第9話 坑道の魔物

 よく晴れた朝、二人は石切場から歩き出し、賊が根城にしている小屋を見張る。

 複数の小屋がある広場は乾燥した砂を風が巻き上げて荒涼とした印象をラッコに植え付けた。

 しばらく経つと、数人の亜人と馬の獣人が小屋を出てどこかへ向かって行く。おそらくまた林へと向かったのだろう。ラッコ達はこの機を逃すまいと急いで移動する。

 しかし、ここで問題が発生した。

「なんだお前達は!」

 猪のような耳をした亜人の男に声をかけられた。

 予想外のことに戸惑うラッコだが、その男の声色と形相から友好的でないことくらいはわかる。

「怪しい者じゃない。ここを通りたいだけだ」

 シルは毅然とした態度で言い切った。少しでも弱みを見せたり不信感を募らせれば危険が増す。彼女は男から死角になるよう身体の向きを僅かに変えてポーチから目潰しの小さい袋を取り出して手に内に隠す。

 ラッコも身体の震えを抑えようと拳を握って背を伸ばす。

 だが、賊の男は間髪入れずに否定する。

「嘘をつくな。ここを通る奴なんて滅多にいねえんだ。街道を通らずに廃墟の鉱山に来る奴なんて不自然だろうが!」

 言い終わる前にシルへ襲いかかろうとする男。シルは咄嗟に隠し持っていた目潰しを投げつけた。

「うおっ」

 怯む男。この隙に駆け抜けようとしたが、進行方向から別の男が姿を現す。

「誰かいるのか?」

「まずい」

 シルがつぶやいて咄嗟に別の方向へ逃げる。シルは目潰しを投げて時間を稼ぐがその間に角笛の音が聞こえた。

 さっきの男が仲間を呼び戻しているのかもしれない。

 ラッコとシルは二人の男から逃れるため走り回り、近くの坑道へと入っていった。暗く凸凹とした道を駆け抜ける。

 背後から追ってくる男たち。

 やがてほとんど光が入らない場所までやってくる。

 二人は採掘に使われる線路の感触を頼りに走り続け、足元が全く見えない空間に出てしまう。

「どこに行きやがった」

 追っ手の声が響く、暗くて姿は見えないがそれは向こうも同じようだ。自分たちの位置を知られないようにランタンはつけずに行動する。

「怪しいガキ共だぜ。目潰しや大荷物。この近くの村に住んでるわけじゃなそうだな」

 敵意丸出しの声が真っ暗の空間に響きわたる。この暗さでは人間であるラッコには何も見えない。

 ここを根倉にしているのであろうコウモリの糞や小動物の匂いもあって、ラッコは鼻も効かなくなっている。彼にとって信頼できる情報は手の感触と音だけだ。

 淀んだ空気に纏わりつかれながら、息を潜めて周囲を探る。

 やがてラッコは壁のようなものに触れた。

「ああ、林で俺らが待ち伏せしてんのもあいつらが知らせたのかもしれねえ」

「もしかしたら、南の宿を襲いにいった二人もあいつらのせいで捕まったのかもしんねえな」

 その言葉にラッコは息を呑む。今すぐそばにいる賊達はシルの両親を殺した連中の仲間だったのだ。

 ラッコがどうやってこの場を切り抜けるか考えていると、不意に衣擦れと金具を外すような音が微かに聞こえる。

 シルが腰につけていた斧を外している。彼女はここで両親の仇を討つつもりだ。

「なんか音がしねえか?」

「ああ、ガキ共が近くにいるのかもしれねえ。俺はちょうど目が慣れてきたからいいタイミングだ」

 どうやら、賊の一人は夜目がきくタイプの亜人らしい。

 賊との位置が近いのはラッコ自身にも気配でわかる。夜目がきく男に見つかっていないのは、ラッコのいる場所が物陰のようになっているからなのかもしれない。

 彼にとっては幸いだが、このままだとシルが見つかってしまうのは時間の問題だ。

 しかし、今のラッコは戦力として役に立たない。

 どうするべきか悩み、焦るラッコ。そのとき、ベルトに下げたランタンが壁に擦れた。

「そこに誰かいるな!」

 金属の擦れる音に気がつく男達、殺気を向けられたラッコは恐怖と同時に一つの考えが浮かんだ。それは賭けだったが、彼にとっては唯一の手段でもある。

 ラッコはベルトからランタンを外すと、灯りを最大にしてつけた。

「バカめ! お前の場所が丸わかりだ!」

 周囲を照らす光が醜い笑みを浮かべる男たちを照らす。人を害することに悦びを見出した者の笑みだ。

 男たちが襲いかかるのとほとんど同時に横から薪割り用の斧が飛び出してくる。

「うごがぁっ!?」

 奥にいた男の頭に斧が直撃する。シルがやってくれたのだ。

「なんだぁがっ!?」

 仲間がやられたことに気がついた男が後ろを振り向くと、咄嗟にラッコが短剣で首を斬りつける。

 男はしばらく暴れるが、すぐに離れたラッコをどうすることもできず、しばらくして倒れた。

「ラッコ。ありがとう」

 ランタンの灯りをつけたシルがお礼を言ってきた。

「ううん。僕の方こそ」

 ランタンで男達の死体を確認する。身を守るため。シルの両親の仇。そう思っているせいか、ラッコは初めて亜人を殺したときほど、罪悪感や恐怖を感じなかった。何か大切なものが磨耗しているのかもしれないと彼は少しだけ不安になる。

「シル、これからどうしようか?」

 ラッコは考えるのをやめたくて彼女に話を振ってみる。

「私は、あいつらを許せない。両親の仇だから……」

 シルの静かな怒りや固い意志を感じる声。ラッコはそれに反対しない。

「わかった。僕も手伝うよ」

 それでも、すぐに外に出ることはしなかった。何も準備ができていない状態で小屋の場所まで戻っても返り討ちにあうだけ。とりあえず使えそうなものがないかを探しつつ、夜を待つために坑道の奥を探索することに決めた。

 ランタンで暗闇を照らしながら歩く二人。足元の線路だけが彼らの頼りだった。

「この坑道って、どうして放棄されたんだろうね?」

 ふと気になった事をシルに聞いてみる。線路はしっかりとしており、坑道の外には小屋なども綺麗に残っていた。

「なんでも、少し前に問題が起きたらしくて、それから採掘できなくなったらしい。私も村で聞いただけだから、それが事故なのか作業者が揉めたのかはわからない」

「そうなんだ」

 彼女の言う原因が、落盤事故でない事を祈りつつ歩みを進めていくと、線路の先に明かりが見えた。

 不思議に思って近づくと、その明かりは青白く、見覚えのあるものだと気がつく。

「フレイト鉱石だ」

 シルが答えを教えてくれる。二人が歩いていくと、広い空間に出た。そこは巨大な地下の空洞で、採掘されていないフレイト鉱石が周囲の壁や地面、天井にも無数にある。そのためこの空洞は異様に明るく。二人はお互いの顔もはっきり見えるほどだった。

「こんなにたくさんのフレイト鉱石が……」

 ここに来るまで事故の形跡などは見受けられなかった。それなのに、ここまで大量のフレイト鉱石が採掘されないままに残されているのはどうしてだろうか。

 周囲を見渡すと、奥に進める道を見つける。

「道があるね」

「道がある」

 そう言って顔を見合うシルとラッコ。

 二人は僅かな好奇心に背中を押されて探索する。

「この先には鉱石がないのかな」

「そうだな。暗くてよく見えない」

 二人はランタンの灯りを頼りに奥を目指す。

 道が続いているのだから、何かあるのだろう。

 そうお持って歩いていくと、壁があった。

 その壁は坑道の壁というより岩が崩れたような壁だった。近づいて確かめると岩が重なっており、ラッコ達には動かすことなどできそうもなかった。

「行き止まりだ」

「仕方ない戻ろう」

 そう言って来た道を戻ろうとしたとき、岩の壁から声が聞こえた。

「誰かおるのか? 後生じゃ。予を助けてたもれ……」

 少女とも少年ともつかない中性的な弱々しい声。

「誰かいるの?」

 シルが声をかけると壁から聞こえる声はさっきよりもはっきり聞こえてきた。

「そうじゃ。この洞窟に来たら岩に阻まれて出られなくなってしまったのじゃ」

「どうすればいいんだい?」

 ラッコが訪ねると、すぐさま声が返ってくる。

「フレイト鉱石を精製した魔力燃料があればすぐに出られるのじゃ。容器に入れて岩の隙間からこちらに渡してくれれば大丈夫なのじゃが……」

 声しか聞こえない相手など普段なら怪しむところだが、シルもラッコも自分たちのように賊から逃げてきた人がいるのかもしれないと勝手に思い込み、どうにかして救出しようと考えていた。

「わかった。フレイト鉱石ならすぐそばだから、精製してくる」

 シルはそう言ってラッコを連れ出した。

 地下空洞に戻ったシルは足元に転がるフレイト鉱石の欠片を手にとってラッコに説明を始める。

「ラッコ。フレイト鉱石は魔力の燃料になるんだけど、精製した方が燃料として効率が良いんだ。ちょっとやって見せるぞ」

「お願いします」

 シルはショルダーバックから金属製の精製機を取り出す。シルの腕くらいの二の腕くらいのサイズがある精製機の上には蓋がついており、その下には金属の容器のようなものが接続されていた。

 精製機の上にある蓋を開けてフレイト鉱石を入れていく。蓋を閉めてから少し待つと、側面の水銀体温計のようなメモリが一杯になる。シルは下部に接続された容器を外すと、中身をラッコに見せてくれた。

「これがフレイト鉱石から精製した魔力の燃料だ」

 容器の中には青く輝く液体が入っている。

「綺麗な色だね」

「ふふっ、あんまり刺激を与えると燃えたり、爆発するから気をつけるんだぞ」

 悪戯っ子のような顔で囁くシル。

「ええっ!?」

「ちょっと揺らしたり、容器を落としたくらいなら大丈夫。それにこの容器はそうならないように特殊な加工がされているんだ」

 ラッコは驚いたり感心したりと忙しい。ラッコの知らないこの世界の技術は、シルや自分の生活になくてはならないのだろう。仕組みは知らなくとも、そういうものだとわかれば過剰に恐れることはない。

 ラッコだってシルにもらったランタンがどういう仕組みで光っているのか知らないが、扱うことができる。

「最後に、上の蓋を開けて、フレイト鉱石に混じっていた不純物を捨てるのを忘れないようにするんだぞ」

 少し上機嫌なシルは、精製機の蓋を開けて中の滓を捨てる。ボロボロと出てくる滓を見れば、どれだけ不純物があったのか、またどれほどフレイトの燃料効率がよくなったのかわかるというものだ。

 ラッコも自身のショルダーバックから精製機を取り出し、シルの説明通りに精製に取り掛かる。

「この精製機ってどういう原理で動いてるだろ?」

「元々は人間の技術だってお母さんは言ってたぞ。中に入れたフレイト鉱石を少しだけ使ってこの精製機を動かすんだって」

「すごい技術だね」

 素直にそう思う。ラッコはこの世界の技術を扱えないどころかまったくの無知なので尚更だ。

 シルの話では生活に使う必需品なので精製機自体は安価で売られており、城や工場などにはもっと巨大な精製機も存在すると教えてくれた。

 ラッコが巨大な施設の巨大な設備に思い馳せているうちに作業が終わる。何本かの容器に満杯の魔力燃料。これだけあれば大丈夫だろうと二人で岩の壁まで運んだ。

 このときは、壁の向こうの人物がなぜ「魔力の燃料」、もっと言えば「純粋なフレイト」を欲しがっていたのか考えもしなかった。考えても「壁を破壊するのにでも使うのだろう」くらいにしか思わなかった。

「精製したフレイトを持ってきたぞ」

 そう言ってシルは岩の隙間に容器を入れていく。

 すると壁の向こうから歓喜の声が響いた。

「おおっ、純粋な魔力じゃ。ありがたいありがたい」

 容器が岩の隙間に引き込まれると、蓋を開ける音が聞こえる。

 そして、精製された魔力の燃料でもある液体を飲む音が聞こえてきた。

「ぷはー! 美味いのじゃ!」

 ガソリンや石油を飲んで生きる人間がいないように、この世界でもフレイトを食用にする人間や亜人はいない。つまり、この壁の向こうにいるのは。

「まさか——」

 その正体にシルが気がついた頃にはもう遅かった。

 地響きがして岩の壁が砕けてゆく。砕けた壁の隙間から出て来たのはさまざまな太さの蔓だった。

「うわぁっ!」

「きゃあ!」

 無数の蔓に身体を絡め取られ、身動きできなくなる二人。

 シルとラッコはそのまま宙に浮かされ、フレイト鉱石のある空洞まで連れて行かれる。

 地響きがやむと、岩の壁の向こうから人間でも亜人でもないものが出てきた。

「うむ。大変美味なる魔力であった。大義である」

 そこにいたのは、植物で作った人形だった。少なくとも第一印象はそうだ。体型こそ少女のように細いが、身体は植物で構成されている。

「魔物だったんだな!」

 身動きのできないシルが植物の人形に向かって叫ぶ。

 魔物と呼ばれた植物の人形は、幹の胴体。蔓が縄のように巻きついてできた四肢。その四肢の先にはわかれた蔓が手足や指のようになっている。

 顔は緑色で植物の葉を思わせる。その目はイヌビワの花嚢のようで、口はツリバナのように赤く、五つに裂ける、繊維でできた細い髪をショートボブのような形状にしていて、側頭部にはオオムラサキを思わせる大きい花が咲いている。背中からも無数の蔓が伸びており、その背後には魔物と蔓で繋がった巨大な花が咲いていた。

 要素をかいつまんで見れば、どう見ても人間ではない。

「勘違いしてはならぬのじゃ。予はお主達に感謝こそすれ、害を加えたりはせぬ」

 赤い口を裂いて笑顔を見せる魔物。

 蔓から解放された二人は魔物に問いかける。

「ならどうして私たちを拘束したんだ?」

 疑った表情で訪ねるシル。

 魔物はなんとも気にしていないという態度で答える。

「そこの壁に近かったからどかしたのじゃ。予が蔓でお主達を動かして壁から離さなかったら今頃ぺしゃんこじゃったぞ」

 シルが壁のあった方に視線を移すと、確かに岩や土など壁の残骸が重なっており、危険な場所にいたことがわかる。

「何度も言うが、予はお主達に危害は加えんのじゃ」

 陽気で底に明るさを感じさせる声で言われたシルは少しだけ心を許す。

「あ、ありがとう」

「うむ。気にするでない。お互い様じゃ」

 続いてラッコが質問した。

「どうしてあんな場所にいたの?」

「話すと長くなるのじゃが原因だけを説明すると。フレイト鉱石を巡って亜人と争った末、この地下に幽閉されてしまったのじゃ」

「どうして争ったの?」

「なんじゃ、お主は人間や亜人の言うところの魔物を知らんのか」

 魔物なんて遭遇したことのないラッコはシルに助けを求める。

「魔物は主に魔力をエネルギーにして生命活動をしている生物のことだ。色んな種類がいるのだけど、きっとこの魔物はフレイト鉱石を摂取しようとして採掘場の作業者たちと争ったんだな」

 ラッコはシルの説明で多少なりともわかって来たような気がする。

「うむうむ。亜人と争って魔力も何もかもつきかけたところへ爆弾を放り込まれてしまったのじゃ。おかげで岩の壁を破ることも土を掘ることもできず、日々弱っていくばかりじゃった」

 弱々しい仕草を見せる魔物。だがすぐに喜んだ様子になる。

「そんなとき、お主達が来て助けてくれたというわけじゃ」

 上機嫌な魔物は様々な話題を振ってくる。

 それらに答えたり、逆に問いかけたりを繰り返していくうちに、ある程度の情報交換はできた。

「ふむ。もうここは使われておらんのか。ならフレイトは予がもらっても問題なかろう。それと、シルの仇打ちとやらも手伝おう」

「ほんとか!?」

 驚くシル。まさか魔物に仇討ちを手伝われるとは思わなかったのだろう。

「恩人じゃしな。そのためには準備が必要じゃ」

 そう言って魔物は人が入っても余るほど大きなウツボカズラをラッコの前に現す。魔物と蔓で繋がれたそのウツボカズラは蓋が開くと甘い香りを放つ。

「ラッコには服を脱いでここに入ってほしいのじゃ」

「入ったら体が溶けたりしない?」

 不安になるラッコ。食虫植物の消化液に落ちた昆虫などの小動物は養分にされてしまうのだ。それを知っている彼が心配するのも無理はない。

「大丈夫じゃ。これは捕食用ではない。予を信じて欲しいのじゃ」

 魔物の言葉にラッコはしばし考える。そして。

「わかった。信用するよ」

 ラッコは魔物を信用して服を脱ぎだす。

「ラッコっ!? そんな危険なことしちゃダメ!」

 不安そうに止めるシル。ラッコもそれはわかっているが、シルと自分がどう足掻いてもこの魔物には勝てない。それほどの力の差をさっきの蔓で絡め取られた一瞬のうちに感じたのだ。ならば、信じて従うのが得策だと彼は考える。

「よいしょ」

 最初は不安だったが、服を脱いでいくうちにラッコも少し安心しだした。力の差があるならば、無理矢理食虫植物へと入れさせることもできるのに、魔物はあくまでお願いしてきた。それ自体が罠である可能性もあるが、現状ではそうする意味もあまりないはず。希望的観測が彼の精神に落ち着きを与えてくれた。

 彼が色々と考えている間、心配そうな目で見ていたシルは、露になるラッコの肢体に見入っていた。

「スケベじゃのう」

「そ、そんなことっ!」

 魔物に言われて咄嗟に目を伏せるシル。彼女の心は間違いなくラッコを心配しているが、頭の中は彼の素肌でいっぱいだ。

 初めて会った時は一緒にお風呂にも入ったのに、どうして今更彼の裸を意識してしまうのだろうか。

 一人悶々とする乙女を他所に、ラッコは魔物の指示通りに一矢纏わぬ姿となっていた。

「じゃあ、入るよ」

 食虫植物の蓋を開けて中を覗く。初めて見た植物の内部は特に異臭もせず、透明な液体が入っているだけで変なところはなさそうだ。尤も、この状況が既に変だと言われればそうなのだが。

 ラッコがウツボカズラに入ると、内側の液体が徐々に増していった。彼は静かに足を液体に触れさせる。

「ぬるい」

 彼の口から率直な感想が漏れる。粘度の低い液体は、冷たくはないが温かくもない。人肌よりも冷たく、正直言えば寒いくらいだ。

 ラッコが足先から徐々に身体を沈めていくと、声が聞こえた。

「湯加減はどうじゃ?」

「もっとあっためてほしい」

「あいわかった」

 ご機嫌な返事と共に食虫植物の内側に透明な液体が追加される。どうやら液体はこの植物の捕虫嚢の細胞から分泌されているようで、壁から温かい液体が溢れてくる。

 徐々に温かくなる液体。風呂にも丁度いいくらいの湯加減になってきたものの、その量は増え続ける。

「これ以上はもういいよ」

 このままでは液体で溺れかねない。ラッコの足もつかなくなってきた。

「もう少しじゃ。頭まで浸かってほしいのじゃ」

「溺れちゃうよ」

 とんでもないことを言い出す魔物。ラッコは怖くなってきたが、捕虫嚢の蓋が閉まっているので逃げ出すこともできない。

「怖がらずに液体を少しずつ飲んでほしいのじゃ。少し飲んだら落ち着くはずじゃ」

 今は外から聞こえる声に従うより他ない。

 ラッコは口を開けて少しずつ液体を飲む。さらさらとした液体は水のようで、特におかしな味もしない。

 飲んでいくうちに魔物から言われた通り、徐々に落ち着いてくる。温かい液体に身体の内側も外側も満たされて、身体の力が抜けていくのを感じた。

「そのまま目を閉じるのじゃ。意識を呼吸に合わせて沈めるイメージで」

 魔物の声が段々と遠くなっていく気がして、瞼が重くなる。

「良い夢を見るのじゃぞ。お人好しのラッコよ」

 疲労と癒しが同時にラッコを包み、彼の肉体は食虫植物の液体へ、精神は闇へと沈んでいった。

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