② 願うは、美しき風の神




***




『……アネモイ』


 遠く、何処かの実験室。セリアは一人で立っていた。


 中央にある黄緑色の蛍光色を持った光源が薄暗く部屋を照らしていた。


 部屋の中央で立ったセリアは光源であるリペアカプセルを見つめている。


 モルグ島からアネモイと逃げ出し、すなわち、ヨーロッパを決定的に裏切ったあの日から既に数日が経過していた。


 モルグ島を脱出したセリアはカズヒコ達に率いられ、彼らの隠れ家の一つに連れて来られた。


 隠れ家に到着した直後、カズヒコ達は速やかにアネモイの修理を開始した。


 体を分解し、頭を開き、脳を弄り、三日三晩を徹してアネモイの修理の初期段階は終わった。


 リペアカプセルに放り込まれ、黄緑色のエリクサーに付けられたアネモイは穏やかに眠っている様だ。


 スヤスヤスヤスヤ。コポコポコポコポ。時折泡を出しながら、カプセルの中で風の神は休息する。


 この美しいキョンシーは今穏やかであろうか。


『アネモイ、どんな夢を見ていますか?』


 リペアカプセルに額を付けて、セリアはそっと問い掛けた。


 分厚いガラスの先ではいくら叫んだって声は届かないだろう。


 けれど、それでも起きない様に。まだ、起きてしまわない様に。いつか、またあの晴れやかな美しい笑顔を見せてくれると祈りを込めて。


『起きたら、キャンディを食べましょう。私とあなたが好きなブドウ味を持って来たんです』


 きっと、この修理が終わればまたアネモイと前の様に笑い合えるはずだ。


――そんなことがあるはずないのに。


 分かっていた。元通りにセリア・マリエーヌという人間がアネモイと話せるわけが無い。


 自分はヨーロッパを裏切り、アネモイの品位を貶めたのだ。


 取り返しの付かない選択をしてしまった。


 穏やかな終わりではないとしても、あのままアネモイが壊されていれば、初代アネモイの名はヨーロッパ、いや、人類史に刻まれ、未来永劫その偉業を人々は讃えただろう。


 だが、セリアはそれをさせなかったのだ。


 カズヒコ達はアネモイを戦わせる気だろう。でなければわざわざ修理する理由が無い。


 相手は誰だろうか? また、シカバネ町の第六課と戦うのだろうか。


 いずれにしても、これから先、アネモイは人類社会の敵である。


――何てことをしてしまったのでしょうね。


 もっと良い選択肢はいくらでもあった。


 きっと自分は地獄に落ちるだろう。これ程までに美しい存在を、ただの我儘で地に堕としたのだから、必ずや神の裁きが下るに違いない。


『それでも、あなたの終わりがあんなものでは無くて――』


 じゃあ、どんなものだったら良いというか。


 その答えを彼女は持っていなかった。




 セリアは頭を振った。リペアカプセルに熱を吸われた額がひんやりとしている。


 カズヒコは今日明日中にはアネモイが一度目を覚ますだろうと言っていた。


 完治ではない。完治はあり得ない。アネモイは既に決定的に壊れている。


 アネモイが目を覚ますというのは、眼を開くことと同義ある。


 反応では無く、反射。意思を持ったリビングデッドではなく、出来の良い肉人形まで戻るだけだ。


 トン。セリアはリペアカプセルに手を触れ、そのままゆっくりと撫でた。


――あなたのほっぺたに触りたい。


 多くをセリアは考えられなかった。ヨーロッパを裏切ってしまった、アネモイが壊れてしまった、そんな強大なストレスが彼女の中で渦巻いて、思考の邪魔をする。


 考えるのは無駄だとセリアは分かっていた。既に自分は不可逆的な選択をしてしまった。


 選ばなかった未来と、起こりえなかった現在を思い浮かべる。その利点はこの場において何も無かった。


 ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー、ザー。 


 頭の中で雨が降っていた。


 それはまるで一歩先も満足に見えない程の激烈な雨。大量の雨がバタバタと音を立てている。


 セリアの意識が雨粒に穿たれ、溶けていく。


『……起きて』


 聞き届ける神は居ない。彼女の神は眠りに落ちたのだから。


 リペアカプセルを撫でる手が止まり、小刻みに震えた。


 恐怖か、絶望か、どちらの感情が今自分の中にあるのだろう? セリアには分からなかった。


 雨がセリアの心を覆い隠す。


 考えれるのは目の前のアネモイだけだった。


 その時、研究室の扉が開いた。


『部屋の明かりも点けずに何をしているのかね?』


 扉を開けたのはカズヒコだった。


 もじゃもじゃヒゲで白髪、そして柔和な表情。ヨーロッパの裏切りをセリアへ唆した張本人。


 稀代のキョンシー研究者はセリアとリペアカプセルを交互に見比べ、何か得心した様だ。


『アネモイは起きないのかね?』


『……ええ。まだ、起きないみたいです』


 カズヒコはリペアカプセルと繋がったパソコン画面に近づき、表示された数値を見た。


『……ふむ。数字だけ見るならば、反射の段階に入ってもおかしくない。後は外部刺激で目を覚ますはずだ』


『先程、起きてとは言ったのですが』


『祈りが足りないのだろう』


 事も無げに言われたカズヒコの言葉にセリアは『え?』と声を出した。


 カズヒコは自身のもじゃもじゃヒゲを触りながら言った。


『キョンシーとは祈りだよ、セリア・マリエーヌ。真の祈りであるなら、キョンシー達は必ず聞き届けてくれる物だ』


『……私が本当はアネモイの目覚めを望んでいないと?』


『そうかもしれない。少なくとも純粋な思いでは無いのだよ。もっと純粋に、一つの祈りをこのキョンシーに込めてみたまえ』




 仕事があると言ってカズヒコは研究室から出て行き、再び、セリアとアネモイだけが残された。


――祈り。


 セリアはカズヒコの言葉を反芻する。


 確かに自分はアネモイの起床を心の何処かで望んで居なかったかもしれない。


 アネモイが起きるという事は、このキョンシーが世界の敵に回るという事だ。その咎はセリアにこそ発生する。


 アネモイが起きてしまうということは、アネモイにセリア・マリエーヌという人間がヨーロッパを裏切り、アネモイの尊厳を貶めたことがバレてしまうことを意味している。


 断罪を、何よりもこの風の神からの断罪を自分は恐れているのだ。


『……もしも、私がもっと純粋にあなたの目覚めを祈れれば、あなたは起きてくれるのでしょうか?』


 問いは虚空に吸い込まれた。


 黄緑委の蛍光色が部屋を照らす。ザーザーザーザー、雨音は止まなかった。


 セリアはジッとアネモイを見つめる。スヤスヤと眠った幸福の王子。目覚めない方が幸せな眠り姫。


 このキョンシーへどんな祈りを捧げれば良いのだろうか。


 起きて欲しい?


 眠って欲しい?


 どちらも嘘でどちらも真だった。


 セリアは自身へ問い掛けた。


 一体、自分の祈りは何なのか?


 黄緑色の光を受け、風の神と称されたキョンシーを視界の中央に。考えて考えて、セリアはアネモイとの日々を思い返した。


 記憶の旅の、始点と終点は同じだった。


 何度記憶を思い返しても、脳裏に再生される始まりと終わりの記憶は寸分たがわず同一だった。


――これが私の、祈り、か。


 セリアは口にした。自分が何を望んでいるのか。自分がアネモイに込める祈りは何なのか。


『アネモイ、あなたが姿を見せて』


 脳裏にリフレインするのはあの葡萄畑での出会い。


 空を飛ぶ美しいキョンシーの姿。


『自由に、伸びやかに、何物にも縛られない、そんな飛ぶ姿を私に見せて』


 セリアは祈りの言葉を繰り返す。


 どこまでもそれはエゴイズムだ。


 ただ、自分が美しい物を見たいから。


 美しかった物をもう一度見たいから。


 それだけの自己中心的なエゴがセリアの祈りだった。


『美しいあなたの姿をもう一度見せて!』


 だが、それは嘘ではない。純度は極限まで高い。


 その祈りをキョンシーは聞き届ける。


『青空でも、雨空でも、雪でも嵐でも、雷でも何でも良い! あなたがあなたとして飛ぶ姿を私に見せて! アネモイ!』


 ほとんど全力の叫びだ。喉が痛むのも無視した、肺の空気を全て押し出す様な叫びが部屋に響く。


 ハァ、ハァ、とセリアは息切れを起こした。その視線はアネモイに固定されている。


 確信が何故かセリアにはあった。


 アネモイは今、目を覚ます。




 そして、セリアの息切れが収まる直前に、〝その時〟は訪れる。




 カプセルの中でアネモイの瞳がゆっくりと開かれ、セリアの中で雨が止んだ。

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