Part.02

「じゃあ、終わったら連絡してね」


 そう言って父は車のドアを閉める。サラは小さく手を振り、白いワゴン車を見送った。


 父の車が見えなくなってから、後ろを振り返る。そこには大きな朱色の鳥居が、威圧感とともにそびえ立っている。その先は天満宮の境内だ。


 受験シーズンではあるが、鳥居をくぐる人は少ない。さっきから境内に足を踏み入れたのは、ジョギングをする六十代ほどの男性二人と、犬を連れた若い女性くらいだ。ほとんどの人は鳥居の前を素通りして、キラキラと光る駅の方に向かった。


 サラは腕時計を確認する。約束の時間まであと三十分以上もある。早すぎる気もするが、時間に遅れるよりはいいだろう。マキナが来るまでの間、辺りをぐるっと散歩することにした。


 駅から続くイチョウ並木を歩きながら、サラはマキナと出会った頃のことを思い出す。



 マキナに初めて会ったのは、中学一年生のとき。入学式の日だった。名簿順に席に着いた時、隣に彼女が座っていた。


 入学式の後に行われたホームルームで、クラスの全員が自己紹介をすることになった。名簿順にそれぞれ名前と出身小学校、そして趣味や好きなアーティストを述べていき、サラの番が回ってきた。


 サラは出身小学校を言った後、その先を口にすることをためらった。他の生徒が流行りのアーティストのことを話している中で、父が学生時代に聞いていたアイドルが好きなんて、言っていいのだろうか? 心の中でもう一人の自分が「ジジクッサ! ダッセェ!」と嘲笑し、サラは口ごもってしまった。


 そんなとき、マキナが「サラ、ガンバレ」と言うのが聞こえた。その日初めて会ったばかりなのに、マキナは名前で呼んでくれたのだ。


『浪尾ミハルの歌とか、よく聞きます』


 マキナの声に背中を押されて、サラは一歩踏み出した。もちろん、浪尾ミハルという名前を知っている生徒はおらず、教室は静まり返っていた。反応を示したのは、先生ともう一人……


『へぇ、サラはミハルちゃんが好きなんだ! 私も父さんにもらったカセット持ってるよ!』


 サラの隣で、マキナは笑っていた。



 気が付くと、サラはまた鳥居の前に戻っていた。長い時間歩いていたと思っていたが、腕時計の針は十分も進んでいない。


 中学卒業まであと三ヶ月もない。今思えば、マキナと出会った入学式はつい昨日のことのように感じられる。


 マキナとは三年連続で同じクラスだった。隣の席になる機会も多く、毎日一緒にお弁当を食べた。マキナが父からもらったというカセットテープを、放送室で一緒に聴いたこともある。


 それなのに、二人でどこかに行くのは今日が初めてだ。


 強い風が吹き抜け、イチョウの枝を揺らす。急に寒気を感じたサラはマフラーをきつく巻き直す。顔を上げても夜空に星は見えず、灰色の雲が街の灯りを反射して不気味に光っていた。



 塾が終わり、マキナは帰りの電車に乗る。時刻は六時四十分。本当はもっと早くに上がるはずだったが、小説の問題とにらめっこする内に時間が過ぎてしまった。


 それでも、電車が遅れなければ、十分で降車駅に到着するだろう。普段通りの速度で歩いた場合、駅から天満宮まで七分かかる。ギリギリではあるが、なんとか間に合いそうだ。


 ホッと息をつき、マキナは車窓に目をやる。並木にはイルミネーションが灯り、商店街ではサンタクロースのコスチュームを着たアルバイトが客引きをしている。街の様子を見て、マキナは初めて今日がクリスマスイブであることを思い出した。


 戸枝先生の言う通りなら、サラはマキナとクリスマスデートをするつもりなのだろう。だが、クリスマスイブに神社に行くのは変な気がする。合格祈願だとしても、初詣での時の方がご利益はありそうだ。天満宮を囲む天満公園も、デカいクジャクがつがいで飼育されているだけで、デートスポットとしては微妙だ。しかも、冬の間クジャクは屋内に籠っていて、一般人に姿を見せることはない。


 あれこれ考えを巡らせていると、マキナは電車が減速するのを感じた。車輪とレールが軋む音に顔をしかめながら、よろけないように足に力を込める。完全に停車したところで、ドアの上のモニターに駅名が表示される。降車駅は次だ。


 ドアが開き、五人くらいの会社員が下りる。入れ替わりに三人の大学生が乗り込んだ後にドアが閉まるが、電車はいつまでも発車しない。


 マキナは腕時計を確認する。約束の時間まであと十分。三分以内に電車が出なければ、約束の時間に遅れてしまう。マキナは早く電車が動くことを祈るように手すりを握りしめる。


 そこへ車掌のアナウンスが聞こえてくる。


〈この先の線路上に異物が発見されたため、この列車は当駅止まりとなります。お急ぎの所、大変ご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません……〉


 マキナは胸中に「嘘でしょ⁉」と叫ぶ。次の駅までバスを使えば、短くても十五分かかる。待ち時間も含めれば、天満宮に着くのは三十分後だろう。


 ドアが開くなりマキナは電車を飛び出し、バスロータリーに向かう。駅の構内は厚着の人々が行き交い、走ればぶつかってしまいそうだった。それでもなんとかバス停にたどり着いたマキナは、真っ先に時刻表を確認する。


「次のバスは……七時二十五分⁉」


 前に見た時と違う……恐らく、年末年始の特別ダイヤで運行しているのだ。この時間帯の便は一時間に二本。前のバスはつい一分前に行ったばかりだった。


 マキナは約束の時間に遅れることをサラに伝えるため、スマートフォンを取り出す。SNSのアイコンをタップするが、アプリは起動しない。一秒ほど遅れて、画面に「アップデート中」の表示が浮かび上がった。


「ちょっと……勘弁してよ……」


 マキナは途方に暮れてしゃがみこむ。連絡が無かったら、サラは自分が約束を忘れたと思って帰ってしまうかもしれない。もしかしたら、彼女の心を深く傷つけてしまうかもしれない。悪い考えばかりが頭に浮かび、マキナは体を支えることができなくなった。



 約束の時間になってもマキナの姿は見えなかった。


 サラは何か連絡が無いか確認するため、スマホを見る。SNSのメッセージは届いていない。電話の受信履歴もない。場所を間違えていると思ってメッセージを送るが、既読はつかない。


「マキナ……」


 ため息まじりに友だちの名前を呼ぶ。白い息が出ただけで、返事はない。息を吸うと、冷たく乾燥した空気が肺を刺す。思わずせき込んだサラは、マフラーを上げて口と鼻を覆った。


 ふと、目の前を二人の男女が通りかかる。彼等はこの寒いのに手袋を着けていない。その代わり、指を絡めて手をつないでいる。お互いの手を握っていれば、温かいのか……


 手袋を外して、自分の手を見つめる。厚手の手袋を着けていたはずなのに、指先までかじかんでいる。この手を包み込み、温めてくれる人……彼女は本当に来るのだろうか?


 クリスマスイブに神社に誘うなんて、自分でも変だと思った。でも、この鳥居の向こうには、どうしても彼女と一緒に見たいものがあるのだ。


(どうしてその子じゃなきゃいけないの?)


 耳元でもう一人の自分が囁く。入学式の日にも聴いた声が、サラの神経を逆なでする。サラが「それはもちろん、マキナが友だちだからだよ」と反論すると、闇の中からはクスクスと笑う声が返ってきた。


(そんなの、あなたの勝手な妄想じゃん。今まで一緒に遊びに行ったことがあった? あなたの『夢』について、あの子には話したの?)


 サラは反論する言葉を失う。もう一人の自分の言う通り、サラがマキナに対して抱いている感情は一方的なものなのかもしれない。どこかに行くのは今日が初めてだし、サラの「夢」について打ち明けたこともない。


(結局、あなたもあの子のことを信用していないんでしょ? だから『夢』のことを話さない。バカにされることを恐れている)


 しかし、浪尾ミハルのことを話してもマキナはバカにしなかった。他の生徒のように「ハローハロー♪」とミハルの楽曲のフレーズを持ち出して笑うこともなかった。


(どうかな? 自分の印象を悪くしないために黙っていたけど、内心はおかしくてたまらなかったんじゃない? お父さん世代のアイドルが好きな中学生なんて、宇宙人かUMAみたいなものだからね。面白がらずにはいられないさ)


 胸に何かが刺さるような感覚。サラは思わず胸に手を当てる。


(それがアイドルを目指してるなんて知ったら、さすがのマキナでも笑い過ぎて悶え死ぬんじゃないの?)


 目に見えない傷口は広がり、どす黒い血が流れ出る。そこへもう一人の自分が追い打ちをかける。


(マキナがあなたの友だち? こんな喜劇は金輪際ないかもね!  人間ほど信用ならない生き物はいないよ。美辞麗句を口にして、はらわたの底には醜い汚物を隠している。『友だち』なんてものが幻想だってことは、もうすぐ分るよ!)


 闇の中に高笑いが響く。その瞬間、心臓がバックリと裂けたような激痛が走る。痛みは胸から血管を通じて全身を駆け抜ける。血の気が引き、身体の末端から感覚が消えていく。手足がわなわなと震え出し、立っていることができない。しゃがみこんだサラは、震えを押さえようと自らの肩を抱きしめた。


――つづく――

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