平成二年 七月二八日(土) 午前《2》
※
その頃、プール授業に来ていなかった誠は祖母の家から帰宅途中であり、千住大橋の駅で列車が来るのを待っていた。
ホームに到着した四両編成の列車に乗ると、走り出した車両の窓からは、あの日本一有名な熱血中学教師と生徒達が歩いていたことで名の知れた、荒川の土手が見える。
草が生い茂る平地を開拓して野球グラウンドにした場所では、少年野球の試合をしているのが見えると、遠目から見てもぶかぶかのユニフォームを着て、ホームベースまで走りにくそうにしている少年の姿が可笑しい。けれど誠は野球を好まず、もっぱらバスケットボールに夢中である。
運動は得意な方だが、小学二年生の頃に初めて手にしたバットでホームランでもかまそうかと思っていれば、幼稚園の頃から父親とキャッチボールばかりをしていた、ピッチャーの少年が投げたストレートの球を空振り三振。
その姿を見ていた淳平と拓也にケラケラ笑われたことから、野球が苦手なのではなく、嫌いなだけだと今日まで言い張っている。
バスケットボールの方は大得意だが、クラスで夢中になっているのは誠くらいである。
祖母の家があるのは足立区で、誠が住んでいるのは葛飾区。その境を雄大に流れる荒川の上には『堀切橋』が架かっていて、互いの区を繋いでいる。
青々とした草花の生い茂る景色を通り過ぎて、屋根瓦とトタンの色が目に映る下町の風景に変われば、我が町の最寄り駅『堀切菖蒲園』に到着する。
そんな見慣れた景色を誠は気にすることなく、ただぼんやりと眺めていたが、堀切橋の上に見覚えのある人影を見つけると、はっと驚いて目に留めた。
『あれ……由美子じゃないか』
四年生の時に福岡の小学校へ転校したはずの由美子と似ている女の子が、川を眺めながら立っている姿が見えた。
誠と由美子は家が近所であったことから親同士の仲が良く、二人も保育園の頃から一緒に遊んでいた。小学校でも由美子は自分が女子であることはお構いもなく、男子と一緒になってドッチボールや野球をしていたり、誰も興味を示さない誠のバスケットボールにも付き合って遊んだりする活発な子であるから、周囲の男子も同性のような扱いで接していた。
幼稚園の頃から誠も由美子を異性として意識することはなかったが、四年生になってから徐々に雰囲気が女の子らしくなると、いつの日からか恋心を抱くようになった。
しかし、由美子が両親の離婚を理由に母親の実家がある福岡に引っ越すことになると、寂しさを隠しきれなかった誠は、別れの日が来ても由美子を見送ることすらできなかった。
誠は自分の部屋にある机の引き出しに、二度と使うことのない使いかけの消しゴムや、使い古した筆箱、流行りの去ったカードゲームなどを仕舞い込んでいるが、由美子への気持ちも似たようなもの。
好きな気持ちを忘れられないわけでもないが、捨てることはできない。
今日までの毎晩、由美子が夢に現れていたわけでもないが、その姿を見れば引き出しに入っている『四年一組 大沢誠』と書かれた筆箱を見つけた時のように、あの頃を思い出す。
「絶対に由美子だ、一体何をしているんだろう……」
列車が堀切菖蒲園の駅に着くと、誠は車両のドアが開いた途端に飛び出して走り出す。駅員が見れば不正乗車でもして逃げたのではないかと思うほどの勢いで改札口を駆け抜けると、由美子の姿を見かけた堀切橋に向かった。
祖母から渡された紙袋の荷物を持っていると、腕が振りにくくて走りづらい。先程までは雲に隠れていた太陽が誠の姿を見て、『おや、どうしたのだろう』と覗き始めたように日差しが強くなると、額から垂れる汗が目に沁みる。
乱れる呼吸に息を切らしながらも、足を休ませず走り続けて堀切橋に辿り着くが、そこに由美子らしき人物の姿は見当たらなかった。
気が抜けた途端に喘息持ちの誠は息苦しくなり、ポケットから吸入器を出す。『シュッ』と音を立てて吸入すると、そのまま地べたに座り込んだ。
父から遺伝したこの持病は、以前と比べれば大分良くなっているが、季節の変わり目だけは苦しまされる。
『夏休みだから、お父さんの所に来たのかなぁ』
息苦しさが治まって立ち上がると、橋の上から河川敷にいる人々の姿を見るが、自分と歳の近い女の子が歩いている様子はない。
ひとまず家へ帰ることにして橋の袂から階段を降りると、駅の方面に戻って歩く。開店時間を迎えたばかりの店が立ち並んでいる商店街には人々の活力が漲っていて、品出しの段ボール箱からほのかに土の匂いがする八百屋や、店先に磯の香りが混ざった氷水の撒かれている魚屋から暮らしの匂いが漂ってくる。
路地裏の窓から生暖かな空気が漏れているクリーニング店を通り過ぎて、店内に紙と埃の匂いが立ち込める本屋の角を曲がると、プール授業を終えて帰宅する途中の淳平と拓也に出会った。
「マコト、今日の花火大会行くだろ」
プールから出た後しっかりと頭を拭かなかったのか、拓也の髪はまだ濡れていて、滴る水滴が肩まで湿らせている。
「あぁ、行くよ」
「じゃあ、それまで遊ぼうぜ。帰ってゲームボーイ持って来いよ」
いきなり花火大会やゲームの話をされても、誠の頭の中は由美子のことばかりを考えているから、ピンポン球をラケットで弾くように、拓也の言葉を聞き入れていない。
「それよりも今さっき、堀切橋に由美子がいるのを見かけたんだよ」
誠の言うことに淳平と拓也は、ぽかんと口を開けて唖然としている。それは、飼い猫がご主人様のくしゃみを聞いて驚いている時の顔によく似ている。
「本当に由美子か?だって、引っ越したのは福岡だぞ……見間違いじゃないか」
話を聞いて一度は驚いたものの、やはり信憑性に乏しいと思った淳平は、誠の言うことに対して半信半疑の様子。
「そうだよ。それに帰って来るなら、俺たちにも連絡して来るだろ?」
拓也も話を鵜呑みにして聞かずに、淳平の意見に同調している。
「でも、絶対に由美子だったけどなぁ……」
二人があまりにも信用しないものだから、誠自身も見間違えだったのだろうかと思い始めると、首傾げながらその場を後にした。
「おい、後で家に行くからな」
背後から拓也の声が聞こえても誠は振り返ろうとせず、頭の中では由美子のことしか考えられない。
それでも祖母から渡された紙袋は無くさずに持っていたのが奇跡だと自分に感心しながら中を除くと、『伊勢谷』と店名の書かれている包装紙に包まれた箱が入っていた。
『伊勢谷』とは祖母の家の近所にある和菓子屋であり、箱の中には多分、母が好物の豆大福が入っているのだろう。それならば振り回しながら走っていても、壊れるような物ではなかったと安心する。
自宅に着くと、誠の母はリビングのソファーに座りながら、のんびりとテレビを観ていた。
「おかえり、お婆ちゃん元気にしていた?」 と話しかけてくる母の言葉に、誠は相槌を打ちながら紙袋を差し出すと、母は中を覗いて「あ、伊勢谷の豆大福ね」と言いながら、顔をにやけさせている。
「夜は花火観に行くんでしょ?今のうちに宿題やりなさい」 と言う母の言いつけに対して、誠は「大福、一人で全部食べないでよ」と揶揄いながらリビングを離れると、息子の態度に苛立って「宿題しなかったら大福もあげないし、花火も行かせないからね!」と大声を張り上げる母の姿を見返らずに、階段を駆け上がって二階にある自分の部屋へ逃げ込んだ。
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