平成二年 七月二八日(土) 午前《5》

 ※

 買い物帰りに誠は、自宅の前を落ち着かぬ様子でウロウロしていた昌洋を見かけて、「何やってるの?」と声を掛けると、満面の笑みを見せながら振り返ったと思えば、誠の顔を見て不満げな表情に変わるのが、外れクジと同様に準らえたようであまり面白い気がしない。

「なんだ……マコトか、『チャレンジ』がまだ来ないんだよ」

「あれ?うちには来ていたよ」

 同じ教材を頼んでいた誠は深く考えず昌洋に話すが、祖母の家から帰ったら机の上に置いてあったのを気付いただけであり、まだ封すら明けていないから、昌洋が待ち焦がれている意味も分からない。

「嘘、まさか……」 昌洋が慌てて郵便受けの中を見ると、中には郵便局からの不在票が入っていた。

「何だよ!お母さん!ずっと家に居るのに、何で出なかったんだよ!」

 勢いよく玄関の扉を開けて家に戻った昌洋の怒鳴り声が、家中に響いて二階の窓からも聞こえそうである。親に向かって乱暴な口の利き方をするのは感心できないが、学習教材が理由でこんなにも怒っている息子の姿は喜ばしいことかもしれない。

 誠が振り返ると塀の上でくつろいでいる虎猫も、呆気にとられたようにこちらを見ている。

 思い出せばこの学習教材を始めたのは、四年生の時に昌洋から勧められたからだ。友達を勧誘すると紹介者は特典を貰えるシステムを知った時には、小さな罠にかかった気分になったのも思い出す。おかげで成績が上がったことにも違いないが、紹介特典が変わる度に昌洋は級友に入会を勧めている。五年生の始まりに進級祝いで付いていた付録をクラスの過半数が持っていたのを見た時には、昌洋のセールス力に驚いた。

 他愛もないことを考えながら歩いているうちに家へ辿り着き、『ただいま』も言わないでリビングに立ち入ると、黙ってテーブルの上に葱と釣銭を置く。

「あら、お帰り。今さっき、淳平君が来たわよ」

「あっ、そう」

 淳平のことなど全く無関心な誠は、母の言葉を聞き流して部屋に戻った。

『和也の所に行くのも面倒くさいし、里美の所に行くのも面倒くさい……今日は、花火大会も行かないで家にいようかなぁ』

 顕微鏡なんて壊れ物が入っているとも知らず、床に放り投げられた学習教材の小包を見ながら、誠は小さく溜息を吐いた。


 ※

 誠の家を後にした淳平は、再び由美子を探し続けていた。行きそうな場所を思い浮かべても、遊んでいた場所なんて、いつも行き当たりばったりであったから特定できない。タコ公園で缶けりなどをする時もあれば、団地を三号棟使ってドロケイをする時もある。疲れてくれば児童館でオセロやドンジャラをして、飽きてくるとドッジボールをする。

 駄菓子屋でもんじゃ焼きを食べながら鉄板を囲む時もあれば、夏なんて午前中のプール授業に出たのも構わずに、午後から区民プールに行く時もあるから、行きそうな場所を考えても数知れない。あえて的を絞れば、アジトにいる可能性が高いと思われる。

 そんなことを考えながら歩いていると、先ほど誠と別れたばかりの芳子達三人が、狭い歩行者用通路を横並びで歩きながら向かって来るのが見えた。

「おまえ達、由美子見なかったか?」

 何も知らない三人にとっては、話に前置きもなく訊ねられても突拍子もない質問であり、汗でビショビショになったTシャツを着ている淳平の姿を不潔そうに見ている。

「は、由美子?見るはずないでしょ」

「あいつ今、こっちに来ているんだよ」

「えっ!由美子が何で?」

「なんか、お父さんに会うから、なんちゃらって言っていたけど……」

 由美子のことを聞いた女子三人は身を寄せ合って固まると、淳平の存在などそっちのけでヒソヒソと話し始める。

「里美とマコトのことを話したら、こいつに邪魔されそうだから内緒だよ」

 自分を無視して内緒話を始める三人の姿を見ているのが、淳平には面白くない。

「おい!何をコソコソと話しているんだよ!」

「何でもないよ、里美だったら知っているんじゃないかなぁ……それより、マコトと由美子はもう会えたの?」

「あぁ……由美子はまだ、会ってないって言っていたけど」

「それなら私が由美子に会ったら、里美と一緒に花火大会へ連れて行くよ」

 由美子が誠に会うと計画の邪魔になってしまい厄介だと思った芳子は、淳平に嘘をついて誤魔化した。

「そうか、じゃあ頼んだぞ」

 芳子の嘘をすっかりと信用した淳平は、ペッタン、ペッタンとビーチサンダルで足音を立てながら、だらしのない歩き方で去って行った。

「淳平って本当に単純ね……」

 陽子は去ってゆく淳平の後ろ姿を、蔑んだ目で見ながら呟く。

「それよりも、花火大会に由美子が来たら、里美とマコトをくっつける計画が台無しだよ」

「もしかして由美子は、マコトと花火大会に行く約束しているから、戻って来たんじゃない?」

「それじぁあ早く由美子のこと探して、マコトと会わないように止めないと」

 意見の一致した三人は目を合わせると、呼吸を揃えて頷いた。


 ※

 誠は枕をベッドから下して床に寝転がりながら、由美子のことを考えていた。

『由美子、帰って来ているのに何で連絡よこさないんだろう……やっぱり、見送りに行かなかったこと怒ってるのかなぁ』

 ぼんやりと眺めている写真の中では、由美子が満面の笑みを見せている。四年生になったばかりの始業式に皆で撮った写真……この時は由美子がいるのが当たり前で、まもなく別れの日が来ることを誰も知らない。

「マコト、そろそろお昼にするから降りてきなさい」

 母の声が聞こえると、誠はリビングに出向いて面倒くさそうに昼食の準備を手伝った。

「そう言えば淳平君、由美子ちゃんが来ているから伝えてって言っていたわよ」

「え、淳平が由美子と会ったの?なんだよ、もっと早く言ってよ!」

 誠は戸棚から取り出した食器を乱暴にテーブルの上に置くと、肝心なことを伝えていなかった母を咎める。

「だって、さっきは『あっ、そう』って言ったまま、部屋に入っちゃったじゃない」 

 不貞腐れる母の手からは、硝子作りの器に盛り付けられた素麺がテーブルに置かれる。

「今日、花火大会だから来たんじゃない?毎年みんなで行っていたもんね……それにしても黙って来たら、お母さんも心配するのに」

 母はそう言いながら椅子に座ると、箸でつまんだ葱と生姜を麺つゆの中へ入れて、音を立てながら素麺をすすり始めた。

 母が箸を刺すと、素麺を冷やしている氷が逃げるように器の淵へ避ける。それが溶けて水と同化する様子を見ながら、誠は昨年の出来事を思い出した。

 四年生の一学期が終わる終業式の日に、担任から由美子が転校するのを知らされた。今年も皆で花火大会に行こうと約束までしていたのに、その前日に福岡へ引っ越すことを由美子は隠していたのだ。

 それを聞いて腹を立てた誠は、別れを言うこともないまま由美子は堀切から去って行った。


「花火行くなら、ちゃんと町内会の人達と一緒に行きなさいよ」

 誠は母の言うことに耳を傾けず、器の中でぐったりとしている素麺をぼんやりと見ている。

「ちょっと、ちゃんと聞いているの」

「わかってるよ!いちいちうるさいなぁ」

 乱暴な口の利き方は今に苛立っているわけでなく、過去の自分が由美子にとっていた態度を後悔して、母に八つ当たりするだけだった。

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