同じ夜空と花火を見上げて

堀切政人

平成二年 七月二八日(土) 午前《1》

 昨晩なかなか眠りにつけなかったのは、きっと今日が待ち遠しかったからだろう。

 この町は映画館や遊園地、ウォータースライダーで遊べるようなプール、海水浴場などがある場所ではない。

 キャンプやバーベキューのできる山もなければ、夜空に満天の星も見えないけれど、この日だけは町中の人たちが空を見上げる。

 菊先、牡丹、黄金やし、花束のような千輪菊と、夜空に咲いた枝垂れ桜。明日になれば新たな一日が始まるけれど、きっと今日の思い出は残るはず。

 同じ夜空と花火を見上げて……


 平成二年 七月二八日(土) 午前


 夏休みの子供は朝から忙しい。早起きして地域の子供達が神社に集まると、ラジオ体操に参加して、家に帰ってくると朝ごはん。

 その後、四十分ほど宿題のドリルに取りかかると、逃げ出すようにして学校のプール授業に向かう。

「母ちゃん、プール行ってくるから百円ちょうだい」

 小学五年生の淳平が手を差し出すと、「何で学校のプールに行くのに百円いるのよ」と言いながら、母は息子の手を叩いて弾いた。

「そのまま、タク坊と遊んでくる」

 淳平は諦めずに再び手を差し出すと、母は『しつこいなぁ』と思いながら鼻息を立てる。

 夜明けの空からすっかり目を覚ました太陽がキッチンの小窓に光を当てると、熱を帯びた日差しが眩しくて暑い。そんな所で朝ごはんの片付けをしている母の険しい顔が、淳平には鬼の面に見える。

「ダメ、ちゃんと家に帰って来なさい」

「チェッ、ケチ」

 舌打ちをする淳平の態度が癇に障った母は、「誰がケチだって!」と言いながら、手に持っていたフライ返しを振り上げると、それを刃物と見間違えて驚いた淳平は、逃げるように家を飛び出した。


 夏休みに入ってから下ろしたばかりのビーチサンダルが、まだ履きなれずに痛い。キッチンの窓から差し込んでいた日差しは暑かったが、外に出れば夏の匂いが溶け込んだ心地よい風が吹いていて過ごしやすい。

「夜は晴れるかなぁ……」そんなことを考えながら淳平が学校に向かって歩いていると、級友の昌洋が自宅の玄関先を何やら落ち着かない様子でうろついていた。

「マー君、家の前で何をしているんだ?」

 キョロキョロと辺りを見回している昌洋につられて、淳平も四方八方に目を向けるが、自分以外の誰かが向かって来ている様子はない。

「なんだよ、ジュンちゃんか……今日『チャレンジ』が届く日なんだよ」

 どうやら毎月注文している学習教材が配達されるのを、受け取ろうとして待っているらしい。

「マー君、宿題もあるのに、まだ勉強したいの?」

「ちがうよ、今月の付録は『顕微鏡キット』なんだ」

 真夏だというのに、クリスマスプレゼントの話でもしているような昌洋は理科が大好きで、学校でも『科学クラブ』 に所属している。そういえば終業式の日に、最近ミジンコを飼い始めたが虫眼鏡では小さすぎて見えないとぼやいていたのを淳平は思い出す。

「どうでもいいけど、急がないと遅刻するよ」

 淳平が腕に着けていた時計を見せて時刻を知らせると、顕微鏡のことばかりを考えていて、プール授業などすっかりと忘れていた昌洋が慌て始めた。

「そうだった!ちょっと準備してくる」

 昌洋が無駄に足を急がせて家の中へ入ると、開いた玄関の隙間からは少し前に流行った『フラワーロック』が未だに飾ってあり、それが足音に反応してうねるように動いているのが見える。準備と言ってもプール道具と出欠カードを持ち出すだけなのに、何故か慌ただしい様子を踊っているようである。

「間に合わないからさ、自転車で行こうぜ」

 昌洋が戻ってくると、淳平は玄関先に停めてあった五段変速ギアのジュニアスポーツ車に跨っていた。

「ダメだよ!自転車で学校なんて、先生に見つかったら怒られる」

 昌洋が二年生の頃から乗っている小さな車体の自転車が、淳平の体格には小さくて不恰好に見える。

 自転車登校は校則で禁止されているのに言うことを聞かない淳平は、スタンドを蹴り上げてペダルを漕ぎ出そうとすると、結局止めることのできない昌洋は嫌々ながら荷台に座った。

「界王拳十倍だぁー」

 さっきまで気になっていたサンダルの履き心地の悪さはすっかり頭から消えていて、歩いている時には緩やかに感じていた風の流れに勢いがつくと、体に当たって通り抜けてゆくのが気持ちいい。

 ペダルから足を離して大股を開きながら勢いよく坂道を下る淳平とは違って、臆病な昌洋はジェットコースターに乗っているような恐怖を覚えて目を瞑ると、振り落とされぬように淳平の腰回りを強く掴んだ。

 二人が通っている小学校は、『葛飾区立 あやめ小学校』

『菖蒲』と書いてあやめと読むけれど、この町の象徴である『花菖蒲(ハナショウブ)』とは別種であり、『名所江戸百景』にも描かれた堀切の花菖蒲は六月になると貴重な江戸系花菖蒲を中心に、六千株の花が菖蒲園に咲く。

 その事から読み間違えのないように校名はひらがなになっているが、それならば『菖蒲(ショウブ)小学校』と名付ければよかったのではないかと、卒業生の誰もが思っている。

 大きな建物やマンションは少なくて平屋ばかりが建ち並ぶこの町では、花菖蒲が咲く時期になると商店街を賑わす鼓笛隊のパレードや和太鼓の演奏などの催し物があり、乾燥を嫌う花菖蒲の気持ちとは裏腹に、町の人々は祭りのために晴天を願う。

 但し子供が好むような町の夜を賑わせる祭りではなく、むしろ地域の小学生達は放課後の時間を割いて花菖蒲の絵をスケッチする宿題が出されるので、遊ぶ時間が減ってしまう。

 そして花菖蒲の見頃も過ぎて七月を迎えると、子供たちはあと数日で夏休みだと思いながら、数え指を始めるのだ。


 二人は学校に着くと家から水着を着用してきた淳平は、更衣室に向かう途中の廊下を走りながら脱衣しているが、そんな器用なことを昌洋には真似できない。

 淳平は更衣室に入ると、プールバッグを棚の上に放り投げてプールサイドへ向かおうとするが、後からやってきた級友の拓也と、扉の前でぶつかりそうになって驚いた。

「何だよ、あぶねぇな」

「おぉタク坊、ゴメン、ゴメン。それよりも急がないと遅れるぞ」

「まだ大丈夫だよ。それよりジュンちゃん、ゲームボーイ持って来たか?」

「あっ!忘れてた……どっちみち一回家に帰らないと、母ちゃんがうるせぇから」

「マジかよ……じゃあマー君、花火大会の時間まで遊ぼうぜ」

「ダメ、今日『チャレンジ』届くから、花火大会までは自由研究やらないと」

 二人の返答が自分の意にそぐわない拓也は、不服そうに顔を顰める。今夜は毎年荒川で行われる花火大会の日であった。

 花火大会と言ってもこの町で開催する行事ではなく、開催地は川を跨いで隣にある足立区の花火大会。

 荒川の河川敷で行われる花火大会に違いはないが、荒川は甲武信ヶ岳から始まって東京湾まで繋がっている大きな川だから、この町だけが特別に誇れる川でもない。

 隣町で行われる花火大会を地元の祭りのように拝借するだけなので、あちらの町はお祭り騒ぎであるが、こちらでは子供達が大喜びするような露店が並んだりすることもなく、何もない夜の河川敷から花火を見物するだけのこと。

 だから夏の夜空へ雄大に打ちあがると言うよりも、この町から観る花火は少し小振りになってしまうが、どこから見物しても花火が白黒に見えるわけでもないから、この日は河川敷に大勢の人が集まる。それが子供たちにとっても夏休み最初の大きなイベントなのだ。

 

 三人は更衣室を出てシャワーを浴びると、先に入っている児童たちのことも考えずに、飛沫を上げながら消毒槽の中に飛び込む。

「ジュンちゃん、ここでおしっこするなよ」

「バカ、しねぇよ」

 三人が消毒層の中で話している戯れ言を聞いて、女子達は軽蔑の眼差しを向けている。全員が消毒を済ませてプールサイドを横一列に並ぶと、水着の上から白いポロシャツを着た若い女性教師の声に合わせて準備体操が始まった。

「今日、マコトは来てないの?」

 淳平が訊ねると、拓也は「あぁ、家に電話したら、千住のお婆ちゃんの家に行くって言っていたけどなぁ」と言いながら、気だるそうに両腕をぐるぐると回している。

 準備体操を終えた淳平と拓也はクロール二五メートルの練習を始めるが、泳ぎの苦手な昌洋はプールの隅っこでビート板を使って練習をしている。その横でスイミングスクールに通っている男子達が水を得た魚のように泳いでいるのを見ると、何となく女子達の視線が気になった。

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