平成二年 七月二八日(土) 午前《3》

 部屋に入って机の引き出しを開けると、中には小さくなった消しゴムや双六付きの筆箱に混ざって、一枚の写真が入っている。それは四年生の時に由美子や他の皆と撮った写真だ。

 写真を眺めながら去年の出来事を振り返ると、胸が詰まる気持ちになった。それは、由美子に辛い思いを与えたまま、転校させてしまったことだ。


 四年生の時、由美子は誠のことを『班長』と呼ぶ時期があった。 

それはクラスの座席が四人一組の班に別れていて、誠の班は拓也、由美子、もう一人は里美という女子だった。

 由美子は誠が嫌々に班長を押し付けられたことから、『班長、班長』と揶揄って呼んでは、嫌がる反応を面白がって見ていた。

 一学期の間その班で過ごしていたが、ある日、誠と拓也は自分達の班が放課後の掃除当番であるのに、その役割を果たさず帰ってしまった。

 翌日、由美子と里美だけに掃除を押しつけた事について女子達から批判を受けると、何故か由美子だけは二人を庇ったことにより、クラスの女子全員から無視されるようになった。

「なんで自分が掃除押し付けられたのに、俺たちを庇うんだよ」

「だってマコちゃんは、私の班長なんだから……」

 そう言っていた由美子の言葉を、誠は今でも忘れていない。そして由美子は女子達と蟠りが残るまま、福岡の小学校に転校していった。


『あれは俺のせいだ……』

 教室で女子から爪弾きにされていた由美子の姿を思い出すと、鉛を飲んだ気持になる。自分まで由美子を避けていたわけではないが、そもそもの発端は自分であるから周囲に注意することもできず、「あんな奴ら放っておけ。俺たちがいるから」なんて都合のよいことを言っていた自分を思い出せば、遣る瀬無い気持ちになる。


「誠、友達が来たわよ」

 呼んでいる母の声が聞こえたので部屋から出ると、重い足取りで階段を降りて玄関に向かう。晴れない気分を溜息に変えて吐き出してから扉を開けると、外には和也、幸男、裕太の三人組が待っていた。プール授業など一時間ほど前には終えているはずだが、まだ三人ともプールバッグを持ったままである。

「どうしたんだよ?」この三人とは普段あまり一緒に遊ばないので、自分を訪ねて家に来たことを不思議に思う。

「今日、これから四つ葉小と決闘なんだ。だからマコトも人数集めてタコ公園に集合してくれよ」

 タコ公園とは、蛸を模した大きな滑り台がある公園のこと。正式には『堀切東公園』と言うのだが、子供達はおろか、大半の大人もこの名前は知らない。緊急避難場所に『堀切東公園』なんて書いてあれば、大抵の人は何処のことだか分からずに集まれない気がする。 

 明るい時間は小学生達が集う遊び場であるが、日が落ちると不良の中学生が屯していて、蛸の足には誰かと誰かの相合傘や、地図記号を卑猥にしたような落書きが沢山書かれている。

「は?ムリでしょ、それに今日は花火大会だよ」

 クラスではこの三人のことを、北川和也をリーダーとした『北川軍団』と呼んでいた。普段から六年生と争っていたり、三人共に体格がいいものだから、町でも中学生に間違われて喧嘩を嗾けられたりと問題の多い連中なので、誠は彼等を避けていた。

 この狭い地域に三つも小学校があることから、公園などでは他校の児童と遊び場の取り合いで言い争いになることもある。しかし、この軍団は不良漫画に影響されていて妙に悪ぶるところがあり、子供同士の小さな喧嘩を、無理矢理大きく膨らませようとするから厄介である。

「大丈夫だよ、それまでに終わるって。それじゃあ、三時に集合な」

「おい!待てよ!」三人は誠の返事を聞かず要件を一方的に告げると、そそくさと自転車に乗って去って行った。

「まいったなぁ……」

 面倒臭い話に巻き込まれたと思うが、行かなければ行かないで、今度会った時に文句を言われるのは厄介だと思う。

 人数を集めるように言われたから、一応拓也にも伝えておこうと思って家に電話を掛けようとするが、まんまと北川軍団の言いなりになっているようで腑に落ちない誠は、受話器を耳に当てながらブツブツと文句を言う。

 父親が電話に出たので拓也は家に居るのか訊ねると、息子を呼んでいる親父の張り上げた大声が鼓膜を貫いて破けてしまいそうに思い、おもわず受話器から耳を離した。

 超音波のような音が耳の奥で鳴り響いているのが煩わしくて、人差し指を耳の穴に入れて紛らわすと、「おーい、おーい」と呼んでいる声に気がついて、再び受話器を耳に当てる。

「マコト、今、店番しなきゃいけなくなってさ、だから二時に神社のアジト集合にしようぜ」

 拓也が慌ただしい口調で言っていることも、北川軍団と同じように自分本位である。『アジト』とは三年生の時、神社に作った秘密基地のことだ。

「それが今、和也たちが来てさ……」

 誠が伝えようとする要件に言葉を被せて、拓也は自分の要望だけを強引に伝えると、「じゃあ、後でな!」と言って一方的に電話を切ってしまった。アジトに集合と言われたが、そもそも遊ぶ約束をした記憶もない。

「だからさぁ……何で、みんな自分勝手なんだよ」

 皆が自分の都合ばかりを話すものだから、ふつふつと苛立ちが込み上げてくると、顳顬こめかみの辺りで脈が速くなっているのに気がつく。

「マコト、ちゃんと宿題やっているの!」

 苛々という料理に辛味のスパイスを加えるような母の言葉を聞いて、誠は「やってるから、勝手なこと言わないで放っておいてよ!」と、支離滅裂な言葉で八つ当たりするから、母には何を言っているのか理解できない。

 部屋に戻ると机に向かって宿題に手をつけるが、苛々が治まらずに集中できない。頭の中で身勝手な北川軍団のことや、自己中心的な拓也の態度を思い出すと、苛立ちは募るばかり。 

 扇風機だけで暑さを凌いでいる部屋は蒸し暑くて、これが更にやる気を失せさせる。喉が渇いたから麦茶を飲もうと思ってリビングに行くと、キッチンでグツグツと音をさせながら湯気を立てる鍋を見れば、体の水分まで蒸発しそうな気がしてしまうが、それでもクーラーが効いている空間と扇風機だけの部屋では、まさに天国と地獄の違い。

「ねぇ、今日、由美子ちゃんに会った?」

 母が訊ねると、冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注でいる誠の手が止まった。

「えっ、何で?」

「さっき、由美子ちゃんのお母さんから電話があったのよ。何だか慌てている様子で、由美子ちゃんが家に来なかったか聞かれたけど、私はこっちに来ているのも知らなかったし、マコトもお婆ちゃんの家に行っていたから会ってないよね」

『やっぱり、あれは由美子だったんだ……』 

 橋にいたのはやはり由美子であったことに確信を得ると、苛立っていた誠の気持ちは幾許かの喜びを得る。

「お昼は素麺にするから、葱を買いに行ってきてちょうだい」

 母が千円札を差し出してお使いを頼むと、誠は受け取って八百屋である拓也の家に向かった。


 由美子が本当に来ていることを拓也にも伝えようと思いながら歩いていると、同じクラスの女子である芳子、あさみ、陽子の三人と出会った。あの日、掃除当番をさぼった誠と拓也を咎めていたのもこの三人であれば、先陣を切って由美子を除け者扱いにしていいたのもこの三人だ。

「マコト、ちょうど良かった。今、あんたの家に行こうと思っていたの」

 相手から話しかけて来なければ通り過ぎていたほどに、由美子のことばかりを考えていた誠は、「ねぇ、聞いているの!」と言っている芳子の大声を聞いて我に返り、三人の姿に気がついた。

「え、何?」

「もう、だから、今からマコトの家に行こうとしていたのよ」

「何で?」

「今日の花火大会に里美と行ってあげて。いくら鈍感でも、里美があんたのこと好きなのが分かるでしょ?」

『今日はみんなで勝手なことばっかり言うなぁ』

 里美からはバレンタインデーにも手作りのチョコレートを渡されたり、まるで今日初めて打ち明かしたように話している三人だが、相談相手になっているというよりも茶化して面白がっている様子をいつも見ているので、誠本人どころかクラスの男子全員が里美の気持ちには気づいている。

「ダメだよ、タク坊達と行く約束しちゃったから」

「大丈夫だよ。あいつらとは肝試しの時に合流すればいいでしょ?」

「肝試し?何のことだよ」

「花火大会が終わった後、うちらの町内会は妙源寺で肝試しするのよ」

 寺の墓場で肝試しなど、そんな罰当たりな行事があるものかと誠は思うが、六年生にいる悪ガキの顔を思い浮かべればやりかねない。そんな子供が勝手に決めた悪行を、芳子は正当な行事のように話している。

「大体、女と二人で花火観るなんて嫌だよ」

「でも、由美子だったら一緒に行くでしょ?」

 それは決して言い訳ではない。実際に女子と二人で花火大会に行った暁には、あのタコ公園にビーチパラソルくらいの相合傘を落書きされるのが目に浮かぶ。けれど、由美子なんて銭湯に行けば一緒になって男風呂に入ってきそうな女の子だから、性別を意識するのなんて誠くらい。多分、拓也と淳平なら、何も気にせず一緒に湯船に浸かるだろう。それを、『由美子とだったら』と言われるのは、誠にとって哲学的な話に聞こえる。

「とにかく里美には、五時に堀切橋で待っているように言っておくから、ちゃんと行きなさいよ!」

 芳子達は一方的に要件を伝えると、「おい!待てよ、俺行かないぞ」と言っている誠の声を無視して、その場を去って行った。

「まったく……何なんだよ、どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって」

 今日の誠は、つい独り言が多くなってしまう。不愉快ではなく、あえて不快という言葉を選んで苛立ちに当てはめる。同じ意味かもしれないが、そもそも『愉快』なことがないのだから、その言葉を打ち消す必要もない。由美子が来ていると言っても、まだ会えていない現状に愉快はない。

 ブツブツと文句をいいながら歩いているうちに拓也の家に着くが、あれやこれやと考える事があり過ぎて、何から話せばいいのか纏まっていなかった。

「マコト、まだ店番抜けられないよ……」

忙しそうに大根を片手に持ちながら、拓也が客商売には不適切な渋面を見せる。  

 先程の電話で鼓膜が破れそうになった大声の主(拓也の父)が、やはり声を張り上げて「オクラが安いよ!」と言っているのを、耳に手を添えて「はぁ?」と言っているお婆さんの姿が見えると、この八百屋に通ったことで耳が遠くなってしまったのではないか……なんてことを考えて、その老婦を哀れに思う。

「違う、母さんに頼まれて葱を買いに来た」

誠が母から渡された千円札をポケットから出して差し出すと、拓也は鮮度の品定めもせずに山積みの一番上にあった葱を手に取って、釣銭と一緒に渡した。

「じゃあ、後で神社な」

 拓也が婦人を相手にして、忙しそうにピーマンや玉葱やらを袋詰めにしている姿を見ると、誠は何も話すことができなかった。

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