第20話 しっと
口には出していないけど、翡翠ちゃんはここに戻ってくるつもりだ。
そして、時間を掛けるつもりもない。
勇気を振り絞った森田くんには申し訳ないと思いつつ内心ではホッとしている。
わたしが翡翠ちゃんの恋愛についてとやかく言う権利はないのに。
さっきまで翡翠ちゃんが座っていた椅子にそっと手を置くとほのかな温もりが伝わる。
わたしと恋人繋ぎをしていた翡翠ちゃんの体温。
夢でも幻でもない。わたし達は本当に手を繋いでいたんだ。
その実感を噛み締める。
「翡翠ちゃんの教科書って見てるだけで頭がよくなりそう」
熟語や文法の説明が欄外に小さい字でびっちり書かれている。
教科書さえ読めば授業の復習ができる優れものだ。
わたしだってしっかり……たまに抜け落ちているところはあるけどノートは取っている。
カバンから自分のノートを取り出して教科書と見比べる。
同じことを書いているはずなのに、なぜか翡翠ちゃんの文字に惹かれて目を奪われる。
視界に、頭に入ってくるのは翡翠ちゃんの文字だ。
ささないなことでも翡翠ちゃんを求めてしまう。
「早く戻ってきてよ」
空調の音でかき消されそうな程のか細い声がぽつりと漏れる。
寂しくて不安で堪らない。
もし翡翠ちゃんに彼氏ができて戻ってきたらわたしはもう用済み?
恋愛の練習台なんていらなくなって、ただの友達として過ごしていく。
さっき感じたあのトキメキを胸に秘めて生きていく。
消化不良のままモヤモヤと永遠にくすぶり続けて、この先わたしに彼氏ができても消えることのない小さな灯。
翡翠ちゃんを信じて見送ったはずなのに、わずかな可能性に震える。
人生にはいろいろな『もしも』があって、その中から一つを選んで先に進んでいく。
わたしのとって嬉しい『もしも』が翡翠ちゃんの幸せに繋がる『もしも』とは限らない。
二人が一緒に幸せになれる選択肢なんて最初から存在しないのかもしれない。
わたしと翡翠ちゃんは女の子だから。
「あ」
教科書とノートを机に広げてまるで勉強しているようだけど、実はただうなっているだけ。
翡翠ちゃんに戻ってきてほしいと願っていたのにちょっと間が悪いせいでサボっていたのがバレてしまった。
「こういう時間に分からないところを整理しておいてくれると教えがいがあるのだけどね」
「あはは。なんと言いますか翡翠ちゃんのことが気になっちゃって」
「私が悪いみたいに聞こえたのだけど勘違いかしら」
「そんなことはないです。わたしが悪いです。はい」
冷たい目で見下ろされるとドキドキしてしまう。
まるで翡翠ちゃんに支配されているみたいな感覚がゾクゾクと体に広がる。
やっぱりわたしってMなのかな。
「さ、今度こそ勉強を始めるわよ」
何事もなかったかのようにわたしの隣に座る。
まるでお手洗いにでも行ってきたいみたいに、特別なことは何もなかったように。
本当は森田くんとどんな話をしたのか聞きたくて仕方がない。
でも、ここで何も聞かなければわたし達の関係に変化は訪れないはず。
進みもしないし、後ろにも行かない。
恋愛の練習台として付き合うことを保留し続けて友達のままでいられる。
「これだけ休憩したからもうやる気ばっちりだよ」
「そうでなければ困るわ。最終手段を使うしかなくなってしまうもの」
「最終手段?」
わたしが聞き返すと翡翠ちゃんは何も言わずに冷たい笑いを浮かべる。
顔はにっこりとしているのに目が怖い。
髪で隠れなくなって表情がよく分かるようになったから怖さ百倍だ。
「ねえ、最終手段ってどんなの?」
「今から勉強するのだから夜夏には関係のない話よ。最終手段なのだから」
「き、気になるな~」
もしこれ以上勉強を拒否したら翡翠ちゃんはわたしに何をするつもりなんだろう。
例え酷い目に遭うとしても翡翠ちゃんにならされてもいい。
そんな風に考える自分はやっぱりMなんだと思う。
「森田くんから告白されたわ」
「へ、へえ」
何の脈絡もなく翡翠ちゃんは言った。
森田くんのあんな表情を見れば告白であることは予想できたのでたいして驚きはしなかったけど、予想通りでも告白というイベントは青春においてすごく重要な意味を持つ。
来ると分かっていても平常心を保ち続けるのは無理だった。
「あなたが気になると言ったから教えたのに反応が薄いわね」
「わたしが気になるって言ったのは最終手段の方だよ」
「あらそう。勘違いしてしまったわ。余計なことを喋ってしまったわね」
告白されたことを告白したのに翡翠ちゃんの顔色は一切変わらない。
知らない人に道を尋ねられたくらいのテンションで語る彼女の横顔は冷たくて美しい。
恋愛に興味がなさそうな顔をしているのに、お兄ちゃんを好きになった経験がある。
そのギャップが
「なんかすごく普通に語るよね。他人事みたいっていうか」
「他人から告白されたのだから他人事でしょう」
「うわぁ。さすがに森田くんが可哀想だよ」
「あまりよく知らないクラスメイトに告白された私も可哀想だと思うのだけど」
たぶん翡翠ちゃんは本気でそう思っている。
自分の顔や体が魅力的であることを分かっているから、それを目当てに告白された自覚がある。
翡翠ちゃんの内面を見ずに告白されたのだから、その意見も一理ある。
「それじゃあ告白は断ったんだ?」
「ええ。本当は『あなたのことを知らないから』と言うつもりだったのけど、最大限に相手を尊重して『他に好きな人がいるから』と伝えたわ」
「尊重してることになってるのかなぁ」
腕を組んでうんうんと悩んでも答えは出ない。
自分に置き換えて考えても、お兄ちゃんから『お前のことなんて知らない』と言われるシチュエーションは記憶喪失くらいだ。
つまり森田くんは恋愛の大事な過程を飛ばしてしまったんだ。
お兄ちゃんが百井先輩と積み重ねたようなものが翡翠ちゃんと森田くんの間にはなかった。
中には軽い気持ちで告白して付き合う子もいるみたいだけど、残念ながらわたしの翡翠ちゃんはそんなに尻軽じゃない。
……わたしの?
「好きの反対は無関心と言うでしょう。無関心ではなく、あくまで他に好きな人がいると伝えたのよ」
「冷静に解説されても森田くんが可哀想に思える」
「なら
「お兄ちゃんに失恋した翡翠ちゃんは簡単に落とせなかったじゃん」
「なかなか鋭い指摘ね」
そしてそれはわたしにも言えることだ。
だからわたしは釜瀬くんと一瞬だけ付き合ったし、でもやっぱり好きになりきれなくて拒絶してしまった。
翡翠ちゃんのことを言えた義理ではない。
一度付き合っておいて拒絶するなんて、わたしの方が相手の心を傷付けている。
「失恋した直後なら誰でも好きになるなんて、そんなはずないのにね」
「むしろわたし達、お兄ちゃんへの想いを断ち切れてないしね」
「ええ、だから私、『
その言葉に心臓をギュッと掴まれてしまった。
翡翠ちゃんがお兄ちゃんを好きなことは知っているはずのに、こうして改めて言葉にされるとグサりと突き刺さる。
お兄ちゃんと翡翠ちゃんが出会わなければこうして仲良くなることはなかったのに、今は二人が出会わなければ良かったと考えてしまう。
わたし達の関係を根本から覆してしまう『もしも』の話。
そんな『もしも』が現実になったら、今こうして翡翠ちゃんの隣に居られないかもしれないのに。
『もしも』それでもわたしの隣にいるのだとしたら、それはきっと運命だ。
抗うことができない運命ならば、わたしはそれに従う。
「森田くんはそれで納得してくれたんだ?」
「ええ、高月先輩は有名だから」
「そうなの?」
「誰のせいだと思っているのよ。毎日毎日お兄ちゃんお兄ちゃんってベタベタくっ付いてるブラコンの妹が有名人なら、その兄だって存在が知れるでしょう」
「そうだったんだ」
わたしがブラコンだという話は家庭の事情も相まってみんなに知られているし理解も得ている。
だけど反対に、お兄ちゃんがシスコンという噂は耳にしたことはない。
今の今までそんなことを考えてもしなかった。
周りから見ても、わたしからお兄ちゃんに一方通行だったんだ。
そうでなければ
シスコン手前の、ただ面倒の見の良いお兄ちゃんなら恋愛対象として捉えることができる。
「お兄ちゃんがそんなに有名ならさ、百井先輩と付き合ってることも森田くんは知ってるよね。翡翠ちゃんが失恋したことも分かっちゃう」
「そうね。だから森田くんは食らいついてきたわ。失恋したんだから俺でもいいじゃないかって」
「失恋って、他の人から見るとそうなのかな」
「体目的の男にとってはチャンスにしか見えないのでしょうね」
「……なんだか寂しいね」
「ええ」
わたしと翡翠ちゃんは目を合わせない。
森田くんの言動を完全に否定できるほど、失恋した気持ちと真っすぐに向き合っていないから。
お互いに体を求め、偽りの恋人として心に開いた穴を埋めようとしたから。
自分達のことは棚に上げて、男子であることを理由に批判する権利はない。
女の子同士なら許されるわけでもない。
「今、夜夏は高月先輩、お兄さんをどう思っている?」
「どうって? 好き……かな。前よりは好き具合が落ち着いてるけど、お兄ちゃんはお兄ちゃんだから」
「夜夏は好きの方向を変えればその気持ちを発散できる。でも、私は違う。先輩は出会った時から先輩で、これからも先輩。先輩として好きになって、後輩として失恋した。永遠にこの関係は変わらない」
失恋した相手との関係をリセットではないけど、心機一転できるわたし。
その代り、死ぬまで兄妹としての関係が続いていく。
叶わなかった初恋が人生の線として伸びていく。
失恋した相手と距離を取れる翡翠ちゃん。
その代わり、環境が変わったらよほどのことがない限り会うことはできない。例えば卒業、例えば就職、例えば結婚。
叶わなかった初恋が人生の点として刻まれる。
どちらが幸せなのかはその人の価値観による。
失恋の時点で幸せではないけど、わたしはお兄ちゃんの妹で良かったと思う。
「私も高月先輩の妹なら良かった。そしたら恋心を抱かずに、仲の良いだけの兄妹になれたかもしれないのに」
翡翠ちゃんの願望が胸にチクりと刺さる。
その願いは遠からず叶っているのだから。
お兄ちゃんは翡翠ちゃんを妹みたいな存在として見ている。
この事実を伝えたら翡翠ちゃんの心は軽くなるだろうか。
それとも、叶わぬ夢がさらに増えて絶望してしまうだろうか。
相談したい相手は張本人だ。
わたしが自分で考えるしかない。
「お兄ちゃんの妹は大変だよ? この前も自分でお弁当のおかずを詰められなかったし」
「先輩は料理できないの?」
「うん。いつもわたしがやってる」
翡翠ちゃんの表情が神妙なものになる。
顎に手を当て真剣に考えている。
料理できないコンビの兄妹となれば食事が大きな問題になる。
ふふふ。だてに長いこと妹をやっていないのだよ。
「夜夏だって最初から料理ができたわけではないでしょう? 環境的に追い込まれれば私にもできると思うわ」
「うわっ! すごい自信」
「夜夏にできて私にできないはずがないもの」
「微妙にバカにしてる!」
こんな毒づく妹がいたらお兄ちゃんの心労が絶えないと思う。
やっぱりお兄ちゃんの妹はわたししかいない。
だから、あのことはずっと秘密にしておこう。
翡翠ちゃんが新しい恋を見つけたらと考えていたけど、もう忘れてしまえ。
「ああ、でも。妹が一人である必要はないわよね。夜夏と私が姉妹なら、二人で先輩の妹になれる」
「う~ん。夜夏ちゃんが妹かあ。ちょっとピンと来ないかも」
同い年の友達が妹になるというのはどうにも想像しにくい。
それに翡翠ちゃんがわたしに甘えてくるところも。
「何を言っているの? 私が姉であなたが妹でしょう」
「妹歴はわたしの方が長いんだからわたしがお姉ちゃんだよ」
「戸籍上はそうだとしても実質的な姉は私よ。それは間違いない」
翡翠ちゃんはわたしの頭をグッと自分の胸に抱き寄せる。
まるであの日のお風呂みたいに。
「こうして私の胸の中で甘えていると、自分の方が妹だと思えてこない?」
もうダメだ。降参だ。
こんなお姉ちゃんがいたら毎日甘えてしまう。
素直になろう。わたしは翡翠ちゃんのおっぱいの中で首を縦に振った。
「私達、どんな風に出会っていれば幸せだったのでしょうね」
「…………」
何も言葉が思い浮かばず、わたしはおっぱいの中で沈黙を貫く。
周りの状況は見えない。
翡翠ちゃんのことだから警戒はしてくれてるはずだけど、もしこんな所を誰かに見られたらもう学校に来られない。
そんな背徳感が余計にわたしの鼓動を早くした。
「高月先輩の恋人になれていれば、こんなことにはならなかったのに」
だけど、この一言で血の気が一気に引いていく。
今翡翠ちゃんの胸の中にいるのはわたしなのに、翡翠ちゃんはお兄ちゃんのことを考えている。
こんなにも翡翠ちゃんの心を縛り続けることができるお兄ちゃんに嫉妬した。
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