた。
「待って」
シルは彼の服を掴んで壁側に引き寄せ、身を隠しながら息を殺す。
何かに気がついたというより、ほとんど直感による行動だった。そして、彼女はその感覚に救われる。
静寂の中に、茂みを揺らす音が伝わって来た。
この洞窟の方に何かが向かって来ているようだ。
出るべきか、耐えるべきか。出るならいつ出るのか。毎秒選択を迫られる二人。
呼吸を合わせ、足に力を入れようとしたとき、洞窟の外から声が聞こえた。
中年の男性らしき低い声だ。
「おいラズ。まだピリピリしてんのか?」
応えたのは少し高い声、シルと同年代くらいの少女だろうか。
「あたりまえだ。せっかくここまで来たのに、テデネールの支援が受けられないなら待機か後退だなんて」
「まあ、焦っても仕方ねえ。あの新しい寝床も綺麗にしたんだし、バーベの奴らが来るまでの間少し飲んでようぜ。ミケンは逃げやしねえ。この前は国境付近の亜人と獣人も始末したんだし、味方が来ればじっくり攻められるさ」
シルとラッコは一秒にも満たない時間で顔を見合わせ、一目散に洞窟を駆けだした。
最悪の状況だ。ここは人間の軍の先遣隊が根城にするつもりだったらしい。
どうりで異様に綺麗な内部だったわけだ。
「うお、なんだ? 獣か?」
「違う、誰か逃げたんだ!」
「ミケンの奴らだと厄介だな。追うぞっ」
シルたちの背後で会話が聞こえるが、そんなものに気を回す余裕なんてない。
会話からするに、連中は人間側の軍勢で、露払いや偵察が任務なのだろう。
シルは闇夜の障害物を躱して駆けながらこれまでの疑問を結ぶ。
周辺に獣人がいなかったこと、獣の気配もなかったこと、それらの原因が今自分たちを追っている連中であること。
そして、こんな連中がミケンの目と鼻の先で寝泊りできるほどに人間の勢力が強まり、ミケンにまで手を伸ばしかけていること。
日中に見かけたことを思い出す。ミケンに多くの人員が入って行ったのはおそらく、首都防衛のための兵だったのだろう。
そんなことを今更知ったって何の意味もないが。
人間の国へ行くという目的なら人間との接触は不可欠だが、彼らの言動や今の状況で人間と亜人のコンビであるラッコとシルがまともな扱いをしてもらえるとは到底思えない。
シルは一瞬だけ考える。自分はともかくラッコだけならどうにか、いや、獣人側の協力者と思われたらその場で殺されかねない。やはりキサノビュに行くしかないか。
疲労と緊張で火照った身体は不思議と軽く、斜め後ろを走るラッコの足音も軽快だ。
コンディションは悪くない。
後は、逃げ切るか迎え撃つか、それを見極めるだけ。
雲と重なった月は微かに二人の行く先を照らし、これから起こる森の喧騒を浮かび上がらせるのだった。
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