平成二年 七月二八日(土) 午前《4》

 ※

 その頃、淳平は宿題をしろと煩い母から逃げて家から飛び出すと、拓也の家に向かって歩いていた。

 雲の隙間から差し込んだ日差しのせいで背中から湧き出した汗のことは気にもせず歩いていると、先程着替えたばかりのブルーのTシャツが、まるで世界地図を描いたような汗模様になっている。

 まるで警戒心のない犬のように進行方向だけに目を向けて歩いていると、背後から自分を呼んでいる声が聞こえた。

「淳平!」

 体育の時間に集団行動で号令を掛けられたように名前を呼ばれると、シュッと背筋を伸ばして立ち止まる。汗だくの背中にTシャツが張りついて気持ち悪い。背後にいるのは誰なのかを確かめようとして振り返ると、立っていたのは由美子だった。

「おぉ、由美子!何やってるんだよ、本当に戻って来たんだ!」

 驚きよりも喜びが上回っている淳平は突然の出来事にも拘わらずに、笑いながら由美子に駆け寄る。

 近くで見ると以前は半ズボンにTシャツ姿のイメージであった由美子が、今日は桃色のワンピースに、淡い色の口紅なんて塗っているものだから、自分でもよく一目で気が付いたと思ってしまう。

「うん、今日だけね」

 笑顔を見せながら話している由美子の表情は、以前と変わらずに愛くるしいが、去年よりも少しだけ背が伸びて大人びた姿を、淳平は頭からつま先まで舐めるように見てしまう。

「なんか、雰囲気変わったな」

「え、どう変わったの?」

「なんか……本当に女の子みたいだな」

「失礼ね、前から女の子だけど」

 淳平のそんな失礼な言葉でも、由美子はニコニコと笑いながら受け返している。

「マコトが見かけたって言っていたけど、どうせ見間違いだと思って……それで、もうマコトには会ったのか?」

 淳平が訊ねると、由美子は静かにかぶりを振って応える。

「じゃあ、今からタク坊の家に行くから一緒に行こうよ。きっと後でマコトも来るからさ」

「でも、今からお父さんに会わないといけないから、もう行かないと……じゃあね、淳平」

 由美子は公園の時計に目を向けると、手を振りながら去って行った。

時計の針は十一時十分を指している。あの針が十二時を指すと由美子は真昼のシンデレラであるように、ワンピースがTシャツと半ズボン姿に戻ってしまうのだろうか……そんな想像力を淳平は持ち合わせていないが、今見た姿は幻であったと思わされるように、由美子は曲がり角に姿を消した。

 淳平は再び拓也の家に向って歩き始めると、今日が花火大会であるのを由美子に伝えていなかったことに気がついた。

「そうか……花火大会へ来るように言っておけばよかったんだ」

 淳平はその事を伝えようとして後戻りするが、曲がり角の先に由美子の姿は見当たらない。

 行くあては分からないが、由美子の話を振り返ればお父さんに会うと言っていたので、単純な思い付きから引っ越す前に住んでいたマンションへ行ってみることにした。


 別に逃亡者や指名手配の犯人を追っているわけでもないから、慌てる必要はないものの、焦る気持ちが無駄に足を走らせると、体はより一層の汗をかいて、Tシャツの青色が群青色に変わっている。

 小学校の裏口を通り掛かると、一学期の始まりに皆で種を植えた向日葵が小さな太陽のように花を咲かせている。それが淳平には太陽の行列に見えた。けれど今は綺麗だと思えずに、太陽の子供達が自分を照らしつけられているようで暑苦しく見える。

 そこから先日、音楽の授業で歌ったギリシャのイカロスの歌を思い出すが、題名までは思い出せない。蝋で固めた鳥の羽が太陽の熱で溶けてしまい、落ちて命を失った歌詞だけを思い出すと、自分も今、溶けてしまいそうなほど暑い。

 先程までは太陽を隠していた綿雲は他所の町へ流れてゆき、アスファルトを日差しが照り付けると、進む先の地面には陽炎が揺れている。

 由美子の住んでいたマンションに着いた淳平だが、部屋に訪れたことがあるのは去年の四月に由美子の誕生日会で来た時だけなので、郵便受けからうろ覚えで部屋番号と苗字を探すが、どうやら住んでいた部屋は空き部屋になっているようだ。

「あれ?何だ……ポストにガムテープが張ってあるじゃん」

 由美子を探す術を無くしてしまったが、淳平はこの件を誠に報告しようと思う。誠の家はこのマンションからゆっくり歩いても二、三分で辿り着く場所なのに、まるで百メートル走を誰かと競うように駆け出した。


 誠の家まで全速力で走って来た淳平は、玄関の塀に手を突いて凭れていると、コンクリートの地面には同じ格好をしている影が映っている。

 深呼吸をして乱れた息を落ち着かせてからインターホンを押すと、玄関が開いて誠の母が出て来た。

「あら淳平君、マコトなら買い物に行っていて、まだ戻っていないわよ」

 先程まで外は雨でも降っていたのかと思わせるほどに汗でTシャツを濡らしている淳平の姿を見ると、誠の母は一度リビングに戻って、コップに注いだ麦茶を持ってくる。差し出された麦茶をグッと一気に飲み干す淳平の態度は、態々持ってきてくれた相手に対しての有難みが感じられない。

「マコトに由美子が帰って来ているって、伝えてもらえますか?」

 淳平は飲み干した後のコップをぶっきらぼうに返しながら、誠の母に言付けを頼んだ。

「あら、由美子ちゃん堀切にいるの?お母さんも探しているみたいだったわよ」

「います、います。さっき会いましたから。あれ?もしかして今日が花火大会だって、知っていて来たのかなぁ……」

 そんな疑問を抱きながら淳平は誠の家を後にすると、由美子が行きそうな場所を思い出しながら探してみることにした。

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