第29話 寸劇の舞台裏
ペフたちの村から離れたシルは街道沿いに歩きつつ徐々に左端の林へと近づいた。
後方にいるラッコの様子が気になって仕方ないものの、今は振り返らずに林の中へと入る。
木々の間を少し進んだところでシルは周囲を見渡した後、背後へ身体ごと向けた。
不安な面持ちで林の入り口を見つめる彼女の瞳に、傷を負った少年が映る。
ラッコが林に入るとシルは手にしていた荷物をその場に落して彼の元へと駆け寄った。
「ラッコ!」
「おっと」
瞳に涙を浮かべて飛びつく少女を傷だらけの少年は優しく受け止めた。
足に上手く力が入らないのか、シルを受け止めたラッコは少しふらつく。その様子を目の当たりにしたシルは湛えていた涙を零して彼を抱きしめた。
「ごめんね……ごめんなさい……」
窮地を切り抜けるためといえ、何度も殴りつけたことを詫びる。
だが、ラッコは彼女を責めようなどとは考えていない。それどころか感謝さえしていた。
「謝らないで。あの場でシルが動いてくれなかったら、僕は捕まってたかもしれないんだ。こんなの安いもんだよ」
ラッコは切れて血の流れた唇のままそう答えた。
シルは彼を手当するために林の少し奥にある太い幹まで荷物を運び、ラッコを座らせる。
半泣きの彼女は薬や清潔な布を取り出すと水でラッコの顔や腕などの見えている傷を洗う。傷の原因は殴打なので痣になっているものが多い。しかし、地面に倒れ込んだときに小石で切ったり、ベルトなどの金具が擦れてかすり傷になっていたりと出血自体は皆無ではない。
脱力したラッコは幹に背を預けて座り込み、彼女に身を任せていた。
薬液を布に浸したシルは自分がつけた傷を手当するため静かに布を傷口に当てていく。
「う……っ」
ラッコは水で傷を洗われるのが心地よくて油断していた。薬液が傷に染みて少し声を出してしまう。
それがシルには傷の深刻さを訴えるように聞こえてしまったらしい。手を震わせ、顔を青くした彼女はラッコの服をまくって手当をする頃になるとすすり泣いていた。
ラッコは何か声をかけたかったが、今の彼女に何を言っても過剰に刺激するだけだろうと考える。
殴打された箇所に薬を塗布されながらラッコは深く呼吸した。
処置が終われば彼女も少しは持ち直すはずだ。そのときに自分から「もう大丈夫だ」と一言かければいい。そのときを待てばいいだけだ。
それなのに、そうわかっているのに。シルの泣く声と涙がラッコの腕に力を入れる。
「ラッコ?」
困惑するシルに左腕を伸ばして彼女の肩を掴む。確かな感触が手に伝わったとき、彼はシルを自分の元に抱き寄せた。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。僕は結構頑丈なんだから」
シルを安心させるために抱き寄せたのではない。彼女のためにこんな言葉を口にしたのではない。自分が彼女を見ていて辛いから、自分を助けるためにさせてしまったことでシルの心を傷つけるのに罪悪感があるからこんな行動に出たのだ。
そんな思考が一瞬ラッコの頭を過る。そんな彼の思考とは裏腹に抱きしめられたシルは幾分か良い影響を受けたようで、涙を止めてしばし瞳を閉じる。
そして、先程までどんなことを思っていようとも、シルの落ち着いた様子を見れば確かに嬉しいと思える自分がいることにラッコも気がついていた。
それは、罪悪感などの負の感情ではなくて、ただ大切な人の幸せを願うような、じんわりとした温もりとなって彼の胸に広がっていく。
どれくらいそうしていただろうか。
二人は近くで物音がしたために慌てて振り向いた。
木々の隙間から姿を見せたのはペフだ。
「やっと気がついた。あんまり密着してるから声かけるのも躊躇ったじゃんかよ」
ペフはずっと二人の様子を伺っていたらしい。彼の言葉を聞いて、シルもラッコも顔を赤くする。別段やましいことなどしていなくとも、素直な感情を剝き出しにして向かい合っていたのを見られると恥ずかしい。
「そんな顔されたらこっちまで恥ずかしくなるじゃないか」
ペフは視線を泳がせながらも手にしていた革袋を差し出した。
「ん? これをくれるの?」
「母ちゃんが持って行けって」
シルが手を伸ばして受け取ると袋はその重みを主張する。
開けてみると、中には傷薬と保存食が入っていた。
おそらく、ペフの母はシルとラッコが村を去ってすぐに準備したのだろう。
「ありがとう」
「礼は母ちゃんに会ったときに言ってくれよな」
ラッコの感謝にペフはバツが悪そうな態度を見せる。
「もちろんそうだけど。ペフもこれを持ってきてくれたんだから、僕はそれに感謝するよ」
「そうよ。ありがとうペフ」
「……どういたしまして」
その後、ペフは村の様子やシルたちがどこを通って移動するのが良いのかを説明した。
「助かったよ。僕たちはもう少ししたら移動するから、ペフも早めに戻った方がいいよ」
「そうだな……また会うまで元気でいろよ?」
「当り前よ。ペフの方こそ」
別れるのは惜しいが、いつまでもここにいることはできない。ましてやペフのいる村に戻ることも。
ペフは別れの決心が鈍らないうちに林の奥へと歩き出したが、それでも何度か振り返った。その度にシルたちも手を振る。
やがてペフの姿が林の奥へと消えると、ラッコは自身の心に靄がかかっていることに気がついた。
旅の目的が自身の世界への帰還である以上、ペフと再会しない可能性は十二分にある。けれども、心のどこかではもう一度彼に会いたいという思いもある。できることなら平和な時に。
シルも同じ気持ちらしく、二人で顔を見合わせて苦笑した。
故郷へ帰る手段が見つかったら、ちゃんとお別れをしに行こうか。そのときはペフを救ったスハトラも一緒に。
そんな淡い想いがラッコとシルの胸に宿った。
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